第5話 廊下の窓に、二回映った笑顔
「藤宮、止まった」
「……え」
「歩くの、止まった」
「……あ」
凛に肘で軽く小突かれて、俺はようやく自分が廊下の真ん中で立ち止まっていたことに気づいた。
屋上手前の踊り場で昼飯を食べ終えて、教室に戻る途中。渡り廊下の長い窓のいちばん端。午後の光が、磨りガラスではないところからまっすぐ差し込んでくる、明るい場所。
その光のなかに、ひかりがいた。
正確には、廊下を一本挟んだ向かい側の校舎の、二階の渡り廊下。ガラス越しとガラス越しに、ふたつの窓を挟んで、向こう側を歩いていく彼女の横顔が、ほんの数秒だけ見えた。
友達と歩いていた。口元は、笑っていた。それは、見慣れた「八十パーセントの七瀬ひかり」の笑顔だった。
——のに。
歩きながら、彼女が一瞬だけ、向かい側の友達から視線を外した瞬間。
廊下の窓のほうへ、ふっと、目線が落ちた。
その、コンマ何秒のあいだだけ。
ひかりの口の端に、ぜんぜん違う笑みが、滲んだ。
声を出さない笑い方だった。口角だけが、ほんの少し上がる。目は笑っていない。むしろ、目の奥のほうで、なにか、すごく静かなものが、ほどけたような。
それは、教室で見るあの「学校一の七瀬ひかり」の笑顔とは、完全に、別物だった。
俺は、なぜか、その笑顔のほうを「知っている」気がした。
知っているはずがない。
彼女と俺は、昨日、本の返却の話を一往復しただけの仲だ。
なのに、なぜか、俺は——その笑い方を、見たことがある気がした。
「藤宮」
「……」
「藤宮陽人」
「……あ、悪い」
「ガッツリ見てたね」
「いや、見てない」
「見てた。窓の向こうの七瀬さん、ガッツリ見てた」
「黒澤、ほんとに目がいいな」
「観察するのが好きなだけ。お前と違って、画面じゃなくて人間を観察してる」
ぐうの音も出なかった。
凛は、俺の表情のほうをじっと見て、ふん、と短く息を吐いた。
短いボーイッシュな黒髪が、廊下の窓から差し込む風で、ほんの少しだけ揺れる。
「藤宮、お前さあ」
「なんだよ」
「昨日の昼、私、なんて言ったか覚えてる?」
「『あんま、夢見ない方がいい』」
「うん」
「『学校一の美少女が、実は俺の隠れファン、みたいなのは現実だとそんなに起きない』」
「うん」
「『七瀬さんは、お前が思ってるよりずっと普通に強い人』」
「よく覚えてんね」
「全部、刺さったから」
凛は、おかしそうに、口の端だけで笑った。
「で? 刺さった上で、まだ気になってるわけだ」
「……気になる、って言われると、語弊がある」
「じゃあ、なに?」
「……『見たことある気がする』」
「は?」
俺は、廊下の窓の向こう側、もう七瀬ひかりの背中が消えてしまった、空っぽの渡り廊下を、なんとなく目で追いながら言った。
「あの笑い方、知ってる気がする」
「そりゃ、毎日教室で見てるからでしょ」
「教室で見てる笑い方じゃない方の話」
「……ふうん?」
「……うまく言えないんだけど」
「言ってみ」
凛の声は、いつもの茶化しよりほんの少しだけ、真面目だった。
俺は、しばらく言葉を探して、結局、こう言った。
「『新曲を、再生する直前の俺』に、ちょっと似てる気がした」
凛が、めずらしく、二秒くらい黙った。
それから、彼女は俺の顔をまじまじと見て、「ふーん」と、これまた珍しく、短くて意味の取りにくい返事をした。
「藤宮」
「うん」
「お前、ちょっとおもしろい角度で病んでない?」
「病んでない」
「『新曲を再生する直前の俺の顔』って、自分で見たことあんの?」
「……ない」
「ないのに、たとえ話に使うな」
「悪かった」
凛はあきれたように肩をすくめて、また歩き出した。
「行くよ。次、移動教室」
「……ああ」
俺もそれに続いた。
歩きながら、自分のさっきのたとえ話を、頭の中でゆっくり、もう一度、組み立てなおしていた。
新曲を、再生する直前の自分。
それは、たぶん、こういう顔をしている。
誰も見ていないのを確認してから、ヘッドホンの位置を直して、再生ボタンに指を置く瞬間。
「これからの三分間、自分以外の世界が一回、消える」とわかっている瞬間。
口元は、ほんの少しだけ笑う。目は、笑わない。むしろ、目の奥のほうで、なにか静かなものが、ほどける。
——ひかりの、さっきの笑顔だ。
たとえが、思いのほか、ぴったりはまってしまって、俺は内心、軽く狼狽していた。
学校一の七瀬ひかりが、廊下の真ん中で、なにか「自分以外の世界が一回、消える」体験を、こっそり、している。
そんなこと、あっていいのか。
そんなこと、世の中に、そんなに、あっていいのか。
午後の数学の時間、俺は黒板を見ていなかった。
正確には、黒板を見ているふりをして、視線の端に、ひかりの後ろ姿だけを置いていた。
斜め前、二列向こう、窓側から三番目。
彼女は、いつものように、姿勢よく座って、シャープペンを握って、ノートにきれいな字で、教師の話を書き写していた。
うなずく回数も、適切。
笑うタイミングも、適切。
たまに、隣の女子と顔を見合わせて小さく笑い合う、その一回ごとのリアクションの強さも、過不足なく、適切。
教室に戻ってきた七瀬ひかりは、また、八十パーセントの七瀬ひかりだった。
廊下で見た、あの「目を笑わせない笑顔」は、影も形もない。
——いま、彼女の中に、二人の七瀬ひかりがいるとして。
教室にいるのは、ガラスの向こうの七瀬ひかりだ、と俺は思った。
ガラスのこちら側にいる、本物の七瀬ひかりは、たぶん、ブレザーの内ポケットの上に、いまも、左手の指先を、軽く添えている。
授業の途中、案の定、彼女の左手は、ほんの一瞬だけ、机の下に降りて、内ポケットの上を、軽く撫でた。
そこに、白いイヤホンケースがあること。
そのケースの中に、たぶん、ヨルがインタビューで「最近変えた」と言っていたのと同じモデルのイヤホンが入っていること。
俺は、まだ、なにも確かめていない。
確かめていないのに、なぜか、もう、知っているような気がしている。
それが、勘違いなのか、観察の積み重ねなのか、ただの願望なのか、自分でも、まだ、わからない。
「あんま、夢見ない方がいい」と、凛は言った。
たぶん、それは、正しい。
正しいけれど。
——もし。
もし、本当に、夢みたいな話が、目の前で、現実として起きていたら。
俺は、それを、どうしたい?
ヨルとして、この三年、ずっと、「誰にも知られなくていい」と言ってきた。
顔出しは断った。インタビューも、文字だけ。声だけ出すラジオの依頼も、半分は断っている。
それは、「好きなものを、純粋に、好きでいたいから」という、自分なりの大事な理由だ。
そう、思って、きた、はず、なのに。
「世界でいちばん優しい3秒間だと思う」
昨日の夜、鍵アカからもらった、あの引用の一文だけが、いまだに、頭の隅で、繰り返し、再生されている。
知らないアカウントだ。
誰だか、わからない。
わからない、はず、だ。
なのに、俺の頭の中では、その文章を、もう、はっきりと、ひとりの女の子の声で、再生してしまっている。
——「世界でいちばん優しい3秒間だと思う」
ワントーン高くない、教室の声ではない、もう一人の七瀬ひかりの声で。
一度、再生してしまったら、たぶん、もう、戻せない。
俺は、シャープペンの先を、ノートの空白の上に、無意味に置いた。ノートには、数式の途中までしか書かれていなかった。ペン先はそのまま、なにも書かないまま、しばらく止まっていた。
そして、ふと、ノートの端に、無意識に、こう書いていた。
————
廊下の窓に、二回、映った。
————
一回目は、向かいの渡り廊下を歩く、八十パーセントの七瀬ひかり。
二回目は、彼女が一瞬だけ落とした視線の先、こちら側のガラスの中に、ぼんやり映った——まだ、誰にも見せていない方の七瀬ひかり。
俺はその一行の上に、ゆっくりと、ペンで、線を引いた。
線で、消した。
消したのに、なぜか、文字は、消えなかった。
ノートの上ではきれいに塗りつぶしたはずなのに、頭の中には、その一行が、消えないで残った。
——『廊下の窓に、二回、映った』。
たぶん、これは、新しい曲のタイトルだ。
俺は、まだ、それを認めたくなかったので、ノートのページを、もう一枚、めくった。
新しい白いページの右下に、ごく小さく、誰にも気づかれないくらいの大きさで、俺は、こう書いた。
————
タイトル候補。
————
ペンを置く。
シャープペンの先が、ほんの少しだけ、震えていた。
教室のいちばん後ろの席、エアコンの真下、廊下側の俺の机の上で。
午後の授業のあいだに、ヨルの新曲が、たぶん、一曲、生まれかけていた。
そのことを、教室の中の誰も、まだ、気づいていない。
——いや。
そういえば。
ノートにペンを置いたその瞬間、教室の二列向こう、斜め前の七瀬ひかりが、ほんの一瞬だけ、こちら側を振り返ろうとして、寸前で、止めた。
ような気がした。
気のせいかもしれない。
気のせい、かもしれない、けれど。
教室に並んでいる「いちばん明るい席」と「いちばん暗い席」のあいだに、昨日、引かれたばかりの細い線が、今日、一センチだけ、こちら側に、近づいた気がした。
たぶん、その線は、明日、もう一センチ、近づく。
俺はそんな予感がして、シャープペンの芯を、もう一段、ノックした。




