第105話 破裂
黒い仮面に刻まれた亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
ピシ……。
小さな音だった。
だが、その場にいる者たちには、十分すぎるほど聞こえた。
リズベルは動かない。
ただ、右手に握ったドラゴンキラーを見つめている。
黒い刀身は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
静かだ。
それなのに。
まるで、何かを待っている。
「……」
リズベルは、僅かに息を吐いた。
仮面の奥。
その瞳が、揺れる。
怖いわけではない。
目の前の男が怖いわけでもない。
恐れているのは――。
自分自身だった。
(……来る)
胸の奥から、何かが這い上がってくる。
ずっと。
ずっと奥へ押し込めていたもの。
忘れたわけではない。
許したわけでもない。
ただ、生きていくために。
考えないようにしていただけだ。
その感情を。
キラーが、ゆっくりと引きずり出していく。
ドクン。
刀身が脈打った。
――思い出せ。
リズベルの指が僅かに震える。
――お前は、何を奪われた。
呼吸が浅くなる。
――誰を憎んでいる。
「……」
リズベルは答えない。
答えれば。
その瞬間に、何かが壊れる気がした。
だが。
キラーは待ってくれない。
――怒れ。
――もっと。
――その感情を、私に寄越せ。
ピシッ。
仮面の亀裂が、さらに伸びた。
その瞬間だった。
パリンッ――!
黒い破片が、砂の上へ落ちる。
場内が静まり返った。
初めて。
リズベルの素顔が、衆目に晒される。
だが。
誰も、その顔立ちに目を奪われることはなかった。
誰もが。
その瞳を見ていた。
右目は、青。
いつもの色。
しかし――。
左目だけが。
深い赤に染まっていた。
「……割れた」
エクレールが、最初に異変を察知する。
そして、笑みが消えた。
「……あら、これは……」
僅かに目を細める。
「少し、まずいわね」
ロゼリアは、仮面の下の顔を見て、一瞬息を呑んだ。
「……あの目」
その瞳から、視線を逸らせない。
(ザンギュラとは違う)
(怒りに飲まれている目ではない)
「怒りを……必死に押し込めているようね」
すかさず、ストーリアが呟く。
エルドも、低く一言だけ漏らした。
「……あれが、キラーの……」
その時。
ルシアのスレイヤーが、激しく震えた。
「……まただ」
誰にも聞こえないほどの声。
ルシアは剣へ視線を落とす。
(怖がってる……のか?)
(それとも、共鳴か?)
「ルシア!」
リフルの声が飛んできた。
「また自分の剣ばっか見て、少しは向こう見なさいよね」
その様子だけは、いつもと変わらなかった。
「……」
一方。
ジークレッドの目が、僅かに見開かれる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが。
ジークの脳裏には、一つの古い記憶が蘇っていた。
まだ若かった頃。
どこかの酒場で聞いた、妙な噂。
青い瞳を持つ一族。
強い感情に触れた時、その血を引く者の片目が赤く染まる。
そして――。
両目が赤くなった時。
その者は、自分自身を失う。
あまりにも荒唐無稽な話だった。
だからこそ。
妙に記憶に残っていた。
ジーク自身、その話を信じていたわけではない。
そんな一族が、本当に存在したのかさえ分からない。
ましてや。
今も血が続いているなど。
考えたこともなかった。
「……その目」
ジークが、静かに呟く。
リズベルの赤い瞳が、彼を捉えた。
「……まさか」
ほんの僅かな沈黙。
「ウォーランド……か」
その名を聞いた瞬間。
リズベルの肩が、僅かに揺れた。
肯定もしない。
否定もしない。
ただ、その反応だけで。
ジークは、それ以上尋ねることをやめた。
確信したわけではない。
だが。
昔聞いた噂と、目の前にいる女の姿が重なった。
(……あの話が、本当だったというのか)
それ以上は考えない。
今は。
目の前の剣士を見る。
そして。
その瞳に宿るものを見る。
怒り。
それだけではない。
怒りを必死に押さえ込もうとする意志が、まだ残っている。
ジークは静かに大剣を構えた。
だが。
踏み込まない。
リズベルを急かさない。
「……」
リズベルは、自分の左目を意識していた。
視界の端が赤い。
身体が熱い。
心臓が速い。
仮面がない。
もう、自分を覆ってくれるものは何もない。
(……まずい)
その言葉が浮かぶ。
(このままでは……)
キラーが、また脈打つ。
ドクン。
――怒れ。
「……黙れ」
リズベルの口から、初めて明確な拒絶が漏れた。
声は低い。
だが。
その奥には、確かな怒りがあった。
キラーが震える。
――そうだ。
――それでいい。
――その怒りだ。
リズベルの瞳が揺れる。
自分の中にあるものを、否定できない。
(……私の怒りだ)
そうだ。
キラーが作ったものではない。
誰かに植え付けられたものでもない。
確かに、自分の中にある。
ずっと。
ずっと抱えてきた。
(私は……怒っている)
認める。
(憎んでいる)
それも。
(忘れてなんかいない)
だからこそ。
キラーは笑っているようだった。
――ならば、寄越せ。
――その感情を。
――私と一つになれ。
リズベルの身体が、僅かに揺れる。
左目の赤が。
さらに濃くなった。




