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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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第13話 シャープペンの芯が折れるとき

黒澤凛は、家に帰って、自分の部屋の椅子に座って、しばらく何もしなかった。


通学カバンを、足元に置いた。

ブレザーをハンガーにかけ、ネクタイをゆるめた。


そこまでは、いつもの火曜日の、ふつうの夕方の動作だった。そして、いつもなら、そのあとに机の上の宿題か、図書館で借りてきた適当な文庫本のページを、開くはずだった。

ところが、今日の凛は、机の上の自分のペンケースのファスナーを開けて——、その中から、シャープペンの芯を一本、つまみ出した。


つまみ出した芯は、0.5ミリのHBの普通の芯だった。ただし、長さがほかの芯と比べて、明らかに短かった。ふつうの芯の半分くらいしかない。


折れた、芯、だった。


凛は、その短い芯を、自分の机の上のまっさらなノートの、一番右上の何もないところに、ぽつん、と置いた。


置いて、椅子の背もたれに、深くもたれた。


天井を見上げた。

天井には、いつもの白い蛍光灯の丸い光が、ひとつだけ灯っていた。


「……ふつう」


凛は、声に出して、自分自身にその単語を、つぶやいた。


つぶやいた、声は自分の部屋の空気の中で、思っていたよりも、小さく響いた。そして、つぶやいた、その単語を、彼女はいまの自分の頭の中の机の上に、一つ並べた。


「ふつう」。

「観察員」。

「幼馴染」。

「ライン」。


四つの単語を、頭の中で横に並べる。

四つとも、彼女がここ数日、自分の中で何度も、何度も、こすって、丸くしてきた単語だった。


一つずつ指先で摘んで、眺めて、元に戻す。

そういう作業を、たぶん、教室では、ずっと、頬杖の中でこっそりやってきた。


——指先で、摘む、というのは。


凛は、ふっ、と目を伏せた。


——指先で、摘む、というのは。

たぶん、自分が、まだ、その単語の外側に立っている、ということだ。


つまんでいるあいだは、自分は、その単語に、入っていない。

ただ、外から観察している、だけだ。


「ふつう」を、摘んでいる間は、自分は「ふつう」を、観察している側に、いる。

「観察員」を、摘んでいる間は、自分は「観察員」を、観察している、メタ観察員に、いる。

「幼馴染」を、摘んでいる間は、自分は「幼馴染」を、評価している評価者に、いる。

「ライン」を、摘んでいる間は、自分は「ライン」を、引いている設計者に、いる。


——どれをやっている間も、自分は、まだ安全だった。


凛は、頭の中の机の上の四つの単語を、もう一度ぼんやり眺めた。そして、四つの単語の後ろのほうに、もう一つ、自分が、ずっと、眺めないようにしてきた、別の単語がいることに気づいた。


それは、ぼんやり霞んでいて、文字の輪郭が、自分でもちゃんと見えなかった。ただ、それが、ひらがな、三文字くらいの短い単語であることは、なんとなくわかった。


凛は、その輪郭の前で、自分の指先を止めた。


摘もうとして、摘ままなかった。


——摘んだら、たぶん、観察員、終わる。


そう、思った。


摘んだら、その単語は、外側から、眺めるものでは、なくなる。

摘んだ瞬間、自分は、その単語の内側に、入ってしまう。


入ってしまったら、もう藤宮陽人と、自分の関係は、「観察員と観察対象」ではなくなる。


それは、たぶん「ふつうの幼馴染」を一つ壊すということだった。


凛は、その指先をゆっくり引っ込めた。


引っ込めた指先で、机の上の折れた芯の一番端のあたりを、軽くつついた。


つついた芯は、ノートの上で、コロン、と半回転して止まった。

止まった芯は、ノートの罫線のほとんど中央のあたりに、ぴったり寝そべった。


寝そべった芯は、なんとなく、こちらを見ているような気がした。


「……見るな」


凛は、芯に向かって、ちょっとだけ、口の中でつぶやいた。


「お前のせいで、私、今日、一回、頬杖の中で、普通じゃなかったから」

「お前のせいに、しとくから」

「ふつうじゃなかったの、お前のせい」


芯は、当然、何も言わなかった。


凛は、しばらく、その芯を見ていた。


見ながら、ふと、自分の頭の中の机の上に、もう一度目を戻した。


霞んでいた、ひらがな三文字の単語は、まだ、ほんやりそこにあった。


凛は、その輪郭のちょうど上のところに、指先でごく軽く、線を引いた。


線、というか。

ただの想像上の線、だった。

彼女の指先は、まだ机の上では、何も書いていなかった。

ノートの上にも、何も書いていなかった。


ただ、頭の中で、その単語のちょうど上のところに、薄く、薄く、横線を引いた。

取り消し線では、なかった。

仕切り線、だった。


「ここから先は、今日は、立ち入らない」


凛は、頭の中で、自分自身に、そう宣言した。


仕切り線の、こちら側に、「ふつう」「観察員」「幼馴染」「ライン」を置く。

仕切り線の向こう側に、まだちゃんと見ない単語を置く。


——きょうのところは、それでいい。


凛は、深く息を、吐いた。


吐いた息は、思っていたよりも、長かった。

吐いている途中で、自分でも、ちょっと、苦笑した。


長く吐く、ということは、長く、止めていた、ということだ。

たぶん、教室で、ずっと息を半分だけ、吐かないで、観察していたんだろう、と思った。


凛は、机の上の折れた芯を、もう一度摘み上げた。


摘み上げて、ペンケースの一番奥の、まだ使っていない、新品の芯の束のところまで、持っていって——、そっと、その新品の束の横に、寝かせた。


捨てなかった。


ふつうなら、折れた芯は、ゴミ箱に、捨てる。

0.5ミリのHBなんて、コンビニで二百円もしない。

わざわざ、ペンケースの中に残しておく理由は、たぶん、ない。


ない、はず、なのに、凛は、その芯を、捨てなかった。


捨てない代わりに、彼女は新品の芯と折れた芯の間に、ごく薄い仕切り紙を、想像で一枚置いた。


「新品」と、「折れた」。

その二つを混ぜないで、ペンケースの中に一緒に置く。


それは、たぶん、今の、自分の、頭の中の、感情の、整理の、仕方と、まったく同じだった。


「ふつう」の間は、「ふつう」だけ、使う。

「折れた」やつは、ペンケースのいちばん奥に、置いておく。

置いておくけれど、捨てない。

捨てないから、いつか、自分の手で、もう一度摘み上げる日が、来るかもしれない。

来るかもしれない、けれど、それは、今日ではない。


凛は、ペンケースのファスナーを、ゆっくり閉めた。


ファスナーの、ジジ、という軽い音が、自分の部屋の空気の中に、いつもよりもハッキリ響いた。


その音は、なんだか、自分の、心の奥のほうで、今ちょうど、一つ鍵を半分だけ、かけ直した音と似ていた。




——「ふじみや、はると」。


凛が、自分の頭の中で、その名前を、ふつうに、フルネームで呼ぶことができるようになったのは、たぶん小学校三年のころだった。


それまでは、「はるとくん」だった。

お互いの母親の前では、今でも、ときどき「はるとくん」になる。


小学校三年で、彼女は、ふと「はるとくん」から「藤宮」に呼び方を変えた。

それはたぶん、彼女の中で、勝手に起きた、小さな変更だった。


変更した理由は、今でも、よく覚えていない。

覚えていない、けれど、なんとなく、こうだった気がする。


「『はるとくん』のままだと、たぶん、わたしは、この子のことを、ずっと近くで見すぎる」。


そういう、まだ言語化できない、八歳の不器用な防衛だった気がする。


「藤宮」と呼んだ瞬間、二人の間に普通の、ふつうの、ふつうの、クラスメイトくらいの薄い線が、一本引かれた。

その線のおかげで、凛は「はるとくん」を、毎日、見続けることに、なんとなく罪悪感を覚えずに済んだ。


——たぶん、それが、いちばん最初の「ライン」だった、と今の凛は思う。


「ライン」を、一番最初に引いたのは、自分のほうだった。それを引いた八歳の自分のことを、今の凛は、ちゃんと覚えていて、ちゃんと感謝している。


「ライン」を引いたから、今の自分は藤宮陽人くんの、一番近い、安全な人間でいられる。


「ライン」を引いたから「ヨル」のことを、唯一教室で知っていても、彼を壊さずに済む。


「ライン」を引いたから、彼が「学校一の七瀬ひかり」とちょっとずつ、距離を縮め始めている、今の教室の対角線を、自分が「観察員」として見ていられる。


——だから、ラインを、壊してはいけない。


凛は、自分の机の上で、両手の指先を軽く組んだ。


普通の、ふつうの、ふつうの、幼馴染でいる。

それが、自分の一番長い、一番安全な、一番好きだったポジションだった。


「好きだった」と過去形をほんのちょっとだけ、自分の頭の中で使いそうになって——、凛は、ふっ、と自分の左手の指の関節を、軽く噛んだ。


「過去形、使うな」

「現在形のまま、置いとけ」

「今も好きでいる間は、たぶん、まだ、ふつう」


凛は、自分に念を押した。


押しながら、ふと、自分の机の上の、まっさらなノートの、ちょうど中央あたりを見た。


そこに、たぶん、今日、教室で、書こうとして書かなかった、ひらがな「ふ」を、彼女は、もう一度書こうとして——、


書こうとして、書かなかった。


書かなかった代わりに、彼女は、ノートの右下の一番端っこに、ごく小さく、こう書いた。


————

仕切り紙、一枚ありに、すること。

こちら側:観察員は黒澤凛。

向こう側:今日は、まだ見ない。

————


書き終えて、彼女は自分の字を、しばらく眺めた。


字は、いつもの自分の字だった。

いつもの自分の字なのに、なぜか、その「仕切り紙」の三文字だけ、ほんのちょっと、力が、強かった。


凛は、そのページを、ゆっくりめくった。


めくった次のページは、もうまっさらだった。


まっさらな白い紙のうえに、彼女は、今夜は、もう何も書かないことにした。書かない代わりに、彼女は、ペンケースの中の折れた芯のことを、もう一度思い浮かべた。


——「折れた、けれど、まだ、捨てない」。


その状態を、ペンケースの中だけではなく、自分の心の中にも、一つ置いておくこと。


「普通」の間は、「ふつう」を使う。

「折れた」感情は、一番奥に、寝かせておく。

寝かせておく、けれど、捨てない。

捨てないから、いつか、自分の手で、もう一度摘み上げて、ちゃんと見つめ直す日が、たぶん、来る。


その日は、たぶん、今日ではない。


そして、その日が来るときは、たぶん、自分が選ぶのではなくて——、藤宮陽人と、七瀬ひかりの、二人の対角線の一番細い場所が、もう、自分の手の届かないところまで近づいた、その瞬間だ、と凛は、なんとなく知っていた。


知っていて、今日のところは、それを、ちゃんと見ないことにした。


「普通」で、いられる間は、「ふつう」でいる。


それが、今夜の、黒澤凛の一番小さな、けれど、一番本気の決意だった。




机の上に置いておいた、スマホが、ぽん、と軽く振動した。


凛は、ふと、画面を起こした。

画面には、藤宮陽人からのメッセージが、一通、届いていた。


————

藤宮:今日、ありがとう。

藤宮:業務支給品、明日も机の上に、出しておく。

————


たった、二行だった。

それだけ、だった。


凛は、その二行を、しばらく見ていた。


見ながら、彼女はほんの少しだけ、口の端で笑った。

笑ったのは、教室で、藤宮に向ける、いつもの「だっせ」の笑いと、ほぼ同じ角度の笑いだった。


ほぼ、同じ角度、だったけれど。

そのいちばん端のところで、0.1ミリくらい、彼女自身が、まだ、ちゃんと認めていない方向に、口角が傾いていた。


その0.1ミリの傾きを、凛は、自分自身の手で、軽く押さえ直した。


「ふつう」の角度に、戻した。


戻して、彼女は、藤宮に、短い返信を打った。


————

凛:業務支給品、なくしたら、減給。

凛:あと、明日は、机の上の置き方、0.5センチ、はみ出させすぎ。0.2センチ、引っ込めとけ。

————


そして、最後の一行を打って送った。


————

凛:観察員より。

————


送ってから、凛は、スマホを、机の上に、ぽん、と置いた。


置いて、椅子の背もたれに、深くもたれた。


天井の白い、丸い、蛍光灯の光を、もう一度見上げた。


火曜日の夕方の、自分の部屋の天井は、いつもの、火曜日の夕方の、ふつうの天井、だった。


ふつうの天井だった、けれど。


その天井の、一番端のほうに、彼女の心の中で、たぶん、今一番、長い息を一つ、フー、と吐いた。


吐いた息は、誰にも見えなかった。


誰にも見えなかったから——、その日、彼女が、自分の心の、一番奥のほうで「ふつう」の間は、ふつう、でいる、ともう一度、自分自身に、深く、深く、誓い直したことも、たぶん、世界中で、彼女ひとりだけが、知っている、小さな秘密になった。


その小さな秘密の、一番端っこのところに——、まだ、名前のついていない、ひらがな三文字の単語が、仕切り紙の向こう側で、ほんの少しだけ、白い息をしている、ような気がした。


凛は、それを、今夜は、見ないことにした。




第二章「通知音は、世界を壊す」の一番最初の、本当の通知音は、たぶん、火曜日の昼に、教室の対角線の一番細い場所で、もう鳴っていた。

鳴っていたけれど、それを、世界で一番ハッキリと、自分の耳の中で、聴いてしまったのは——、SNSの画面の前にいる誰でも、教室の真ん中の七瀬ひかりでもなく。


たぶん、自分の部屋の、机の上のペンケースの、一番奥のところで、折れた芯を捨てずに寝かせた、ひとりの幼馴染だった。


凛は、それに気づいていた。

気づいていて、今夜のところは、それを、ちゃんと名前にしないことにした。


「普通」で、いられる間は、「ふつう」でいる。


夜の九時の、彼女の部屋の天井は、まだ、二つの白い丸い光だった。


明日も、たぶん、ふつうの、白い丸い光だった。


その間は、彼女は、ちゃんと観察員で、ちゃんと幼馴染で、ちゃんとラインの、こちら側にいる。


——いる、つもりだった。

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