第95話 異端、剣に選ばれぬ男
ざわめきが、じわじわと広がっていく。
「お、おい……」
「エレノアが異常だっただけか……?」
「なんなんだ、あの剣……」
観客席の空気は、熱を失っていった。
期待はあった。
だが、その期待が砕ける音を、誰もが聞いてしまったのだ。
エレノア以降、五人連続で脱落。
剣に触れることすら許されない。
その事実が、参加者たちの足を縫い止めていた。
誰も前へ出ない。
いや、出られない。
あの剣は、ただの試験ではない。
触れた瞬間に、何かを見透かされる。
そんな得体の知れない圧が、闘技場全体を覆っていた。
そんな中。
ただ一人。
黒装束の女だけが、静かに微笑んでいた。
半面の仮面。
その奥で細められた瞳は、まるでこの結末を最初から知っていたかのようだった。
そして。
「――次」
ジークレッドが告げる。
だが。
誰も動かない。
先ほどまでの威勢は、跡形もなく消え失せていた。
触れれば終わる。
戦う以前の問題だ。
その沈黙は、重かった。
誰かが息を呑む音さえ、やけに大きく響く。
その時だった。
コツ。
コツ。
コツ。
静かな足音が、闘技場の床を叩く。
それは騒ぎの中に落ちた一滴の水のように、妙に鮮明だった。
ゆっくりと、一人の男が前へ歩み出る。
自然な歩幅。
気負いもなければ、見せつけるような威圧もない。
ただ、そこに向かっているだけ。
それなのに。
空気だけが、確かに変わった。
濃紺のロングコート。
肩には純白のウルフファー。
左腕は、漆黒の革手袋に覆われている。
その姿は派手ではない。
だが、場違いなほど静かで、場違いなほど冷たかった。
「……あの男」
ストーリアが目を細める。
「知ってるのか?」
ルシアが尋ねる。
「名前くらいなら」
静かに答えた。
「ダーレン・アイスィ・クレイル」
その名が落ちた瞬間。
エルドの眉がわずかに動く。
「……ほう」
リールーも息を呑んだ。
「知ってるの?」
リフルが問う。
「冒険者というより……災害に近い人物です」
リールーは淡々と続ける。
「単独で高難度依頼を幾つも成功させています」
「極北の魔獣討伐」
「氷竜の討滅」
「魔境踏破」
「どれも本来なら複数のSランクパーティで挑むような依頼です」
ルシアが思わず口笛を吹く。
「そんな化け物が、なんでこんな試験に来てるんだよ」
誰も答えられない。
答えようとする者すらいない。
ダーレンは、周囲の視線を意に介した様子もなく歩き続けていた。
その歩みには迷いがない。
だが、急ぎもない。
まるで最初から、そこへ立つことだけが決まっていたかのようだった。
やがて彼は、キラーの前で立ち止まる。
その瞬間、場の空気がさらに沈む。
観客席のざわめきが、嘘のように遠のいた。
ジークレッドが問う。
「名を」
「ダーレン・クレイル」
短い返答。
余計な言葉はない。
エクレールが肩をすくめる。
「随分無愛想ね」
返事はない。
ダーレンはただ、静かにキラーを見つめていた。
まるで一振りの剣ではなく、一つの現象を観察するように。
その視線は冷たい。
だが、無関心ではない。
何かを測っている。
何かを見極めようとしている。
ドクン。
キラーが脈打つ。
同時に。
ルシアの腰のスレイヤーも、小さく震えた。
(……なんだ?)
これまでとは違う。
呼応ではない。
共鳴でもない。
互いを警戒し合うような、張り詰めた感覚だった。
剣と男が、言葉を交わす前に互いの本質を探り合っている。
そんな、あり得ない気配。
ダーレンはゆっくりと右手を伸ばす。
その動きすら、妙に静かだった。
そして柄を握った。
ドクン――。
キラーが大きく脈打つ。
だが。
誰も倒れない。
誰も叫ばない。
異変は、別の形で現れた。
ダーレンの足元から、白い霜が広がっていく。
地面が凍る。
冷気は一気に闘技場を這い、観客席にまで届いた。
吐く息が白く染まる。
肌を刺すような寒気が、じわりと広がる。
キラーが放つ禍々しい殺気。
それを押し返すように、静かな氷の魔力が満ちていく。
二つの力が、声もなくせめぎ合う。
激突ではない。
だが、だからこそ恐ろしい。
音のない圧力が、空間そのものを軋ませていた。
ダーレンは目を閉じた。
数秒。
何かを確かめるように、ただ黙って立ち続ける。
闘技場は、水を打ったように静まり返った。
誰も息をするのを忘れていた。
やがて。
「……そういうことか」
小さく呟く。
そして、自ら静かに手を離した。
その瞬間、張り詰めていた空気が一気に揺れる。
「え?」
「終わりか?」
「どういうことだ?」
エクレールが首を傾げる。
「どうしたの?」
「続けないの?」
ダーレンは初めて、わずかに笑った。
冷え切った笑みだった。
「理解しただけだ」
「何を?」
エクレールが問い返す。
ダーレンはキラーを見下ろしたまま答える。
「この剣は」
一拍。
「俺を求めていない」
静寂。
誰も意味が分からない。
だが、その言葉だけは、妙に重く落ちた。
ジークレッドだけが、黙って聞いていた。
「面白い剣だ」
ダーレンは静かに続ける。
「殺意を糧としている。だが、それだけではない」
「この剣には、明確な意思がある」
ルシアが思わず身を乗り出す。
「俺では駄目だ」
「俺の力とは相容れない」
そう言うと。
彼はあっさりと背を向ける。
「辞退する」
観客席がどよめいた。
「はぁ!?」
エクレールが思わず声を上げる。
「アンタ、合格よ?」
「戦わないの?」
ダーレンは肩越しにだけ答えた。
「戦う意味がない」
「この剣を得ても」
「俺は強くならん」
その声に、迷いはなかった。
断言だった。
剣を前にしてなお、彼は一歩も揺れない。
むしろ、剣のほうが彼を拒んでいるようにすら見えた。
彼はそのまま、人混みの中へ戻っていく。
誰も引き止められない。
その背中を見送りながら。
黒装束の女だけが、仮面の奥でわずかに口元を歪めた。
まるで。
その答えを、最初から知っていたかのように。




