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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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16/17

第16話 教室の対角線がパチンと切れる日

木曜日の朝、教室は、いつも通りだった。


俺はいつも通り、いちばん後ろのエアコンの真下、廊下側の席に座った。

机の上に、教科書、ペンケース、ノート、そして淡い水色のハンカチを、0.2センチ引っ込めた位置に置いた。


凛はいつも通り、自分の席で頬杖をついていた。俺と目が合うと、唇だけで「ふ・つ・う・に」と、四文字伝えてきた。


そして、ひかりもいつも通りに、教室に入ってきた。


「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」


ワントーン高い声。

八十パーセントの笑顔。

半歩、広い歩幅。


宣言通り、ふつうの教室の七瀬ひかりだった。


——よかった。


俺は心の中で、ほんの少しだけ、息を吐いた。

昨日の図書室のことは、なかったことにするのではなく「ふつうの場所に、ちゃんと戻す」。

それが、ひかりの選んだ、いちばん強い方法だった。


その「ふつう」は、たぶん、木曜日の一時間目までは、ちゃんと保った。


問題は、二時間目と三時間目の間の休み時間に起きた。


きっかけは、本当に些細なことだった。


クラスの女子のひとりが、ひかりの席のところで、スマホの画面を、見せながら、こう、言ったのだ。


「ねえねえ、ひかり、このアカウント知ってる? ヨルって人の一番古い曲、再生数少ないのにコメント欄、すごい熱いんだけど」

「……え」

「これこれ、『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』ってやつ。なんか、最近、誰かが掘り起こして、ちょっと話題になってるらしくて」


俺は自分の席で、シャープペンを止めた。


教室の対角線の、いちばん遠い席で、ひかりの背中が、ほんの一瞬こわばったのがわかった。


「あー……、うん、知ってる、かも」

「やっぱ? ひかり、こういうの詳しいもんね」

「えへへ、まあ、人並みに」

「でさ、このコメント欄に、めっちゃ長文の考察してる鍵アカの人がいて——あ、鍵だから中身は見えないんだけど、名前がなんか、すごいの。『夜の、ひかりに救われた人間の墓場』だって」


教室の、ひかりの周りの女子たちが、軽く笑った。


「なにそれ、こわー」

「『夜の、ひかり』って、誰のことよ」

「ひかりのことだったりして」

「えー、まさかー」


——冗談だった。


それは、たぶん本当に、なんの悪意もない、ただの休み時間の軽い冗談だった。


「ひかりのことだったりして」。


クラスの女子は、たぶん、その一言を、五秒後には、忘れる。

忘れる程度の、ただの軽口だった。


ただ、その軽口が教室の対角線のいちばん細い場所を、パチン、と切った。


ひかりの肩が、止まった。

完全に、止まった。

八十パーセントの笑顔を、起動しようとして、その手前で固まった。


「……え、なに、ひかり、どしたの?」

「あ——、ううん、なんでも」

「顔、ちょっと、赤い?」

「えっ、そう? あはは、なんか、暑くて」

「五月だよ?」

「だ、だよね、あはは」


——ごまかせていなかった。


普段の八十パーセントの七瀬ひかりなら、こんな軽口、笑い飛ばして、五秒で別の話題に流していた。


ところが、木曜日のひかりは、流せなかった。

流せなかったのは、その軽口の「夜の、ひかりに救われた人間の墓場」が、本当に自分の鍵アカの自己紹介だった、からだ。


そして、その鍵アカが、今クラスの女子のスマホ画面に表示されている。


クラスメイトは、誰もそれが、ひかり本人のアカウントだとは、思っていない。

思っていない、けれど。

当のひかりだけが、その画面を見て、自分の心臓が、教室の真ん中で、今いちばん大きな音を、立てていることに、気づいていた。


「ねえ、ひかり、ほんとに大丈夫?」

「だ、大丈夫、大丈夫」

「保健室、行く?」

「ううん、ほんとに、平気——」


そのとき。


ひかりの机の下に置いていた、スマホが、ポン、と振動した。


通知音は、教室の喧騒の中では、ほとんど聞こえなかった。

ほとんど、聞こえなかった、けれど。


ひかりの周りの女子の一人が、たまたま、その振動に気づいた。


「あ、ひかり、スマホ、鳴ったよ」

「えっ」

「画面、光ってる」


ひかりの手が、反射的に机の下のスマホのほうへ、伸びた。

伸びて、その手が、画面を伏せようとした、そのコンマ何秒の間に。


机の下のひかりのスマホの画面に、通知が、一行、表示された。


それは、教室の女子の誰の角度からも、見えなかった。

ただ、ひかりの、すぐ斜め前を、たまたま通りかかった、ひとりの女子——、


黒澤凛だけが、その通知の最初の数文字を見てしまった。


————

ヨル:@yoru_no_hikariさんが、あなたを——

————


凛の足が、止まった。


止まった足のつま先が、ひかりの机の、すぐ横の通路の上で、0.2センチだけズレた。


凛は、その通知の続きを見なかった。

見ないことにした。

見ないことにして、そのまま、普通に通り過ぎようとした。


ところが。


ひかりが、スマホの画面を、伏せようとした、その手と。

凛が、通り過ぎようとした、その足が——、


教室の対角線のいちばん細い場所で、ほんの一瞬交差した。


ふたりの視線が、0.1秒、合った。


その0.1秒で、ふたりは、たぶん、お互いに全部わかった。


ひかりは、凛が通知を見たことを、わかった。

凛は、ひかりが自分が「夜の、ひかり」本人であることを、教室でいちばん隠したい瞬間に、いることをわかった。


そして、教室の女子たちは——、その0.1秒には、なにも気づいていなかった。


「ひかり、誰から? 彼氏?」

「ち、ちがうって!」

「えー、怪しー」

「ほんとに、ちがうから!」


ひかりの声が、いつもより半オクターブ、高く跳ねた。

跳ねた声は、八十パーセントの笑顔のギリギリ外側の、九十五パーセントくらいの、無理のある明るさだった。


その無理を、教室の女子は、たぶん「彼氏からの連絡を隠してる、かわいい七瀬ひかり」として、消費した。

からかいの、ちょうどいいネタとして。


ただ、ひとり。

凛だけは、それを別の意味で受け取っていた。


凛は、ひかりの机の横で、ほんの一瞬、立ち止まったあと——、


教室のいちばん明るい場所に向かって、ふつうの観察員の声でこう言った。


「七瀬さん」

「……っ、は、はい!」

「次、移動教室。音楽室。早く行かないと、また廊下混むよ」

「……あ」

「私も、いま、ちょうど、行くとこ」

「……」

「一緒に行く?」


——、


教室の女子たちが、軽く、「おっ」という顔を、した。


黒澤凛が、誰かを自分から移動教室に誘う。

それは、たぶん、この教室では、わりと珍しい光景だった。


凛は、ふだん、誰ともつるまない。

陽人とすら、教室では最低限しかつるまない。

そういう人間が、学校一の七瀬ひかりを自分から誘った。


「えー、凛と、ひかり、意外な組み合わせ!」

「ね、なんか、新鮮!」


教室の空気が、ほんの少しだけ、その「意外さ」のほうに流れた。そして、その流れが——、ひかりの机の下のスマホの通知から、教室全員の注意をそらした。



俺は、自分の席で、それを全部見ていた。

見ていてわかった。


凛は、いま、ひかりを助けた。


「彼氏からの連絡を隠してる七瀬ひかり」という、教室の安全な物語のほうに、空気を、固定したまま——、ひかりの鍵アカの通知を、誰の目からも隠した。

隠したうえで、ひかり自身を教室のいちばん危ない場所から、物理的に移動教室へと連れ出した。


それは、観察員のいちばん得意な技だった。

場の空気を読んで、いちばん損をする人間が、いちばん損をしないように、空気の流れをほんの数センチだけズラす。


凛は、それを自分の感情とは、一切関係のない顔でやってのけた。


——いや。


たぶん、関係はあった。

大いに、あった。


ただ、凛はその「関係」を、自分の顔のいちばん奥の仕切り紙の向こう側に押し込んだまま、表向きは、ただの観察員として、ひかりを助けた。

それが、凛のいちばん強い「ふつう」だった。




移動教室の廊下。


俺は、少し離れて二人の後ろを歩いた。


ひかりと凛は、並んで歩いていた。

並んで、しばらく、なにも言わなかった。


廊下のいちばん端の窓のところで、凛が、ふと立ち止まった。

ひかりも、それに合わせて立ち止まった。


凛は、窓の外を見ながら、ひかりに向かって、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こう言った。


「七瀬さん」

「……はい」

「私、昨日の図書室で、約束したこと、ちゃんと守る」

「……」

「『ヨルさんが、自分から、これがヨルです、って言わない限り、誰のことも、ヨルさんですか、とは聞かない』」

「……はい」

「だから、私、今の通知も見なかったことにする」

「……黒澤さん」

「ん」

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

「……」

「私はただ、観察員だから」

「……観察員?」

「私の自称」

「……」

「観察員は、観察するだけ。手は出さない。手を出したら、それは観察員じゃなくなる」

「……」

「でも」


凛の声が、そこでほんの一瞬、止まった。


止まった声のいちばん端のところで——、いつもの、彼女のふつうの呼吸のリズムから、ほんの少しだけズレた。


「……でも、今日は、ちょっとだけ、手を出した」

「……はい」

「だから、今日の私は、ちょっとだけ、観察員じゃなかった」

「……」

「それ、たぶん、お前のせいでも、藤宮のせいでもない」

「……じゃあ、誰の」

「……それは」


凛は、そこで、言葉を止めた。


止めて、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手でぎゅっと握った。

それは、彼女の後悔と葛藤のサインだった。


握った手を、ゆっくり離して、彼女は窓の外を見たまま、こう言った。


「……それは、今日は、言わない」

「……はい」

「言わないけど」

「……はい」

「七瀬さん」

「はい」

「お前は、ちゃんと、ヨルのこと、いちばん最初の五百回のころから、好きだった人なんだろ」

「……はい」

「それは、本物だろ」

「……本物、です」

「だったら、それだけは、絶対に、手放すな」

「……」

「教室で、ふつうの七瀬ひかりをやるのはいい。やれ。やり続けろ」

「……はい」

「でも、夜の七瀬ひかりが、ヨルのこと、五百回のころから好きだった、っていう、その一個だけは」

「……はい」

「誰にも、教室にも、私にも、絶対にブレされるな」

「……」

「それは、お前のいちばん本物だから」


ひかりは、しばらく、なにも言わなかった。


言わなかったあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。


その笑顔は、八十パーセントでも、夜のひかりでも、図書室の薄い笑顔でもなく——、たぶん、生まれてはじめて、誰かに自分の「いちばん本物」を、まるごと肯定された人間の笑顔だった。


「黒澤さん」

「ん」

「黒澤さんは、すごく優しいですね」

「……優しくない」

「優しいです」

「観察員は、優しくない」

「観察員じゃないって、さっき、自分で、言いました」

「……」

「今日の黒澤さんは、ちょっとだけ、観察員じゃなかったって」

「……」


凛は、その指摘に答えなかった。


答えない代わりに、彼女は自分の頬の内側を、軽く噛み込んだ。

それは、彼女が自分の決意を、もう一度自分に念押しするときの、いつもの癖だった。


——「ふつう」で、いられる間は「ふつう」でいる。


凛は心の中で、もう一度その言葉を、自分に押し込んだ。


押し込んだ、けれど。


今日彼女は、教室で、ひかりのために、ほんの0.2センチだけ空気をズラした。そのことは、たぶん、彼女の中の「ふつう」を、もう半歩後ろに下がらせていた。


そして、そのことに——、


凛は自分でも、もう気づいていた。


気づいていて、今日のところは、それをちゃんと名前にしないことにした。




音楽室の扉の前で、ひかりは一旦、立ち止まって振り返った。


振り返って、少し離れたところに立っていた、俺のほうを見た。そして、ふつうの八十パーセントの七瀬ひかりの声で、こう言った。


「藤宮くん」

「……ん」

「明日も、ふつうに、おはようしますね」

「……うん」

「だから、藤宮くんも、黒澤さんも」

「……」

「ふつうにいてください」


それは、昨日の図書室の彼女のセリフと、まったく同じ言葉だった。


同じ言葉なのに——、今日の「ふつう」は、昨日よりほんの少しだけ、無理のある「ふつう」だった。


無理のある「ふつう」を、彼女はちゃんと、自分の手で立て直そうとしていた。

そのことが、たぶん、彼女の本物だった。


俺は、頭を軽く下げた。


「……明日、ふつうにいる」

「はい」

「七瀬も」

「はい」

「無理、しすぎるなよ」

「……っ」


ひかりの八十パーセントの笑顔が、ほんの一瞬、ぐらり、とズレた。


ズレた、けれど。


彼女は、すぐにそれを立て直した。

立て直して、音楽室の扉を開けて、中へ入っていった。


凛は、その背中を見送ってから、俺のほうを振り返らずに、こう言った。


「藤宮」

「……ん」

「お前、火曜の夜、彼女の鍵アカに、いいね、返しただろ」

「……うん」

「そのいいね、教室のいちばん危ないタイミングで、通知になって鳴った」

「……」

「もうこれ以上、教室の中で向こうのスマホを、鳴らすな」

「……」

「鳴らすなら、教室の外で鳴らせ」

「……うん」

「『通知音』は」

「……」

「教室で鳴ったら、世界、壊すから」


凛は、それだけ言って、音楽室の中へ入っていった。


その背中の短いボーイッシュな黒髪が、音楽室の窓から差し込む、五月下旬の午前の光に、ほんの少しだけ、透けて見えた。


俺はその場に、しばらく立っていた。

立って、自分のスマホを、ポケットから取り出した。


ヨルのアカウントの、通知欄を、開いた。


@yoru_no_hikariさんからのリアクションが、またひとつ、増えていた。

それは、図書室での会話のあとに、ひかりが家で、もう一度、こっそり押したいいねだった。


俺はその通知を、しばらく見ていた。


見て、それから画面を伏せて、ポケットにしまった。


しまって、心の中で、こう決めた。


——「通知音」は、もう教室では鳴らさない。

——鳴らすなら、教室の外で。

——いちばん、世界を、壊さない場所で。


そして、もう一行。


——それでも、ひかりの「五百回のころから好きだった」という、いちばん本物のところだけは、絶対にこちらからも、ズラさない。


教室の対角線は、木曜日の朝の休み時間に、確かに一度、パチン、と切れた。


切れた、けれど。


切れた糸の両端を、凛が観察員として、ギリギリのところで結び直した。


結び直された糸は、昨日より少しだけ短くなって、少しだけ太くなっていた。


その糸の、いちばん細い場所が——、これから、どこまで保つのか。


それを、たぶん、明日からの教室で、もう一度確かめていくことになる。


ただひとつだけ、はっきりしたことがあった。


ひかりは、今日教室のいちばん危ない瞬間に、自分のスマホの通知を見られても——、最後まで「藤宮くん、ヨル先生ですか」とは、言わなかった。


言わない、というルールを、彼女は教室のいちばん壊れそうな場所でも、守りきった。


五月下旬の木曜日の、音楽室の前の廊下に、午前の光が、ほんの少しだけ、ふやけた色で差し込んでいた。

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