第6話 斜め前の席の、振り向きかた
振り向いては、いけない。
ひかりは、ノートの上のシャープペンの先を見つめながら、その一文を、頭の中で、もう三回、繰り返した。
振り向いては、いけない。
振り向いては、いけない。
振り向いては、いけない。
斜め後ろの席で、たった今、藤宮陽人くんが、ノートに、なにか短いものを書いた。ペンが紙に置かれた音は、しなかった。彼はあまり、強くペンを置かない人だ。ただ、シャープペンの芯が、ノートの繊維に静かに沈むその気配が、なぜか、ひかりにはわかった。
斜め後ろ二列。教室の対角線上で、いちばん遠い席のひとつ。そんな距離で、シャープペンが紙に触れる気配を察知できるはずがない。ない、はずなのに、ひかりには、わかってしまった。
なぜなら、ひかりの背中の意識は、ここ二日間、ずっと、藤宮くんの机のほうに、向いているからだ。
——だめだ、振り向くな、絶対に。
ひかりは、自分のノートの白い余白の上に、深呼吸を一度、こっそり吐いた。
窓の外の光が、机の上の紙に、ぼんやり四角い影を落としている。
教師の声が、黒板のほうで遠く響いている。微分、と聞こえる。たぶん、いまは微分の話だ。微分の話だ、と、ひかりはとりあえず、ノートの右上に「微分」と書いた。
書いてから、自分でも、これがいま自分が書くべき正解なのかどうか、よくわからなかった。
——でも、いまは、それでいい。
教室の七瀬ひかりは、いつも、ノートを取っている。だから、ノートを取っているふりさえできていれば、教室の七瀬ひかりは、ちゃんと、生きている。
問題は、ノートを取っているふりをしている、本物の七瀬ひかりのほうだった。
廊下で、見られた、気がする。
さっきの、移動教室から戻る前の、あの廊下。
向かいの渡り廊下を歩きながら、ひかりは、ほんの一瞬、視線を窓のほうへ落とした。
落とした先に、たぶん、こちら側の窓を歩いてくる、藤宮くんと黒澤さんの姿があった。
気づいた瞬間、心臓が一回、止まりそうになった。そして、たぶん、止まりそうになった、その表情を、彼に、見られた。
口元が、ほどけたと思う。
目の奥が、ふっと、ゆるんだと思う。
それは、ヨル先生の新曲を再生する直前にだけ、自分が浮かべる、誰にも見せていない、夜の笑顔だった。
——なんで、よりによって、廊下の窓の向こうに、彼がいるの。
ひかりは、自分の運の悪さを、五回くらい、心の中で呪った。そして、その「運の悪さ」が、実は単に「彼のことを目で探していたから、視界の隅に勝手に入っただけ」だということに、もう、薄々、気づき始めていた。
二日目だ。
彼に話してから、まだ、二日目。
なのに、ひかりは、もう、廊下で彼の姿を、目で探している。
これは、よくない。
これは、たぶん、いままででいちばん、よくない。
ヨル先生の鍵アカで何百回も書いてきた、あの「夜の自分」が、もう、教室の昼間の光のなかにまで、染み出してきている。
ガラスのこちら側にいるはずの本物の七瀬ひかりが、ガラスの向こうの七瀬ひかりのスカートの裾を、こっそり引っ張り始めている。
それは、たぶん、いずれガラスが割れる、ということを、意味していた。
「七瀬さん」
教師の声が、不意に、自分の名前を呼んだ。
「は、はいっ」
「次の問題、お願いします」
教室の視線が、いっせいに、ひかりに集まる。
反射のように、口角が、八十パーセントの位置に上がる。
「あ、はい、えっと——」
ひかりは、すばやく、ノートの右上の「微分」の文字に視線を戻した。そして、その下に、自分が黒板の数式を、ちゃんと、ほぼ正確に書き写していたことに、安堵した。
教室の七瀬ひかりは、心ここにあらずのときも、ちゃんと、ノートだけは取っている。
それは、彼女がこの二年で身につけた、いちばん地味で、いちばん大事な、生存技能だった。
「えっと、xの値を代入して……」
声を、いつもより、半トーン上げる。
語尾を、ほんの少しだけ、伸ばす。
口元は、八十パーセント。
答えのあと、最後に、ひと笑い。
「で、合ってますかね……?」
教室が、軽く笑った。
「ひかりが間違えるわけない」「正解、正解」と、誰かが冗談まじりに言う。教師が「合ってます」と頷く。
——よし、生き延びた。
ひかりは、ゆっくりと座り直しながら、ブレザーの内ポケットの上を、机の影に隠れて、左手の指先で、軽く撫でた。
ケースの中の小さな白いイヤホン。
そのイヤホンが、いま、ひかりの心拍を、たぶん、いちばん近くで、ずっと、聴いている。
聴いていて、それでも、なにも言わない。
ヨル先生のイヤホンは、優しい。
——優しい、けれど。
そのイヤホンを最近変えた本人が、たぶん、いま、ひかりの斜め後ろの席に、座っているのだとしたら。
それは、優しいだけじゃ、もう、すまない話だった。
ひかりは、ノートの隅の、誰にも見えない位置に、ごく小さな字で、こう書いた。
————
仮説1:藤宮くんは、ヨル先生ではない。
仮説2:藤宮くんは、ヨル先生である。
————
書いてから、自分で、ぞっとした。
こんなもの、ノートに書いていいわけがない。
ひかりは、すぐにシャープペンの後ろの消しゴムを当てて、その二行を、丁寧に、丁寧に、消した。
紙の表面が、白く擦れて、少しだけ、ふやけた。
擦れた紙の上に、ひかりは、もう一度、新しい字で、こう書き直した。
————
仮説:藤宮くんは、ヨル先生ではない。
————
仮説1だけにする。
仮説2は、書かない。
仮説2は、考えない。
仮説2は、存在しない。
そういうことに、する。
——だって。
ひかりは、自分のシャープペンを、ぎゅっと、握りなおした。
だって、仮説2が、本当だったら。
これから自分は、藤宮陽人くんの目の前で、ヨル先生のすべての新曲を、いっさい、再生できなくなる。
「藤宮くんが、ヨル先生かもしれない」と思いながら聴くヨル先生の曲は、もう、ヨル先生の曲じゃない。それはたぶん、「藤宮くんが、自分のためじゃない誰かのために書いた曲」になってしまう。
ヨル先生は、「別に、誰にも知られなくていい」と言っている人だ。鍵アカでひかりがいくら布教ツイートを書き散らしても、たぶん、ヨル先生は、それを、知らないままでいたい人だ。
そういう人の正体を、勝手に、教室の同じクラスの女の子が、知ってしまっていたとしたら。
——それは、たぶん、ヨル先生に対する、いちばん、最低の、裏切りだった。
「ヨル先生って、たぶん、教室では誰とも話さないタイプの人だと思う」
「『別に、誰にも知られなくていい』って、本心の人」
何ヶ月も前に、自分が鍵アカに書いた、あのツイート。あれを、もし、ヨル先生本人が、いま、目の前の席で、読んでしまっていたら。
考えるだけで、心臓が、勝手に、半オクターブ高い音を出し始める。
——だから、振り向くな。
だから、目を合わせるな。
だから、勘づくな。
ひかりは、深く、深く、息を吐いて、シャープペンの先を、ノートの中央に戻した。
そして、その中央に、教師がいま黒板に書いている数式を、ふだんよりほんの少しだけ丁寧に、書き写し始めた。
字が、わずかに震えていたけれど。
たぶん、教室の誰も、それには気づかない。
授業終わりのチャイムが鳴った。
机の上の教科書を閉じる音、椅子を引く音、ペンケースを閉じる音が、いっせいに、教室にあふれる。
ひかりは、自分の机のまわりを、いつものリズムで片付けながら、それでも、絶対に、後ろを振り向かなかった。
ただ、片付けの最後に、ノートを閉じる直前。
彼女は、ほんの一瞬だけ、視界の端を、斜め後ろのほうへ滑らせた。
完全に振り向くのではなく、首を、半分だけ。
クラスメイトに「次の休み時間どうする?」と声をかけられた、その動作のついでに、ほんの少しだけ。
教室の対角線の先で、ちょうど藤宮陽人くんが、シャープペンを、ペンケースに戻しているところだった。
ペンを戻す指の、左手の中指の生え際に、たしかに、薄い角質のあとが見えた。
ひかりが、廊下ですれ違ったあの日、勝手に「ピアノだこかもしれない」と思ったあのあとが、いまも、そこに、あった。
新曲と同じ、独特だったリズム。
ピアノを長年弾いてきた人の、手。
DAWを使う、男子高校生。
ヨル先生と、同じ新作イヤホン。
教室の誰とも話さない、影の薄い、いちばん暗い席の住人。
五つ、揃った。
ひかりは、もう、自分の中で、「仮説1」を書き直す前の余白に、こっそり、こう付け足してしまっていた。
————
仮説2の、確度、八十パーセント。
————
奇しくも、教室の七瀬ひかりの笑顔の、いつもの、強度と、同じ数字だった。
「ひかり、購買行こ!」
「うん、行く行く!」
ぱっ、と、ワントーン高い声。
立ち上がる動作も、いつもどおり、半歩、広く。
ひかりは、教室を出る直前、ドアの手前で、ほんの一瞬、立ち止まった。
「あ、ごめん、ハンカチ忘れた、先行ってて」
「えー、待つよ?」
「ううん、すぐ追いつくから! 走るから!」
笑って、手を振って、友達を先に行かせる。
そして、彼女たちが廊下の角を曲がったのを見届けてから——、
ひかりは、もう一度だけ、教室の中を、振り返った。
教室にはまだ、何人か残っていた。
そのなかで、いちばん後ろ、エアコンの真下の席。
藤宮陽人くんは、もう、立ち上がっていた。
カバンを肩にかけ、ノートを脇に抱え、教室の前のほうへ、ゆっくり、歩いてきている。
ひかりとは、たぶん、すれ違う。
ひかりは、心臓のあたりを、左手で、軽く、押さえた。
——大丈夫。
ヨル先生は、たぶん、振り向かない。
ヨル先生は、たぶん、自分の名前を呼ばれるのが、いちばん、苦手な人だから。
そうやって、何ヶ月も、何年も、ひかりは、画面の向こうのヨル先生のことを、勝手に、想像してきた。
その想像のなかのヨル先生と、いま、目の前を歩いてくる藤宮陽人くんの輪郭が、ほんの少しずつ、ずれながら、重なっていく。
「藤宮くん」
——呼んでしまった。
口が、勝手に、動いた。頭よりも先に、唇のほうが、彼の名前のかたちを、選んでしまった。
藤宮くんが、ゆっくり、顔を上げる。そして、教室の出口の手前で立ち止まっていたひかりと、目が、合った。
ひかりは、八十パーセントの笑顔を、ほんの一瞬、つくり損ねた。口角が、たぶん、六十パーセントくらいまでしか、上がらなかった。
それは、ヨル先生の鍵アカで「世界でいちばん優しい3秒間」と書いてしまった夜の自分の口元と、いちばん近い角度の、笑顔だった。
「えっと——」
なにか、言わなくちゃいけない。
なにか、教室の七瀬ひかりらしいことを、言わなくちゃいけない。
頭の中で、いつもなら自動で出てくるはずの「教室用の言葉」が、なぜか、いまに限って、ひとつも、降りてこない。
数秒の、沈黙。
そのあいだに、ひかりは、たぶん、人生で初めて、教室の真ん中で、「ガラスの向こうの七瀬ひかり」を、忘れた。
「……ハンカチ、落としてなかった?」
口から出てきたのは、自分でもびっくりするくらい、どうでもいい一言だった。
ハンカチなんて、落としていない。落としていないのは、自分が、いちばん、よくわかっている。
藤宮くんは、一瞬きょとんとして、それから、自分の足元と、ひかりの席のまわりを、軽く見回した。
「……たぶん、落ちてない、と思う」
「あー、そっか、よかった! ごめんね、なんかソワソワしちゃって!」
「……いや」
藤宮くんは、それ以上、なにも言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、彼の視線が、ひかりのブレザーの胸元——、ちょうど、内ポケットのあたりに、ふっ、と、落ちた。
落ちて、すぐに、上がった。
それは、ほんとうに、コンマ何秒の話だった。
たぶん、教室にいるほかの誰も、それには、気づかない。
ひかりだけが、その視線の落下と上昇を、自分の心臓のリズムが半拍ずれるのと、同時に、感じ取った。
——気づかれた、かもしれない。
そんなはずがない。
そんなはずがないのに、なぜか、ひかりは、そう思った。
そして、たぶん、藤宮くんも。
教室を出ていく彼の背中を見送りながら、ひかりは、もう、ほとんど、確信に近いものを、心の中で、ひとつ、書き換えていた。
————
仮説2の、確度、九十パーセント。
————
教室のいちばん明るい場所と、いちばん暗い席のあいだに、昨日、一センチ近づいた線が。
今日、もう一センチ。それから、もう五ミリ。
——近づいた。
藤宮くんが、廊下の角を曲がる前に、一度だけ、ゆっくり、こちらを振り返った。
ひかりは、振り返られた瞬間に、思わず、目を伏せた。伏せながら、口の端だけ、わずかに、笑った。
それは、教室の七瀬ひかりの、八十パーセントの笑顔でも。夜の自分の、誰にも見せない笑顔でも、なかった。
たぶん、生まれてはじめての、ひかりにも名前のつけられない笑顔だった。
廊下の窓から差し込む光が、ひかりの栗色の毛先を、もう一度、淡く、透かした。
そして今度は、その光のなかで彼女が浮かべた笑顔を、廊下の角で振り返った藤宮陽人だけが、たしかに、見ていた。




