第104話 亀裂
黒い仮面に走った亀裂。
それは、周りからするとあまりにも小さな変化だった。
だが。
リズベル自身だけは、その意味を理解していた。
(……始まった。)
指先が僅かに震える。
恐怖ではない。
警戒。
長い間、閉じ込め続けてきたものが、内側から扉を叩いている。
ドラゴンキラー。
この剣は、ただ力を与える剣ではない。
持つ者の心へ触れる。
そして、その奥に眠るものを引きずり出す。
怒り。
憎しみ。
後悔。
忘れたふりをしていた感情。
それらを糧に、この剣は目覚める。
(まだ……大丈夫。)
(まだ抑えられる。)
リズベルはゆっくりと息を整えた。
その姿を、ジークレッドは黙って見つめていた。
急かすこともない。
攻め込むこともない。
ただ、目の前の相手を見ている。
剣士として。
一人の人間として。
「……苦しいか」
静かな声だった。
リズベルの瞳が僅かに揺れる。
「……」
否定はしなかった。
ジークレッドは続ける。
「その剣は、お前の力を試しているのではない」
「お前自身を見ている」
風が吹き抜ける。
黒い髪が揺れた。
「……分かっている」
初めて。
リズベルの声に、僅かな揺らぎが混じった。
「だからこそ、ここまで来た」
ジークレッドは静かに目を細める。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
止めることも。
否定することも。
ただ、彼女の選択を待つ。
それが、ジークレッドの敬意だった。
リズベルは目を閉じる。
脳裏に浮かぶ。
黒い炎。
崩れ落ちる大地。
叫び声。
そして。
胸の奥に沈めた、あの日の感情。
(違う。)
(これは……私のものじゃない。)
そう思いたかった。
だが。
キラーは静かに囁く。
――嘘だ。
――お前の中にある。
リズベルの呼吸が止まる。
――怒りを捨てたふりをするな。
――憎しみを忘れたふりをするな。
――お前は知っている。
刀身から、黒い気配が滲み出す。
◇ ◇ ◇
観客席の空気が変わる。
ロゼリアが僅かに表情を曇らせた。
「……何か嫌なものが溢れてきたわね」
「そうね。ザンギュラの時とは異質なもの」
ストーリアが静かに頷く。
リールーも。
リフルも。
エルドも。
誰もが同じ違和感を抱いていた。
何かが違う。
ザンギュラの時とは違う。
あの時は、感情が溢れ出していた。
だが今は。
まるで。
誰かが、自ら深い闇へ歩いているように見える。
◇ ◇ ◇
「リズベル」
ジークレッドの声が響く。
初めて。
彼が名を呼んだ。
「その先へ進めば、戻れなくなるかもしれん」
責める声ではない。
忠告だった。
リズベルは静かに目を開く。
「……分かっている」
「それでもか」
「ああ」
短い返答。
だが、迷いはなかった。
「私は、この剣を知るために来た」
「恐れるためじゃない」
「向き合うために来た」
その言葉に。
キラーが反応する。
ドクン。
大きく鼓動する。
まるで、その覚悟を待っていたかのように。
リズベルの身体を、黒い気配が包む。
仮面の亀裂が、また一つ増えた。
ピシッ。
今度は、誰の耳にも届く音だった。
観客席がざわめく。
「仮面が……」
「割れる……?」
だが。
リズベルは動じない。
ただ静かに、黒い刀身を見つめる。
(ここまで来た。)
(なら……。)
ゆっくりと、心の奥へ手を伸ばす。
そして。
一つの答えへ辿り着く。
目の前にいる男。
ジークレッド。
もし、この剣が自分を呑み込もうとするなら。
もし、怒りに支配されるなら。
この人なら。
止められる。
その確信があった。
(彼なら……。)
(私を止められる。)
そして、もう一つ。
(彼は……ドラゴンではない。)
その瞬間。
キラーが、初めて笑ったように感じた。
――そうか。
――ならば。
――見せてみろ。
黒い刀身から、さらに濃い気配が立ち上る。
リズベルの瞳の奥で。
何かが揺れた。
そして。
黒い仮面に刻まれた亀裂が。
ゆっくりと広がっていく。




