第63話 接続者の器。あるいは影の門
ギルド酒場を、沈黙が貫いていた。
そこにいる者、全員が誰も動かない。
いや、動けない。
椅子は倒れ、酒は床に広がり、ランタンの灯りだけがかすかに揺れている。
それでも、誰一人として音を立てようとはしなかった。
天井に広がった暗黒は、すでに消えている。
だが、その“残滓”だけが、確かにそこに在った。
空気が異様に重い。
息を吸うたび、肺の奥がわずかに軋む。
逃げ出したくもあるようなヒリついた感覚。
そっと目を見開いたまま、床に横たわるフェリオス。
その傍らに、存在を誇示するように浮かぶ、
黒紫の魔剣。
恐らく『DRAGON KILLER』
静かに脈打っている。
誰もが目を離せずにいる。
ドクン。
ドクン。
それは音ではなく……
床に散った酒の表面が、わずかに波打つ。
空間そのものが、微かに歪んでいる。
「……っ、は……」
フェリオスの喉から、浅い息が漏れた。
ようやく指先が動く。
ゆっくりと。
無意識に。
それを見たユシャーンが、反射的に一歩踏み出しかける。
「お、おいフェリオス!待て――」
だか、彼は声にならない。いや、できない。
それほど空気が、重すぎた。
何かを発すれば、それに切られてしまう。
そんな感覚といえば良いのか。
フェリオスは、ただ“そこにあるもの”へ手を伸ばす。
自らが選んだわけではない。
だが、
避けるという選択肢が、最初から存在しなかったかのように。
慣れた仕草で――触れる。
その瞬間。
世界が、震えた気がした。
音が消える。
光が消える。
感覚が消える。
暗黒。
底がない。
果てがない。
だが、それは無ではない。
濃すぎる。
満ちすぎている。
押し寄せる闇と殺戮の思念。
殺れ、殺れ、殺れ……
無数の断片。
ただ純粋に――
斬る。
断つ。
裂く。
それだけのために最適化された“感覚”が、言葉を介さず流れ込んでくる。
血の匂いすらない。
痛みもない。
ただ、結果だけがある。
誰かの記憶ではない。
だが確かに、“人の到達点”。
最短距離。
最小動作。
最大効率。
すべてが、理解として刻み込まれていく。
拒絶しようとする。
だが――できない。
理解してしまうからだ。
「――まだ、足りない」
声。
内側から響く。
フェリオスの呼吸が止まる。
恐怖ではない。
これは、
“使わなければならない”
その認識が浮かんだ瞬間、
世界が弾けるように戻った。
音が雪崩れ込む。
グラスが転がる音。
誰かの荒い呼吸。
遠くで誰かが椅子にぶつかる音。
視界が開ける。
フェリオスは、ゆっくりと起き上がっていた。
魔剣を、ただ握っているのではない。
深く深く沈んでいる。
手の中に、当然のように“在る”。
周りの誰もが、ずっとその光景を見ている。
フェリオスは数度瞬きをし、自分の手を見た。
黒紫の刀身。
脈打つそれ。
「……なんだ、これ。とても美しい」
呟き。
その声には、ほんのわずかに温度が欠けていた。
次の瞬間。
フェリオスの右腕が自然に動く。
まるで演舞の如き動作で振りかぶる。
振る。瞬間、消える。
それだけの動作。
だが、空気が裂けた。
見えない刃が、一直線に走る。
酒場の石壁が、音もなく削り取られる。
粉塵が、遅れて舞い上がる。
深い亀裂。
誰も何も理解できない。
何をしたのか。
どうやったのか。
フェリオス自身でさえ。
ただ一つだけ、分かる。
「……すごく、振りやすい」
その一言が、場を凍らせる。
ユシャーンが一歩踏み出しかけ――止まる。
本能が告げていた。
それはもう、同じ位置にいない。
「フェリオス……お前、それ……」
言葉が続かない。
フェリオスは首を傾げた。
「わかんねぇよ」
正直な声。
だが、その奥に、わずかなズレがある。
視線が、遠くを見ている。
“別の何か”を同時に認識しているかのように。
「……違う」
その時。
ストーリアの声が、静かに落ちた。
誰もが彼女を見る。
一歩、踏み出す。
靴が、床の酒を踏み、微かな水音を立てる。
視線はフェリオスから逸らさない。
「フェリオス、キミは選ばれたんじゃない」
ストーリアの言葉に、皆がピクっと反応する。
ストーリアは呼吸を整える。
そして、言い切る。
「――キミは、“器”よ」
空気が凍りつく。
「ええ。だから、よく聞いて。フェリオス、みんなも」
声は冷静だった。
あまりにも冷静すぎた。
「私たちは、あの時、あの地下で採掘していた」
「青い水晶を。ただの清掃として」
ユシャーンの顔が歪む。
「あれは……ただの――」
「でも、違ったのよ」
即座に断ち切る。
「あれは“残滓”。キラーの思念の欠片」
沈黙。
「残滓だと?」
「まるで呼ばれていた」
「深く潜るほど、確信に近づいていく感覚」
「掘らされていたのよ、私たちは」
誰かに。
何かに。
「そこに、我々が来た。キミが来た」
フェリオスを見る。
まっすぐに。
「偶然じゃない」
「キラーの思念が、キミに触れた」
フェリオスの呼吸が揺れる。
「なぜフェリオスなのか、理由はわからない」
「でも、同調できてしまった」
一歩、近づく。
「キミの“影”が、媒介になった」
誰かが、床に伸びる影を見る。
ランタンの揺れる光の中で、
その影が――ほんのわずかに、遅れて動いた気がした。
「気づいたのよ、あれは」
「この人間なら、具現化できるって」
言葉が、冷たく落ちる。
「だから、おびき寄せた」
「地下六層へ」
霧。
アレは初めの接触ね。
圧迫。
ここで観察されたのね。
誘い。
逃げ場のない空間へ誘われた。
「キミは包まれた」
「そして、条件が揃った」
フェリオスの喉が鳴る。
「地上に戻った時点で」
「もう決まっていたのかもしれない」
逃げ場のない結論。
「そのあとキミは、福引きを回した」
偶然の顔をした必然。
「……回させられたのよ」
断言。
「誘導された」
沈黙。
重い。
逃げられない沈黙。
「でも、……なんで俺なんだよ」
絞り出す声。
ストーリアは首を振る。
「わからないわ……」
だが、目は逸らさない。
「でも一つだけ、確かなことがある」
魔剣を見る。
脈打つそれを。
「キラーは、必ずドラゴンを屠る。
いや、屠らなければならないのよ」
ドクン。
応えるように、脈動。
「何故なら」
息を吸う。
そして、
言い切る。
「伝説が、そう定義しているから」
静寂。
フェリオスの視線が、ゆっくりと外へ向く。
壁の向こう。
街の外。
さらに、その先。
「……あっちらしい」
ぽつり、と。
その声は、呼ばれているようだった。
ドクン。
魔剣が、強く脈打つ。
その振動で、床の酒がわずかに波紋を描く。
その音は、
この場ではなく、
どこか遠くへと、確かに届いていた。
何かが、応えた。
まだ誰も見ていない“それ”が。
そして――
世界は、動きはじめた。




