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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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14/17

第14話 水曜日は、いつもより0.2センチ引っ込んでいる

水曜日の朝、俺は、家を出る十分前に、自分の部屋で、0.2センチ、というのは、一体どれくらいの距離なのか、ということについて、本気で考えていた。


定規を机の上に置いた。

目盛りの一番端のゼロのところに、自分の人差し指の爪の先を合わせたそこから2ミリ。

——こんなもん、誰が、見たって、わかるか

俺は思わず、声に出しそうになって、寸前で止めた。


声に出したら、たぶん、自分が火曜日の昼休みの教室の机の角からはみ出していたハンカチの「はみ出し量」を、0.2センチ単位で計測しなおそうとしている、ということを、世界に白状することになる。

それはたぶん、月曜日の朝のいつもより五分早く目が覚めた藤宮陽人より、もう二段階くらいおかしな男になっていた。


ただ、おかしくなっている自覚はある。

ある、けれど、その「おかしさ」の責任の半分は、たぶん昨日の夜メッセージで、こう送ってきた幼馴染にある。


————

凛:あと、明日は、机の上の置き方、0.5センチ、はみ出させすぎ。0.2センチ、引っ込めとけ。

凛:観察員より。

————


——観察員より、じゃないんだよ、黒澤凛。


俺は、定規の2ミリのところを、もう一度、爪の先で軽く押さえた。

そして、ふっ、と息を吐いた。


火曜日の昼休み、机の上の淡い水色のハンカチの一番端の、糸の一本のところ。

教室で、誰にも見えない位置で、内側にほんの少しだけ、よじれていたその糸。


あれを戻したとき、俺はまだ、何もわかっていなかった。

誰が、それに触れたのか。

触れた人の指先が、ハンカチの0.何ミリだけ近づいたのか。


火曜日の放課後、家に帰ってヘッドホンをして、DAWを立ち上げて、それでもしばらく、その糸の一本のことを考えていた。考えながら、ふと自分の中で、一つだけ認めたことがあった。


——あれは、たぶん、ひかりだった。


確証は、なかった。

なかったけれど、たぶん、教室であの机の真横を通り過ぎる軌道で、視界の端の一番端に、ハンカチの糸の一本を自分の指先で、ギリギリまで近づけて、それでも触らないようにしよう、と本気で思っていた人間は、教室で一人しかいない。


一人しかいないのに——、たぶん、最後の最後で、その指先が自分の本来の意思に勝てなかった。勝てなかった結果が、糸の一本のよじれだった。


それはたぶん、彼女の今一番誠実な、限界の位置だった。


教室の対角線の一番細い場所で。

ひかりは「正解」には、絶対に触れたくない。けれど、糸の一本のところまでは、もう触ってしまう。


ハンカチを拾えなかった人。

拾えなかった人なのに、糸の一本だけは触ってしまった人。


それが、火曜日のひかりだった。


——だとしたら。

俺は、水曜日のひかりに、何を置けばいいんだろう。


水曜日の朝、0.2センチの目盛りの前で、俺はようやく、ひとつ当たり前のことに気づいた。


「彼女が、糸の一本のところまで、近づいてくれた」と、いうことは。

彼女のほうは、もう本人にできるギリギリの一言を、こちらに書いてくれている、ということだ。ハンカチの糸のよじれかた。そのものが、彼女からの1番小さな返事だった。


そこに、こちら側から「もう少しだけ、踏み込んでこい」と強めに置き直すのは、たぶんよくない。逆に「もう、その糸には、触れなくていい」と全部引っ込めてしまうのも、たぶんよくない。


ちょうどよく、今の彼女の限界の位置に、こちらの位置も合わせる。


そのちょうど良さが、たぶん02.センチなんだろう。


俺は、定規を机の上に戻して、自分の通学カバンの外ポケットから、淡い水色の無地のハンカチを、ゆっくり取り出した。


凛から、押し付けられた、業務支給品。

洗濯して、乾かして、きれいにたたみ直した、二日目の水色のハンカチ。


そのハンカチに向かって、俺は心の中で、こうつぶやいた。


——今日も、よろしく頼む。

——今日も、机の角から0.3センチだけはみ出して、0.2センチだけ引っ込んでいてくれ。


ハンカチは当然、何も言わなかった。

ただ、畳まれた端っこの糸が、昨日とは別の角度で、ほんの少しだけ曲がっていた。


その曲がりかたを、たぶん俺は、もう忘れない。




教室に着いて、自分の席に座って、いつもの動作で、教科書を、ペンケースを、ノートを、机の上に置いた。


そして、一番最後に、淡い水色のハンカチを机の上の通路側の角に、ゆっくり置いた。


火曜日と、ほぼ、同じ位置。

ただし、机の角から、0.2センチ、引っ込めた位置。


——0.2センチ、引っ込めた、ということは。


たぶん、教室の誰の目にも、火曜日とまったく変わらないハンカチの置き方だ。

変わったことに、気づける人間は、教室でたった二人。


ひとりは、0.2センチを指定してきた、観察員。

もうひとりはたぶん、その0.2センチの差を、火曜日のあの糸の一本越しに、ちゃんと感じてくれている、女子。


二人の指定席は、教室の対角線の、両端のそれぞれ別の側にある。

二人とも、たぶん今、こちらを見ていないフリをして、こちらの机の上の0.2センチを見ている。


俺は、机の上のハンカチを、もう一度一番端の糸が、火曜日とまったく同じ角度で、内側にほんの少しだけ、よじれているのを確かめてから、視線をノートのほうへ戻した。


戻した、視線の先で、ノートの右上に、シャープペンでごく小さく、こう書いた。


————

水曜日。

0.2センチ、引っ込めた。

糸の角度は、昨日と同じにした。

————


書いて、すぐにその三行を、シャープペンの後ろの消しゴムで、丁寧に消した。


消したのに、文字はたぶん、頭の中で消えなかった。

頭の中のノートには、もう何ページ分も、似たようなメモが増えていた。


それは、藤宮陽人の、普通の、教室のノートでも、ヨルの、いつものDAWの、メモ欄でもなくて——、たぶん「俺」と「ヨル」の間に、新しく、まだ名前のついていない、もう一冊のノートが勝手に増えていた。


そのノートの一番上の表紙のところに、何を書くべきか、俺はまだ自分でもわからなかった。


ただ、ぼんやりとこう思った。


——たぶん、「七瀬ひかり観察ノート」、では、ない。


なぜなら、「観察」というのは、対象と自分の間に、距離を置く言葉だから。

そして今の自分は、彼女と0.2センチの単位まで、距離を合わせよう、としている人間だ。


「観察」をしている人間が、0.2センチの単位で、距離を合わせるはずがない。


それはたぶん、もうちょっと、別の動作だった。


——別の動作の、名前。


俺は、その名前のカタチを頭の中で、一旦想像しようとして、すぐに想像するのをやめた。


やめたのは、たぶん自分にも、まだその名前を、ちゃんと自分の机の上に書き付ける、勇気がなかったからだった。


「俺の普通のノート」と、「ヨルの新曲のメモ帳」の間に——、「彼女との0.2センチを、書きつけてしまう。もう一冊のノート」が、勝手に生まれている。

そのノートの表紙に、なんの名前をつけるかは、まだ決めていない。

決めていないけれど、捨てはしない。

捨てない、ということは、いつか自分の手で、その表紙に名前を書く日が来るかもしれない。


来るかもしれないけれど、それはたぶん、今日ではない。


俺は、ノートの右上の消した三行のあたりを、もう一度軽く、指先で撫でた。




朝のホームルームが始まる、五分前。


七瀬ひかりが、教室に入ってきた。


水曜日のひかりは、火曜日とまた少し違っていた。


髪型は、火曜日と同じ、低い位置のゆるい一つ結び。

歩幅は、いつも通り半歩広く。

笑顔は、いつも通り80パーセント。


全部普通だった、けれど。


教室に入った瞬間、彼女はすぐに、教室の対角線の一番遠い席のほうへ、視線を滑らせる、ということをしなかった。


しなかった、というよりも。

正確には、するのを自分で止めた。


その「止めた」動作を、彼女は入り口から自分の席までの、たった十数歩の間に、たぶん、三回繰り返した。


止めて、止めて、止めて、最後の一歩のところでようやく、ほんの少しだけ自分の視線の許可した範囲を、机の上の何もないあたりまで広げた。


そこには、机の上の、淡い水色のハンカチが、火曜日と、まったく、同じ位置に、見えた、はずだった。


見えたはずだった、のに。


ひかりは、自分の席に座るときに、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


伏せた、その伏せ方の角度が火曜日の伏せ方の角度より、ほんのわずかに深かった。


——気づいた、な。


俺は、自分の机の前で、心の中で、ふっ、と短く笑った。


笑った、その笑い方は、火曜日の糸の一本のよじれを戻したときの、口の端の上がり方と同じだった。

たぶん、ヨルが新曲の二音目を、置けたときの笑い方、と同じだった。


ひかりの席から見ても、たぶん、机の上のハンカチの「はみ出し量」が、ほんの少しだけ引っ込んだのは、わかったはずだ。

0.2センチ、というのは、定規を当てなくちゃわからない距離だ。でも彼女は、たぶん定規を当てなくてもわかる。

わかるくらいの解像度で、机の上のハンカチのことを見ている。


なぜなら、彼女は月曜日の朝に、自分の家の姿見の前で、自分の髪型を三回変えた女子だから。

そういう人は、0.2センチなんてものは、目視で普通に判別する。


ひかりは、自分の席で、普段通りにシャープペンの先を、ノートに置いた。

置いたシャープペンの先は、ほんの一瞬止まった。


止まった後、彼女はノートの一番端、いちばん端、いちばん端のところに、ごく小さく何かを書いた。


書いた字は、たぶん誰にも、見えない大きさだった。


ただ、書き終わった後、彼女は自分のシャープペンの後ろの消しゴムを、ノートの上に当てなかった。


火曜日のひかりは「仮説2」を書いた後、すぐに消した。


水曜日のひかりは、何かを書いた後、消さなかった。


——「消さない」、というのは。


俺は、自分のノートの右上を、もう一度見た。

そこには、消した三行の白くふやけた跡が残っていた。


水曜日のひかりは、自分のノートの一番端っこに、何を書いて、消さずに置いたんだろう。


その「なに」を、俺は今日のところは、確かめる手段がない。

ない、けれど、たぶん——、火曜日に、ハンカチの糸の一本に触れた彼女の指先の、ギリギリの誠実さの続きの何かだった。


それで、よかった。


教室の対角線が、火曜日から水曜日の間に、また、ほんのちょっとズレた。

ずれたぶんは、たぶん、0.2センチくらいだった。

0.2センチ、というのは。

たぶん人間が二人で、一緒に、慎重に、近づこうとしているときの、一番誠実な刻み方だった。




一限目の途中、俺は机の下で、こっそりスマホを開いた。


ヨルのアカウントの通知欄。

そこに、@yoru_no_hikariさんからの新しい動きが、一つ増えていた。


————

@yoru_no_hikariさんが、あなたの古い投稿に、いいねをしました。

————


古い投稿——、というのは。


俺は、その通知をタップした。

画面の中に表示されたのは、自分でも、もうほとんど忘れかけていた、一番最初の投稿だった。


————

三年前、ヨルとして、いちばん最初に世に出した曲。

『君の夜を、ちゃんと、終わらせる』。

————


中学三年の冬に、深夜のうちに、書いて、深夜のうちに投稿した、今から思えば、自分でも、いろいろ未熟な曲だった。


再生数:今も五百回ちょっとで、止まっている。


——五百回。

いま、ヨルの新曲は普通に、五十万回、再生される。

そのうえで、一番最初の曲は、今でも五百回なのだ。


五百回というのは、たぶん、当時の自分の全部の現実だった。

深夜に一人で、ヘッドホンの中で再生して、なんでこんなにも世界に届かないんだろうと、普通に、ふつうに、ふつうに、絶望した。その絶望の回数の一つ、と、ほぼ同じ数字。


その五百のうちの、一回が——。


たぶん、今の七瀬ひかりだった。


中三の冬、両親の不仲のなか、毛布の中で震えながら、たまたまおすすめに上がってきた、再生数たった数百回の曲を、たまたま再生した女の子。

サビ前の三秒の沈黙で「息をしてもいい」と言われた気がした女の子。


そして今、教室の対角線の向こう側で、ノートの一番端に、何かを書いて、消さなかった女の子。


たぶん、全部同じ、一人の女の子だった。




俺は、その通知の画面の前で、しばらく息を止めた。


止めたあと、ようやく、思った。


——「五百回」だった日々の一番最初のいいねの、一番最初の数字の、たぶん、最初の一つが、ずっとこんなに、近くにいてくれた。


近くにいてくれて、今もまだ「ちゃんと、ヨル先生に、バレない範囲で」とか、本気で考えてくれている。


そういう人間に対して、「誰にも、知られなくていい」と、本気で言える人間は、たぶん世の中にいない。


俺は、画面をロックして、スマホをポケットにしまった。


しまって、もう一度、教室の対角線の一番遠い席のほうを、ちらっと、見た。


ひかりは、シャープペンの先を、ノートの中央の、その日の日付の下に、置いていた。

姿勢は、ふだんどおり、まっすぐだった。

横顔は、普段通りの教室の七瀬ひかりの、普通の横顔だった。


普通の横顔なのに、なぜか、その耳のあたりだけ——、いつもより、ほんのちょっとだけ、赤かった。


たぶんその赤さは、教室の蛍光灯のせいでも、五月の窓辺の光のせいでも、なかった。


それは、ヨルのアカウントの、いちばん古い、五百回しか再生されていない曲に、0.1秒、ためらってから、もう一度いいねを押したファンの、こっそりの体温だった。


俺は、その赤さを見たことを、彼女に、絶対に悟られないように——、自分の机のノートに視線を戻した。


ノートの中央に、しばらくシャープペンを止めていた。そして、ノートの中央には、何も書かなかった。


書かない代わりに、もう一度右上のふやけた白い跡のあたりに、ごく小さく、こう書いた。


————

水曜日。

0.2二センチ、引っ込めた。

糸の角度は、昨日と同じ。

五百回のうちの一回が、今日もう一度、ヨルの一番古い曲にいいねをした。

————


書いて、今日は消さなかった。


消さなかったのは、たぶん——、彼女が、ノートの端っこに、何かを書いて消さなかった、それと、ほぼ同じ理由だった。


教室の対角線の一番細い場所で。

二人とも、たぶんはじめて「同じ日のノートの消さなかったもの」を持った。


それを、誰にも見せていないまま。

それを、自分のノートの一番端っこに、置いたまま。


それでも、0.2センチだけ近づいた。


水曜日の朝の、教室の対角線は、たぶんその0.2センチでちょうど足りていた。




休み時間のチャイムが鳴った。


俺は、机の上のハンカチを、もう一度軽く整え直した。

0.2センチ引っ込めたまま、糸の角度は火曜日と同じ。


整え直して、ふと、教室の中央のほうへ、視線を滑らせた。


凛と目が合った。


凛は、自分の席で、普段通り頬杖をついていた。そして、普段通り不愛想な目つきで、こちらを見ていた。


ただ、こちらと目が合った瞬間、彼女は、口の動きだけで、声には出さず、一度こう伝えてきた。


————

ち ょ う ど い い。

————


「ちょうどいい」と声に出さない、唇だけの五文字。


それから、彼女は、すぐに視線を自分のノートに戻した。


戻したノートの一番右下の自分にしか見えない位置に。凛は、こっそり、こう書いていた。


————

ペンケース奥の折れた芯、まだ寝ている。

仕切り紙、まだある。

————


そして、その下に、もう一行書きそうになって——、書かずにペン先を止めた。


止めたペン先は、ノートの上に、ごく軽く、点を一つだけ残した。


その点を、凛は火曜日の朝のシャープペンの折れた芯が、彼女の「心臓の上のホクロ」になったあの点と——、今日のところは、結びつけないことにした。


結びつけないことにしながら、彼女は、自分の頬杖の中で、もう一度深く息を吐いた。


吐いた息は、火曜日の夜と同じくらい長かった。


「普通」で、いられる間は、「ふつう」でいる。


水曜日の朝の教室の対角線の、一番中央のあたりで——、観察員、黒澤凛は。自分の決意をもう一度、自分の頬の内側に軽く噛み込んだ。


噛み込んだ決意の奥のほうで、まだ名前のついていないひらがな三文字が——、今日も仕切り紙の向こう側で、ほんの少しだけ、白い息をしていた。


それを、凛は、今日も見ないことにした。


教室の窓の外の水曜日の空は、火曜日とほとんど同じ色だった。

ほとんど同じ色だったけれど、ほんの0.2センチくらい、なんとなく青の純度が変わっていた。


その0.2センチを、教室で一番ハッキリ感じていたのは、たぶん、凛一人だった。




火曜日の糸の一本のよじれと、水曜日の0.2センチの引っ込みの間に——、教室の対角線の一番細い場所が、また少しだけ細くなった。


細くなった分の糸を、誰が一番最初に、パチン、と切るのか。


それは、たぶん、まだ誰にもわからなかった。

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