第64話:遠雷の崩落と見えざる影
最初に異変に気づいたのは、誰でもなかった。
と言うよりその場にいた誰もが感じた異変。
ただの“音”だった。
遠くで、何かが崩れる音。
ゴゴ……と、地の底を擦るような低い響きが、街の外縁から微かに伝わってくる。
ギルド酒場の中。
その音に誰もが顔を上げた。
「何だ何だ!」
口々に発するただ事ではない声
「おい……今の、何だ?」
ユシャーンが眉をひそめる。
だが、答えはない。
ただ、もう一度。
ゴゴゴ……ッ。
今度は、少しだけ近い。
床の木材が、テーブルの食器が、わずかに軋んだ。
「地震……?まさかね。ここは歴史においても地震の類は殆ど聞かないし…」
ティアが不安げに呟く。
だがストーリアは、首を横に振った。
「違うわ!これは、揺れじゃない!何かが削れている!どこかが」
現実そのものが、削り取られているような感覚。
その時だった。
酒場の扉が、勢いよく開いた。
「おい! 外、見ろ!!」
息を切らした冒険者が飛び込んでくる。
顔は蒼白、言葉は乱れている。
「森が……崩れてる! いや、違う、消えて――」
最後まで言い切る前に、再び轟音。
「ズズン!ズドーン!バキーン!」」
重い質量が、どこかへ叩きつけられるような音。
「……みんな、行くぞ!」
ユシャーンが短く言い、駆け出す。
誰も止めない。
全員が、すでに理解していた。
ただ事ではない。
扉を勢いよく叩き外へ出る。
夜の空気が、異様に冷たい。
風は吹いていないのに、木々がざわめいている。
街の外れ――森の方向。
そこだけが、不自然に暗い。
「……あれ」
ルミナスが、震える声で指差した。
誰もが、同じ方向を見る。
森の上空。
本来ならば星が見えるはずの夜空。
そこに――
“何か”がある。
輪郭がない。
形も、はっきりしない。
だが、
確かに“空が歪んでいる”。
巨大な何かが、そこに“在る”ことで、
背景そのものが引き裂かれているようだ。
そして――
遅れて、影が落ちた。
地面に。
森に。
街の外縁に。
「グオォォォーン!」
雄叫びのような巨大な存在。
それは翼のようであり、そうでない何か。
定義できない巨大さ。
ただ一つだけ、分かる。
「上にいるわ!」
ストーリアが見上げる
ゴゴゴゴ……。
再び、崩壊音。
森の一部が、音もなく押し潰される。
木々が、なぎ倒されるのではない。
“消される”。
そこにあったはずのものが、存在ごと削られていく。
「……なんだよ、あれ……」
ユシャーンの声が掠れる。
誰も答えない。
答えられない。
フェリオスだけが、一歩、前に出ていた。
手には、あの魔剣。
黒紫の刀身が、淡く脈打つ。
ドクン。
その音に呼応するように、
空の“歪み”が、わずかに脈動した。
まるで、
見えない何かが、こちらを“認識した”かのように。
フェリオスの口が、わずかに動く。
「……来た」
その声は、確信だった。
同時に。
空が、裂けた。
いや、そう見えただけかもしれない。
歪みの中心が、ほんの一瞬だけ“形”を持つ。
それは、巨大な“眼”のようにも見えた。
瞬きのような、極めて短い現象。
だが、その瞬間――
全員が、理解した。
あれは、こちらを見ている。
ドクン。
魔剣が、強く脈打つ。
その振動が、フェリオスの腕を通じて、全身に広がる。
「……っ」
一瞬だけ、膝が揺れる。
だが、倒れない。
そのまま、前を見る。
空を。
影を。
「……あいつだ」
静かに、呟く。
その言葉に、誰も反論できなかった。
理由はない。
だが、分かる。
あれが、
“ドラゴン”だ。
次の瞬間。
轟音と共に、森の一角が完全に消失した。
土も、木も、空気すらも。
そこにはただ、削り取られた“空白”だけが残る。
遅れて、衝撃波が街を叩く。
同時に灼熱の炎が街を襲う。
窓が割れ、
看板が吹き飛び、
人々の悲鳴が、ようやく夜に満ちた。
「……嘘だろ……」
誰かの声。
だが、それすらも小さい。
なぜなら、
それはまだ、
ほんの“前触れ”に過ぎなかったからだ。
空の影は、動いていない。
ただ、そこに在るだけで、
世界が壊れていく。
そして、
その中心は――
ゆっくりと、
こちらへ向き始めている。




