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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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15/17

第15話 通知音は、鳴る

水曜日の放課後、図書室の貸し出しカウンターは、いつも通り空いていた。


俺は、当番として、カウンターの内側の椅子に座っていた。

机の上に、貸し出し記録のノートと、シャープペンと、淡い水色のハンカチを、いつもの三点セットで並べていた。


放課後の図書室は、教室よりも空気が薄い。

誰もいない時間帯のほうが、たぶん長い。

俺は、いつものようにノートの白いページを、ただ開いていた。


そこに——、ひかりが、来た。


「藤宮くん、こんにちは」

「……ああ」

「あの、本を返しに、来ました」


ひかりの手の中には、二冊、文庫本があった。

そのうちの一冊は、四枚の付箋がそのまま挟まったままの、あの本だった。

凛が一度借りて、俺に「読んでみ」と渡してき た、あの本。それを俺が、貸し出し記録の処理として、火曜日の夜のうちに、ふたたび彼女のクラス——というか彼女自身に、普通に返却処理した。


そういう経路で、その本は、今彼女の手に戻っていた。


ひかりは、その本をカウンターの上に、ゆっくり置いた。

置いた本の上に、彼女はほんの一瞬、自分の右手を軽く添えた。


そして、こう言った。


「藤宮くん」

「……ん」

「この本、わたし、先週、返したとき、付箋、四枚、貼ったまま返しちゃってて」

「……」

「それを、たぶん、藤宮くん、見ましたよね」

「……」

「あの、ええと、責めてるわけじゃなくて」

「……うん」

「ただ、確認、です」


声は、いつもの「教室の七瀬ひかり」より、ワントーン低かった。

ワントーン低い声で、ひかりは自分の手のひらを、本の上に置いたまま、こちらを見ていた。


俺は、ノートの上のシャープペンの先を、一旦止めた。


止めて、ゆっくり、答えた。


「……見た」

「……うん」

「貸し出し処理のときに、たまたま」

「うん」

「本を開いた」

「うん」

「四枚、付箋があった」

「うん」

「貼ってあったページの、文章は読んだ」

「……うん」

「以上」


ひかりは、しばらく、何も言わなかった。


言わなかったあと、彼女は、ふっ、と自分の口元のほうに、軽く左手を添えた。

その仕草は、月曜日の朝、教室の対角線の向こう側で、八十パーセントの笑顔を起動しそこねたときの仕草と、まったく同じだった。


「……以上、ですか」

「……以上」

「ありがとう、ございます」

「……うん」


ひかりは、それから、一旦深く息を吸った。

吸って、吐いて、また吸った。


そして、こう言った。


「藤宮くん、もう一回、ちょっとだけ聞いていいですか」

「……うん」

「あの付箋のページの、一番下の一文。覚えてますか」

「……覚えてる」

「言える?」

「『誰かの夜を、ちゃんと終わらせてあげられる人間に、わたしは、いつかなりたい』」

「……」

「……合ってる?」

「合って、ます」


ひかりは、もう一度、フー、と息を吐いた。

吐いた息は、カウンターの上の四枚の付箋の角を、ほんの少しだけ揺らした。


「藤宮くん」

「……ん」

「わたし、その文章、書き込みもしちゃってて」

「……」

「『ヨルさん、ありがとう。これ、わたしの、いちばん、好きな人の言葉と同じです。』、って」

「……」

「それも、見ましたか」

「……見た」


ひかりはまた、ふっ、と目を伏せた。

伏せて、ほんの少しだけ、口の端で笑った。


「藤宮くん、ヨルさん、知ってますか」


——来た。


俺は、自分の中で、土日の間ずっと考えてきた、いちばん、めんどくさい質問が、いちばん、シンプルな形で、目の前に置かれたのを見た。


「正解」には、絶対に、触れない。

ただ、入り口だけは開けておく。


凛と決めた、戦略のど真ん中の瞬間だった。


俺は、ノートのシャープペンをゆっくり、ペンケースに戻した。

戻して、息を吐いて、答えた。


「……ヨル、ってひと、聴いてる」

「あ、聴いてるんですね」

「……うん」

「いつから?」

「……三年前、くらいから」

「三年前?」

「うん。いちばん古い曲のころから」

「……いちばん古い曲って、『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』、ですよね」

「……うん」

「再生数、まだ、五百回くらいの」

「……うん。たぶん、いまも、五百回くらい」

「……」


ひかりは、もう一度、深く息を吸った。

吸って、しばらく、止めた。


止めて、彼女はこう言った。


「わたしも、その曲、いちばん最初に、聴いたの、たぶん、五百回のうちの、いちばん最初のころです」


その一文の一番最後の音節を、彼女は、自分の口の中で、ほんの少しだけふやけさせた。


それは、ひかりが、教室の七瀬ひかりとして、はじめて教室の外で、誰かに「夜のひかり」を、半歩出した瞬間だった。


俺は、それをちゃんと見ていた。

見ていたけれど、声には出さなかった。

代わりに、こう聞いた。


「……五百回のうちの、一番最初のころ」

「うん」

「再生したとき、世界はちょっとマシになった?」

「……マシに、なりました」

「そっか」

「……はい」

「よかった、ね」

「……はい」


俺は、それ以上は、聞かなかった。


聞かなかったのは、たぶん、これ以上のことを、図書室の放課後の誰もいないカウンターで聞いてしまったら、二人とも、たぶん「正解」のど真ん中に、自分から踏み込んでしまうことになるからだった。


ひかりは、それを、たぶん、自分でもわかっていた。


わかっていて彼女は、自分の制服のブレザーの内ポケットの上を軽く撫でた。

そこには、まだ、白いレースのハンカチが入っていた。

火曜日の朝も、月曜日の朝も、その日も、彼女はずっと、それを家で洗って、内ポケットに忍ばせて、登校してきていた。


「藤宮くん」

「……ん」

「これ、貸し」

「……うん」

「いつか、返します」

「うん」

「いつ、返すかは」

「いちばん忘れた頃に、だろ?」

「……はい」


ひかりは、ほんの少しだけ笑った。

今度は、教室の八十パーセントでも、夜のひかりでもなく、図書室の放課後のいちばん薄い空気のなかでだけ起動できる、ごく小さな笑顔だった。


「藤宮くん、ひとつだけ、自分で決めてることが、あって」

「……うん」

「ヨルさんが、自分から『これがヨルです』って言わない限り、わたしは、誰のことも『ヨルさん、ですか』とは聞かないって」

「……」

「ファンの、最低限の、ルールです」

「……うん」

「だから、藤宮くんにも、たぶん、聞きません」

「……」

「ずっと、聞きません」

「……」


俺は、しばらく、何も言えなかった。


言えなかった、というよりも。

たぶん、彼女の一言で、俺の一番大事な前提のほうを守ってくれた、ということを、ちゃんと息を吐いてから、受け止めないといけなかった。


「……七瀬さん」

「はい」

「ありがとう」

「……なにに対しての、ありがとう、ですか」

「……それは、聞かないで」

「うん」


ひかりは、ふっ、ともう一度、笑った。


そのとき、図書室のいちばん奥の書架の影で——、


ピロン、と軽い振動音がひとつ鳴った。

スマホの通知音、だった。


たぶん、図書室全体にギリギリ聞こえる程度の小さな音だった。

だった、けれど。


その音が、鳴った瞬間。


俺の机の上の、淡い水色のハンカチの糸の一本のほうではなく——、書架のいちばん奥の、人ひとり分の暗い隙間のほうから、ひとり分の影が、ほんの一歩だけこちら側に出てきた。


短い、ボーイッシュな、黒髪。

深い黒の、切れ長の目。

細身の、158センチの、小柄な、シルエット。


黒澤凛、だった。


凛は、自分の手のひらの上のスマホの画面を軽く伏せながら、ゆっくり、こちらに歩いてきた。


そして、カウンターの前で立ち止まって、ひかりと俺の顔を、一旦見比べてから、こう言った。


「……ごめん。たまたま、奥で本、読んでた」

「……」

「ふたりの話、たまたま、ぜんぶ、聞こえた」

「……」

「『たまたま』のところ、信じる気ある?」


それは、ひかりに向けて、半分、俺に向けて、半分、向けられた質問だった。


ひかりは、立ち止まったまま、しばらく、凛のほうを見ていた。

見ていたあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、こう答えた。


「黒澤さん」

「ん」

「『たまたま』、で、いいです」

「……いいの?」

「いいです。『たまたま』でいいから、わたしの今のルール、黒澤さんも一緒に守ってください」

「……ルール」

「ヨルさんが、自分から『これがヨルです』って言わない限り、わたしは、誰のことも『ヨルさん、ですか』とは、聞かない」

「……」

「黒澤さんも、お願いします」

「……うん」

「お願いします」

「うん。約束する」


凛は、即答した。

即答した声は、いつもの観察員の淡々とした声だった。ただし、その声のいちばん端のところで——、ほんの少しだけ、彼女自身の、ふつうの呼吸のリズムからズレていた。


俺は、それに、気づいたけれど、気づかないふりをした。


ひかりは、もう一度、深く、息を、吸った。

吸って、カウンターの上の四枚の付箋のついた本に、軽く手のひらを添えた。


「藤宮くん、黒澤さん」

「……うん」

「……ん」

「わたし、図書室、もう出ますね」

「……うん」

「明日も、ふつうに教室で、おはよう、します」

「……うん」

「だから、藤宮くんも、黒澤さんも」

「ん」

「明日、ふつうに、いてください」


それだけ、言って。


ひかりは、軽く頭を下げて、図書室の出口のほうへ、歩いていった。


歩いていく、その背中のスカートの、後ろポケットの上に、白いレースのハンカチが半分だけ、はみ出していた。


それは、わざと、はみ出させたものではなく、本当に急いでしまったときに、たまたま、はみ出してしまったものだった。


俺は、それを、見送りながら、今まで、いちばん教室の対角線の向こう側にいる女の子のことを、近くに感じた。


近くに、感じながら——、声を、かけなかった。


声をかけなかったのは、彼女の「ルール」を、こちらがいちばん最初に守る人間でいたかった、からだった。


凛は、ひかりが出ていった出口のほうを、しばらく無言で見ていた。

見ていたあと、彼女は、自分の手のひらの上のスマホをゆっくり、ひっくり返した。


画面には、ヨルのアカウントから、@yoru_no_hikariさんに、送られた、リアクションの通知の、画面が表示されていた。



————

ヨル:@yoru_no_hikariさんに、いいねを返しました。

(いちばん古い投稿『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』に対する、感想のいいね)


————



俺は、その通知を、覗き込みながら、なにも言わなかった。


凛は、画面をロックして、ポケットにしまった。


しまって、それから、自分のショートヘアの毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。


「……藤宮」

「……ん」

「お前、いつ、送ったの、これ」

「……火曜日の、夜」

「彼女の、鍵アカに?」

「……うん」

「『正解には触れない』戦略のうちの、入り口開けるほうで」

「……」

「……まあ、そうだろうな」


凛はそれ以上、なにも言わなかった。


代わりに彼女は、自分の口の中で、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。


「『通知音』ちゃんと、図書室で鳴った」


そのつぶやきの、最後の音節のところで——、


凛の、観察員のいちばん奥の仕切り紙のいちばん細い場所が、たぶん、ほんの少しだけめくれた。


めくれたぶんを、彼女は、すぐに自分の手のひらで、押さえ直した。


押さえ直したあと、彼女はこう言った。


「……明日、教室で、ふつうにしてろよ」

「……うん」

「彼女、本気で、ふつうに、来てくれるから」

「……うん」

「お前と私が、ふつうに、できなかったら、いちばん損するの彼女だから」

「……うん」

「だから、ふつうにしろ」

「……うん。する」


凛は、それだけ、言って、図書室の別の出口のほうへ、歩いていった。


歩いていく、その背中の短いボーイッシュな黒髪が、放課後の図書室のいちばん奥の窓から差し込む光に、ほんの少しだけ、透けて見えた。


俺は、しばらく、カウンターの上の四枚の付箋のついた本と、淡い水色のハンカチを見ていた。


見ながら、思った。


——ひかりは、最後まで、「藤宮くん、ヨル先生ですか」とは、言わなかった。

——「ファンの、最低限のルール」と言って、自分から、その質問を自分の口に入れないことにした。


それは、彼女が、いまの自分にできる、いちばん強い「断定しない」だった。


俺は、机の上のハンカチを、軽く、手のひらで、撫でた。


水曜日の放課後の図書室のいちばん最後の光が、カウンターの天板をほんの少しだけ、ふやけた色に染めていた。

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