第73話 残響、立ち止まる者たち
書物庫の中は、時間が止まっているかのようだった。
高い天井から吊るされた灯りは淡く、埃がゆっくりと光の中を漂っている。壁一面を覆う書架は果てが見えず、どこまで行っても同じ景色が続いているような錯覚を覚えた。
さっきまでの戦場の轟音が、嘘のように遠い。
「……ルシアさん。その剣ですが、少し拝見してもよろしいでしょうか?」
静かな声で、リールーが言う。
「あ、これ? いいけど……気をつけてくれ。重くて死にそうになるから。あと、何が起きても自己責任で頼む」
「いえ、近くで見るだけで構いません」
リールーはルシアに近づき、そっと腰を下ろすと、スレイヤーを覗き込んだ。
「……これは……とても興味深いですね」
小さく息を呑む。
「この、赤とも黒とも言えない濁った色……あの“キラー”とは明らかに質が違います。ですが、同じく――ドラゴンと深く関わるものなのでしょう」
「さすがですな、リールー殿」
エルドが感心したように頷く。
「見事な観察眼です」
「リールーは司祭のスキルもあるから。鑑定もできるんだよね!」
ストーリアが笑顔を向ける。
「いえ……エルド様の前で司祭などとは、少々気が引けますが……」
「でもすごいわよ! エルドなんてお守り作れないじゃない!」
リフルがすかさず口を挟む。
「それに、あのダンジョンからも脱出できなかったし!」
「これは……痛いところを突かれましたな」
エルドが苦笑する。
リールーは静かに首を振った。
「いいえ。エルド様は魔法にも長けていらっしゃいます。私は詠唱魔法が扱えませんから……お守りという形でしか力を行使できないのです」
一度言葉を区切る。
「魔法とは、知識と経験、魔力……そして何より、“言葉”を紡ぐことで力を引き出すものですから」
「エルド、すごいじゃない!」
「相変わらずね、リフルは……」
ロゼリアが軽くたしなめる。
その空気の中で、リールーの視線は再び剣へと落ちた。
「……それにしても、この剣……ひとつ気になる点があります。この“眼”のようなものは……」
刀身に浮かぶ、閉じた裂け目。今はただの歪みにしか見えないそれを、指さす。
「ああ、多分それ……“眼”か“口”だ」
「……やはり」
リールーの声がわずかに低くなる。
そのとき、ルシアがぽつりと呟いた。
「さっきの戦い……俺は何もできなかった」
視線は剣に落ちたまま。
「フェリオスみたいに……狂ったみたいに斬れたら、どれだけよかったか」
「ルシア……」
ロゼリアが、静かにその名を呼ぶ。
「ドラゴンスレイヤーなんだろ、これ……? なんで、殺せないんだよ……」
言葉が、重く落ちる。
「……何かありますな。この剣は」
エルドが低く呟く。
「まあ、今はその話はいいじゃない」
空気を切り替えるように、ストーリアが口を開く。
「それより……」
「静かすぎるわね」
リフルがぽつりと呟いた。
その声が、不自然に響く。
「防音結界が張られています」
リールーが答える。
「外の影響は、ここには届きません」
「便利ね、それ」
軽く言いながらも、リフルの視線はフェリオスに向いていた。
床に横たわる青年は、微動だにしない。
呼吸はある。だが、それだけだ。
「……深い昏睡状態ですな」
エルドが脈を取りながら言う。
「肉体の損傷は軽微……しかし精神が、深層に沈んでいる」
「戻ってこれるの?」
リフルの問いに、エルドはわずかに間を置いた。
「……断言はできかねますな」
沈黙が落ちる。
それを破ったのは、ユシャーンだった。
「原因は、あの剣だな」
全員の視線が向く。
床に置かれた“ドラゴンキラー”。
誰も触れようとしない。
「……触れただけで、ああなったのか」
「正確には、“侵食”ですな」
エルドが補足する。
「精神へ直接干渉する類の力……しかも、極めて強い」
「……嫌な感じ」
リフルが顔をしかめる。
「それ、“持ってるだけでアウト”なやつじゃない?」
軽口のようでいて、本音だった。
ロゼリアは、自分の手を見た。
(……熱かった)
あの瞬間。
ただの熱ではない。
焼かれるというより――内側に流し込まれるような感覚。
「……大丈夫なの?」
ストーリアがそっと尋ねる。
ロゼリアは少しだけ間を置いて答えた。
「ええ」
嘘ではない。
だが、完全な本音でもない。
「嫌な感じはしたわ。でも……あの時は、ああするしかなかった」
「……うん」
ストーリアが頷く。
「フェリオスを助けてくれて、ありがとう」
ロゼリアは頷き、わずかに視線を逸らした。
――そのとき。
(……あれ)
違和感。
ロゼリアの視線が、ふと横へ流れる。
ルシア。
壁に背を預け、座り込んでいる。
一見、ただ疲れているだけ。
だが――
(……違う)
呼吸が浅い。
剣を握る手に、力が入りすぎている。
そして何より。
動いていないのに、動いているように見える。
錯覚のような違和感。
だが、見過ごせない。
「ルシア?」
「……あ?」
わずかに遅れて返事が返る。
「大丈夫?」
「……ああ。ちょっと疲れただけだ」
短く言って、視線を逸らす。
ロゼリアは、それ以上踏み込まなかった。
(……今は、いい)
確証がない。
そして今は、それを広げるべきではない。
「それにしても……あのドラゴン」
リフルが吐き出すように言う。
「あんなの、どうやって倒すのよ」
誰も答えない。
「……攻撃が通ってなかった」
ユシャーンが低く言う。
「斬れている感触がない」
「ええ」
ロゼリアも頷く。
「刃は入ってる。でも、“届いていない”」
「表層の問題ではありませんな」
エルドが続ける。
「おそらく、“存在強度”の差です」
「何それ」
「簡単に言えば――“格が違う”ということです」
その一言で、全員が黙った。
納得できてしまう説明だった。
「……とにかく、俺たちはまだ動ける」
ルシアがぽつりと口を開く。
「このまま何もしないってのは、性に合わない」
「無理よ」
ロゼリアが即座に返す。
「今の私たちじゃ、あれには届かない」
「……分かってる」
ルシアは短く答える。
だが――言葉は続かない。
代わりに、剣を強く握る。
(……増えてる)
はっきりと分かる。
さっきよりも。ここに来てから。
“何か”が増えている。
理由は分からない。正体も分からない。
だが――
(……気持ち悪い)
それだけは、確かだった。
視線が、無意識に動く。
フェリオス。仲間たち。
誰も気づいていない。
普通に会話している。
それが、逆に異様だった。
(……俺だけかよ)
剣の奥で、何かが脈打つ。
まるで――
「まだ足りない」とでも言うように。




