第3話 ボカロを聴く女子高生の見分け方
「ボカロを聴く女子高生の、見分け方ってあると思う?」
翌日の昼休み。
俺がそう切り出した瞬間、購買のメロンパンを口にくわえたまま、凛は「は?」という顔をした。
正確には、「は?」とすら言わなかった。短い黒髪の下から、半分眠そうな目を、ほんのわずかに細めただけ。だがその沈黙は、文字数にして三百字くらいの説教に相当する重さがあった。
「藤宮」
「なんだ」
「お前、昨日の夜、寝た?」
「寝た」
「何時間」
「……四時間」
「うん。寝てない」
凛はメロンパンをひと口かじって、屋上に続く階段の手すりに背を預けた。
うちの高校は、屋上が立入禁止になっている。だが、屋上に上がる手前の踊り場までは黙認されていて、そこは校内でも数少ない「人がほとんど来ない場所」のひとつだった。陽の光が斜めに差し込む踊り場の窓辺は、騒がしい昼休みの教室から避難するのにちょうどいい。
俺と凛は、保育園のころからずっと、こういう「ちょっと外れた場所」で昼を食べてきた。
「で?」と凛は言った。
「ボカロ女子の見分け方が、なんで朝の挨拶の前に来るわけ」
「朝の挨拶はもうした」
「したっけ?」
「『おはよう』って言ったら、お前『生きてる』って返した」
「あー、した。生きてた」
凛はメロンパンの袋を握りつぶすように丸めて、ブレザーのポケットにねじ込んだ。
それから、俺の顔をじっと見て——ふっ、と短く笑った。
「七瀬さんでしょ」
「……」
「『ボカロとか、聴く?』って昨日聞かれたのが、頭から離れてないんでしょ」
「……黒澤って、ときどき怖いよな」
「幼馴染を舐めるな」
舐めてはいない。むしろ毎度敬意を払っている。
俺は購買のサンドイッチの封を開けながら、できるだけ平静を装って続けた。
「いや、別に七瀬の話じゃない」
「七瀬さんの話じゃないやつが、なんで『女子高生』を主語にしてくる?」
「……」
「『ボカロを聴く女子高生』って、要するに『ボカロを聴く七瀬ひかり』のことを、お前は遠回しに考えたいだけでしょ」
「……黒澤、文学部行け」
「興味ない」
ぐうの音も出ない。
俺は降参の合図のように、両手の手のひらをひらりと見せた。
「……まあ、そうだ。気になってる」
「素直でよろしい」
「素直だから、聞く。お前の見立てだと、七瀬って、どのくらいボカロ聴くタイプだ?」
凛は、「うーん」と低く唸って、人差し指を顎にあてた。
こういう真面目な「査定」をするときの凛は、口元だけがやや緩んで、目が逆に鋭くなる。クラスメイトのことを観察するのが、わりと趣味なのだ、こいつは。
「私の見立ては、昨日と同じ。広く浅く、流行ってるやつを抑えてるタイプ」
「根拠は」
「七瀬さんの席、見てみ」
「……うん?」
「いつもイヤホン挿してる?」
「……挿してない、と思う」
「カバンにイヤホンケース、ぶら下がってる?」
「……たぶん、ない」
凛は、「でしょ」と頷いた。
「本気で音楽聴いてる女子は、だいたい『私は今、音楽の世界に入ってます』って看板を物理で出してる。ヘッドホンを首にかけてるとか、イヤホンケースをカバンにつけてるとか、ストラップが推しのアクスタとか。七瀬さん、そういうの一切ない。教室での装備、完全に『誰からも嫌われない女子高生』のテンプレ」
「……たしかに」
「あの子のスマホケース、なに?」
「……シンプルなクリアケース。たぶん、なにもついてない」
「うん、見たまんま」
凛の言うことは、いちいち、もっともだった。
七瀬ひかりの「装備」は、たしかに「広く浅く」のそれだ。誰の趣味にも踏み込まず、誰の趣味からも外れない、絶妙な無印感。
それは、俺がぼんやりと抱いていた印象とも一致していた。
昨日の朝、教室の前で女子三人と笑いあっていた、あの「絵に描いたような陽キャ」の姿と。
「だからさ、藤宮」と凛は続けた。
「あんま、夢見ない方がいいよ」
「夢って」
「『学校一の美少女が、実は俺の隠れファン』みたいなやつ」
「……」
「ラノベじゃないんだから」
「読まないだろ、お前そういうの」
「読まないけど、お前が読んでるのは知ってる」
うっ。
俺は反射的にサンドイッチを噛んだ。
凛はそんな俺を、生暖かい目で見ながら、最後の一押しのようにこう言った。
「七瀬さんはさ。たぶん、お前が思ってるよりずっと『普通に強い人』だよ」
「強い、ってのは」
「ああいう、誰にでも好かれるポジションを、毎日、ちゃんと維持できてる人ってこと」
「……」
「あれ、装備じゃなくて、本人のスペックでやってんの。だから、そういう人が深夜に鍵アカでオタクやってる、みたいな『ギャップ萌え』は、現実だとそんなに起きない」
凛の声には、揶揄も悪意もなかった。
あるのはたぶん、幼馴染としての、ささやかな心配だけだった。
俺は黙ってサンドイッチを食べた。
食べながら、なぜだろう、ほんの少しだけ、納得しきれない自分がいることに気づいていた。
——そりゃ、現実にそんなことは、そうそう起きない。
わかってる。わかってるんだ。
ただ、昨日の朝、七瀬ひかりが俺の机に手をついたあの瞬間。彼女の視線が、ほんの一瞬だけ、伏せた俺のスマホのほうに落ちたのを、俺は見ていた。
ほんの一瞬だ。0.2秒。コンマ何秒。
誰がどう見ても、「気のせい」で処理して問題のない時間。
でも、ヨルとして三年間、ネットの向こうの「ファン」たちの視線を浴び続けてきた俺には、わかる。
あの落ち方は、「興味のないものを目で素通りした」視線じゃなかった。
「触れたいけれど、触れてはいけないもの」を、ぎりぎりで避けた、視線だった。
……なんて。
言ったら、凛にまた「藤宮、寝た方がいい」と言われるのが目に見えている。
俺はそれ以上、なにも言わずにサンドイッチを食べ終えた。
午後の授業のあいだ、俺はもう一度、教室全体をそれとなく観察してみた。
凛のレクチャーが、頭の中で反芻されていた。
「本気で音楽を聴いてる女子は、装備で看板を出している」。
たしかに、そう言われてみると、教室には何人かいた。
廊下側の前のほうに座っている女子は、カバンに小さな缶バッジをいくつもつけている。たぶんアニメか、なにかの。授業中もよく頬杖をついて、なにかの歌詞をぼんやり書き写すように、ノートの端にペンを走らせている。
斜め前の女子は、休み時間になると必ずイヤホンを耳に挿す。耳から白いコードが垂れているのが、もう日常の一部になっている。
——そして、七瀬ひかり。
彼女は、たしかに、なにも装備していなかった。
イヤホンも、缶バッジも、痛いストラップも、ロゴ入りのなにかも。
スマホケースは、凛の言うとおり、無地の透明なやつだった。
でも。
俺は、ある「見えないところ」に気づいてしまった。
気づいてしまった、というか、気づこうとして、たぶん、無意識に観察していた。
——ひかりの机の、引き出しの、奥。
授業中、シャープペンの替芯を取ろうとしたひかりが、机の中を軽くまさぐった瞬間。
ほんの一瞬、引き出しの奥のほうから、白い箱状の何かが見えた。
ワイヤレスイヤホンのケース。
それも、机の手前ではなく、ノートやプリントの束のいちばん奥に、押し込むように仕舞われていた。
クラスメイトに見せるためではない。むしろ、見せないために、わざわざ奥に置いてあるみたいな仕舞われ方だった。
イヤホンをポケットに入れず、カバンの外側にも下げず、机の中でもいちばん見えない場所に置く。
そういう女子が、ボカロを「広く浅く」聴くタイプかどうか。
俺には、わからなかった。
ただ、ひとつだけ、たしかなことがあった。
今、俺の頭の中で、凛の「見立て」と、自分の観察結果が、初めてほんの少しだけ、ずれた。
——ボカロを聴く女子高生の、見分け方。
そんなものは、たぶん本当はない。
ヘッドホンを首にかけているからといって、ヨルを聴いているとは限らない。
イヤホンをカバンに下げていないからといって、ヨルを聴いていないとも限らない。
ただ、「自分が音楽を聴いていることを、誰にも、知られたくない」女子は、たぶん、世の中にちゃんと存在する。
教室の「いちばん明るい場所」に座りながら、それでも、画面の向こうの誰かの曲だけを、こっそり、深く、深く聴いている女子も。
その可能性をいちども想像しなかった俺は、たぶん、ヨルとしては、まだまだ甘い。
放課後のチャイムが鳴ったとき。
ひかりは、立ち上がる前に、机の引き出しの奥から、その白い箱を、そっと、ブレザーの内ポケットに移した。
クラスのほとんどの誰も、その動作には気づいていなかった。
ただ、廊下側のいちばん後ろの俺だけが、教室を出ていく彼女の背中を、少しだけ目で追った。
そして、思った。
——『ボカロを聴く女子高生の、見分け方』。
たぶん、「見分け方」を探している時点で、間違っているのかもしれない。
本当に聴いている人は、見分けられないように、生きている。




