第103話 焦り
ヒュー……。
風が、静かに闘技場を吹き抜ける。
誰も口を開かない。
先ほどまで歓声に包まれていた観客席は、まるで別世界のような静寂に包まれていた。
針の音さえ拾えそうなほどの静けさ。
誰もが理解していた。
この試合は、今までとは違う。
剣を交えているはずなのに。
二人は、まるで動かない。
ジークレッドは大剣を肩へ担いだまま、静かにリズベルを見つめていた。
鋭い視線。
だが、その眼差しに焦りはない。
敵を見ているのではない。
戦士を見ている。
いや──。
その奥にある〝何か〟を見極めようとしていた。
(鋭いな。)
心の中で、小さく呟く。
踏み込みは申し分ない。
間合いも正確。
一太刀ごとの迷いもない。
それでも。
届かない。
剣が届いていないのではない。
心が届いていない。
ジークレッドは静かに息を吐いた。
(何を迷っている。)
その答えは、まだ見えない。
だからこそ待つ。
王者とは、力で押し潰す者ではない。
相手のすべてを受け止め、その本質を見極める者だ。
リズベルは、ゆっくりと目を閉じた。
仮面の内側に熱がこもる。
吐いた息が頬へ返ってくる。
額を流れた汗が顎先を伝い、一滴、地面へ落ちた。
柄を握る右手へ、ゆっくりと力を込める。
(起きて……。)
胸の奥で語り掛ける。
(私は、お前を求めてここまで来た。)
静寂。
返事はない。
(伝承は読んだ。)
(お前が意思を持つ剣だということも。)
(怒りを求める剣だということも。)
(全部、知っている。)
ゆっくり息を吸う。
そして吐く。
鼓動を整える。
心を静める。
(だから私は怒らない。)
(怒りではなく、お前自身と向き合いたい。)
その瞬間だった。
ドクン──。
右手から鼓動が伝わる。
小さい。
だが、確かだった。
リズベルの長い睫毛が僅かに震える。
(……。)
ドクン。
もう一度。
今度は先ほどより深い。
剣を握っている感覚が、少しずつ薄れていく。
代わりに。
自分の心臓とは別の鼓動が、身体の内側で脈打っていた。
(近い……。)
胸ではない。
右手でもない。
もっと深い場所。
心のすぐ傍で、その鼓動は鳴っている。
(これは……。)
リズベルは初めて戸惑った。
伝承には記されていなかった。
これほどまでに。
これほど静かに。
人の心へ入り込んでくるものなのか。
剣ではない。
まるで、生き物だった。
いや。
生き物以上に厄介だ。
斬れば終わる相手ではない。
拒めば離れる存在でもない。
静かに。
ゆっくりと。
心の隙間を探してくる。
(駄目。)
リズベルは柄を握り直した。
(入って来ないで。)
鼓動は止まらない。
ドクン。
ドクン。
呼吸と重なる。
心拍と重なる。
境界が曖昧になっていく。
まるで。
剣を握っているのではない。
自分の心を、剣に握られている。
その感覚だった。
闘技場の脇で、エクレールが僅かに目を細める。
「なるほど……そういうこと。」
誰にも聞こえないほど小さな声。
「あの子は、ジークと戦っているんじゃないのね。」
「キラーと向き合っている。」
その一言に、隣の兵士たちは意味も分からず首を傾げる。
だが、エクレールだけは確信していた。
「私ならどう戦うか……」
あの黒い仮面。
あれは素顔を隠すためではない。
自分自身を抑え込むための枷だ。
観客席。
ロゼリアは無意識に拳を握っていた。
「あの人……。」
言葉が続かない。
ストーリアも黙ったまま見つめている。
リールーも。
リフルも。
エルドも。
誰一人として口を開かなかった。
静か過ぎる。
それが逆に、不気味だった。
ルシアだけが、腰へ添えた手に違和感を覚える。
ドラゴンスレイヤーが、小刻みに震えている。
まるで何かを警告するように。
リズベルはゆっくりと息を吸う。
あと一歩。
あと少しで届く。
そう思った、その時。
不意に。
心の奥底へ。
雫が落ちるような、小さな声が響いた。
──思い出せ。
リズベルの瞳が揺れる。
耳ではない。
胸の奥へ、直接響く声。
(……誰。)
返事はない。
静寂。
だが。
もう一度。
──思い出せ。
その言葉だけが、ゆっくりと心へ沈んでいく。
忘れたはずの景色が、僅かに揺れた。
赤く染まる空。
燃え上がる炎。
誰かの叫び。
そして。
まだ輪郭すら見えない、一つの姓。
リズベルは強く首を振る。
(違う。)
(まだ、その時じゃない。)
(私は支配されない。)
その瞬間だった。
ジークレッドが静かに大剣を構え直す。
「……そうか。」
低い声が響く。
「お前。」
「俺と戦っているのではない。」
一拍置き、その眼光がリズベルを射抜く。
「その剣と戦っているのだな。」
見抜かれた。
リズベルの呼吸が止まる。
その一瞬。
ピシッ。
乾いた音が、仮面の内側で響いた。
頬へ走る、わずかな違和感。
(……しまった。)
黒い仮面の端に。
髪の毛ほど細い、一筋の亀裂が刻まれていた。




