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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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第12話 淡い水色を拾えなかった人

火曜日の休み時間、ひかりは自分の席から、ゆっくり立ち上がった。


立ち上がる動作は、いつも通りだった。

椅子を引く音もいつも通り、ほんの少しだけ、控えめだった。


教室の女子三人組の輪は、既に教室の真ん中あたりで、緩くできあがり始めていた。

ひかりは、そっちに混ざりにいくふりフリをして、わざとその通路ではない別のほうへ、足を向けた。


別のほう、というのは。

具体的に言うと、教室の後ろのほう。

もっと言うと、エアコンの真下、廊下側の、一番端の、藤宮陽人くんの机のほう。


——「ふり」だ、ふり。


ひかりは頭の中で、自分に何度も念を押した。


これは、藤宮くんの机に行くために、歩いているのではない。

これは、教室の後ろのゴミ箱に、ボールペンのインクを、捨てに行くために歩いている。インクが切れた。本当に切れている。さっき、わざわざ最後の一滴まで書ききった。

書ききった瞬間、ひかりは自分でもぞっとした。書ききるために、なんの意味もない二重線を、ノートの隅に十センチ分くらい引いた。あの二重線は、本当になんのために引いたのか、神様にしかわからない。

たぶん、神様にもわからない。


そのインクを捨てに、ゴミ箱に行く。

これは生徒として、まったく普通の動線だ。

普通の動線です。

普通の、動線、です。


ひかりは頭の中で、もう一度、念を押した。


そして、教室の後ろの通路を歩き始めた。


歩きながら、ひかりは自分の右手の、人差し指と、親指の間に挟んだ、空っぽのボールペンを軽く握り直した。そのボールペンは、彼女の本日の一番の共犯者だった。


——ボールペンさん。

ひかりは心の中で、ボールペンにハンカチさん以来の敬称をつけた。

ボールペンさん、今日だけ本当にお願い、お願い、本当に、お願いします。


ボールペンは、何も答えなかった。

ただ空っぽの中で、軽い音だけが彼女の指の間で転がった。その音は、なんとなく、笑っているように聞こえた。



普段は、こんなに通路の歩幅を、自分でコントロールしたことはなかった。

学校一の七瀬ひかりの歩幅は、普段はもう勝手に、半歩広く出るからだ。それは、教室の七瀬ひかりの設定済みのデフォルト値だった。


ところが、今日のひかりの歩幅は。

半歩広いように見せかけて、実は最後の一歩のところだけ、少しだけ短かった。


短く、した。

わざと、した。

わざと、した、ということを、ひかりは自覚していた。


なぜなら、藤宮くんの机のちょうど一番横を、通り過ぎるときに、一旦自分の歩幅を半歩分、短くしないと——、机の上の淡い水色のハンカチを、ちゃんと視界に入れる時間が足りないからだった。


机の角から、半分はみ出していた。

朝、自分の席から見たときに、もうそれは、確認していた。


確認していて、それで、ここまで歩いてきた。


歩いてきて、机の真横の手前、半歩分、手前の地点で、ひかりは、ふと自分の足の指先が、止まろうとしていることに気づいた。


——立ち止まったら、ダメだ。


ひかりは、自分の中でハッキリ号令をかけた。


立ち止まったら、それは、もう「インクを捨てに、ゴミ箱に行く動線」では、なくなる。

「藤宮くんの机のハンカチを、わざわざ立ち止まって見にきた女子」になる。


それは、本日の一番避けたい絵だった。


ひかりの足は、号令に従って止まらなかった。

止まらなかった、のだけれど。

歩幅だけは、最後の一歩で確かに、ほんの少し短くなった。


その「短くなった一歩」を、たぶん教室で、一番ハッキリ見ていたのは。

窓側の自分の席で、頬杖をついていた、黒澤凛、だった。


凛は、自分の頬杖の手の中で、ほんの少しだけ目を伏せた。

伏せた、その瞬間、凛はたぶんこう思った。


——あ、いま、七瀬さん、ちゃんと藤宮の作戦に、引っかかった。


そして、その「引っかかった」を本来なら、凛は観察員として、淡々とメモする、はずだった。淡々とメモする、はずだったのに。

頬杖の中の指先が、メモを書くシャープペンをほんの一瞬、強く握りすぎた。


——シャープペンの芯が机の上で、パキ、と軽い音を立てて折れた。


折れた芯は、ノートの右上の何もないところに、コロン、と小さな点になって止まった。その点は、まるで凛の心臓の上に、誰かが不器用に、小さなホクロを一つ追加した、みたいだった。


凛は、その点を自分の指先で、こっそり消した。

消したのに、消えた気がしなかった。



ひかりは、藤宮くんの机の真横を通り過ぎた。


通り過ぎる、そのほんの0.2秒の間に、彼女は机の上の淡い水色のハンカチを、視界の右上にハッキリ見た。


ハンカチは、机の角から半分、はみ出していた。

朝のままだった。


ハンカチのはみ出している部分の、一番端っこ。

そこに、ごく薄くシャープペンで、何かが書かれていたような、気がした。


「気がした」だけだ。

気がした、だけなのに、ひかりの心臓は、勝手に半拍ズレた。


ハンカチに文字を書く、なんて、普通はしない。

普通はしない、のに、彼女の目には、はみ出しているハンカチの角に、何か、ごく薄い灰色の線が見えたように感じた。


それが、文字なのか、ただのシャープペンの芯が、こすれただけの汚れなのか、ひかりには、判別がつかなかった。

判別を、つけるためには、立ち止まって、もう一度、よく見なければ、ならなかった。


立ち止まったら、終わりだ。


ひかりは自分に、もう一度、号令をかけた。


そして、立ち止まらないで通り過ぎた。


通り過ぎながら、彼女は、ゴミ箱の方向をまっすぐ見ていた。

見ていた、はずだった。


教室の後ろのゴミ箱の、ちょうど、手前。


ひかりの右手の空っぽのボールペンは、ちゃんとゴミ箱の中に落とされた。落ちる音は、軽いプラスチックの普通の音だった。


普通の音、だった、のだけれど。


ひかりは、その音を聞きながら、一度、フッ、と目を伏せた。


——ボールペンさん、ありがとう。


伏せた目の奥のほうで、ひかりはもう一度、共犯者に頭を下げた。

これで、自分は教室の後ろの通路を、普通に、ふつうに、ふつうに、歩いた、女子になれた。


「インクを捨てに、ゴミ箱に行ったついでに、たまたま藤宮くんの机の、ハンカチが視界に入っただけ」。


そういうシナリオにできた。

できた、はず、だった。


なのに、ゴミ箱の前で、彼女はしばらく動けなかった。


動けなくて、ゴミ箱の隣の、机の上の、誰かが置いてたポケットミラーを、ぼんやり見つめていた。


小さな鏡には、教室の蛍光灯が四角い光になって映り込んでいた。その光のなかに、ひかりの栗色の髪の輪郭が見えた。

そこに映っている自分の顔は、教室の七瀬ひかりの、八十パーセントの顔ではなかった。


それは、たぶん淡い水色のハンカチを、本当は拾いたかった、本物のひかりの顔だった。



——拾えなかった。


ひかりは、心の中でこっそり、その文字を自分に認めた。


拾えなかった、というのは。

ハンカチを手に取れなかった、という物理の、話ではなかった。


ハンカチを拾うことで、藤宮くんにもう一度、教室で、普通に話しかけることが、できなかった、という話だった。


藤宮くんは、たぶん机の上にわざとハンカチを置いた。机の角から、半分はみ出していたのは、たぶんわざとだった。彼が、わざとそこまでお膳立てして、待ってくれていた。


待ってくれていた、ということに、ひかりは、藤宮くんの机の真横を通り過ぎる、あの0.2秒の間に全部、気づいていた。


気づいていて、それでも、立ち止まれなかった。


なぜなら。


立ち止まって、ハンカチをもう一度、手に取って、藤宮くんに何かを言ったら——、自分の口から、絶対に出てきてしまう、一番まずいセリフがあったからだった。


——「藤宮くんって、もしかして、ヨル先生ですか?」


そのセリフを自分の口から、出さないでいる自信が、今のひかりにはなかった。


「正解」には、絶対に触れない、と自分の中で決めたはずだった。土日の間、ずっと決めていたはずだった。日曜日の夜の姿見の前で、自分自身に何度も確認したはずだった。


「絶対に、バレない範囲で」。


そう、確認したはずだったのに。


藤宮くんの机の上の、淡い水色のハンカチが——、たったハンカチ一枚だけが、その「絶対に」を、教室の通路の半歩の歩幅の最後の一歩で、ぐらり、と揺らした。


それは、たぶん、ひかりにとって一番怖いことだった。


なぜなら、ひかりは、ヨル先生の一番のファンだったからだ。


一番のファンは、自分の推しの一番大事にしている前提を、自分の都合で壊してはいけない、と思っていた。


ヨル先生は、「別に、誰にも知られなくていい」と、言っている人だ。


その人のその前提を、自分のたった一回の衝動で、壊してはいけない。


——だから、立ち止まれなかった。

だから、ハンカチを拾えなかった。

だから、普通に、ふつうに、ふつうに、通り過ぎた。


そう、自分に言い聞かせる。


言い聞かせる度に、ポケットミラーの映り込みの中の自分の顔が、もう一度、ほんの少しずつ、ぼやけていった。


そのぼやけかたは、たぶん、目に涙が滲んでいた。


ひかりは、ぱっ、と目を伏せた。


伏せながら、ぐっ、と奥歯を軽く噛んだ。


教室の七瀬ひかりは、教室で絶対に泣かない。

教室の七瀬ひかりは、教室で絶対に泣くようなことにならない。


そのルールは、彼女自身が何年もかけて、自分で組み立てた、一番大事なルールだった。


そのルールを、教室の後ろのゴミ箱の前で誰にも、見られないところで、こっそり壊しそうになっている自分がいた。


——だめだ、ひかり、戻れ。


ひかりは、自分の頭の中の作戦本部に、緊急の指令を出した。


「『泣きそうな七瀬ひかり』を、教室には絶対に戻さない」

「一旦女子トイレに寄って、八十パーセントの七瀬ひかりに上書きしてから戻る」

「上書きが間に合わなかったら、保健室に行く」


作戦本部は、その指令を即座に了承した。


ひかりは、ゴミ箱の前から教室の出口のほうへ、ゆっくり歩き出した。


その途中、彼女はもう一度、藤宮くんの机の真横を、通り過ぎなければならなかった。


通り過ぎる、その、ほんの0.2秒のあいだ。


ひかりは、今度は、机の上の淡い水色のハンカチのほうを、視界の一番端、いちばん端、いちばん端のところに、ギリギリ置いた。


置いたまま、視線はまっすぐ、教室の出口のほうへ、向けたままだった。


そして、通り過ぎる最後の半歩のところで——、


ひかりの、右手の人差し指の、ごく、ごく、ごく先端だけが。


藤宮くんの机の、一番端の淡い水色のハンカチの、一番端っこの糸の、たった一本のところに——、ほんの0.1秒だけ、触れた。


それは、たぶん、教室で誰にも見えなかった。


たぶん、藤宮くん本人にも見えなかった。


ただ、教室の窓側の自分の席で、頬杖をついていた、黒澤凛だけが——、シャープペンの折れた芯の小さなホクロみたいな点のあたりを、まだ指先で、こすっていた手を、その瞬間止めた。


凛は、何も言わなかった。


ただ、自分の口の中で、誰にも聞こえない声で、こうつぶやいた。


「……『正解』には、触れないって、二人とも決めたのに」

「一番端の糸、一本だけは触っちゃうの、どうなの、それ」


つぶやきの、最後のところで、凛の声は、ほんの少しだけ震えた。


震えた、というよりも。

正確には、彼女自身の、まだ名前のついていない感情の、いちばん、いちばん、一番遠い、端っこの、糸の一本に、彼女自身の心の指先が、その瞬間、ほんの0.1秒だけ、ギリギリで触れていた。


凛は、それに気づいて、すぐにその指先を引っ込めた。


引っ込めた指先は、彼女の頬の頬杖の中に、もう一度、深く押し込まれた。


——「普通」、で、いられる間は「普通」、でいる。


凛は、もう一度、自分自身に、心の中で念を押した。

押した念押しの最後の音節を、自分の頬の内側に軽く噛み込みながら。


凛は、教室の窓の外の火曜日の普通の青空を、もう一度見た。

空は、いつもの火曜日の、普通の空だった。

普通の空だった、けれど。


たぶん、それが「普通」に見えるのは、今の自分が、まだ自分の感情に、名前をつけていない、おかげだった。


名前さえつけなければ、空はまだ普通の色をしている。


凛はそのことに、ほんの少しだけ安堵しながら——、その安堵が、たぶんいつまでも、続くものではない、ということに、まだちゃんと向き合わないことにした。



ひかりは、教室の出口を抜けた。


抜けて、廊下に出た瞬間、彼女は両手の人差し指の腹を片方ずつ、自分の目の下に軽く押し当てた。


押し当てた、人差し指の片方の指先には。

ほんの0.1秒だけ、淡い水色のハンカチの糸の一本の感触が、たぶんまだ残っていた。


残っている、はずがないのだけれど。

ひかりは、その指先を見ないようにして、もう一方の手で、ぎゅっと握り込んだ。


握り込んで、女子トイレのほうへ歩き出した。

歩きながら、彼女は、心の中で、こう、つぶやいた。


——藤宮くん、ごめんなさい。

——わたし、今日、たぶん、全部、わかっていたのに、全部、何もしなかった。

——でも、それは、たぶん、今の、わたしに、できる、一番の、誠意、だったと思います。


そして、ふと、ひかりは、もう一行、心の中に思い浮かべた。


——「貸し」のセリフ、まだ、有効ですよね。


その一行を、彼女は、自分の左手の内ポケットの上を、軽く押さえながら、頭の中で丁寧に書き写した。


内ポケットの中には、まだ白いレースのハンカチが洗いたての匂いで、静かに息をしていた。


「貸し」のセリフは、まだ終わっていない。

だから、ハンカチはまだ返さない。


それが、火曜日のひかりの、一番小さな、けれど、一番本気の決意だった。


教室の対角線が火曜日の朝、半歩ズレた。

ズレたまま、火曜日の昼休みも、たぶん近づいてくる。


その間、藤宮陽人くんは、机の上の淡い水色のハンカチがほんの0.1秒だけ、一番端の糸の一本のところで、触られたことを——、自分は、たぶん、一生気づけないんじゃないかと思っていた。


たぶん、一生気づけない、と思っていた。


ところが。


休み時間の終わりに、自分の机に戻った彼は、ハンカチの一番端っこの、糸の一本の、ほんの先端のあたりが、ほんの少しだけ内側に、よじれていることに気づいた。


ほんの少しだけ、内側によじれたその糸の一本を。


藤宮陽人は、教室の誰にも見えない位置で、指先でそっと戻してやった。


戻しながら、彼の口の端は、ほんの少しだけ上がった。


その「上がり」は、ヨルが土日の間、一度も書けなかったメロディの、最初のひと音目を、ようやく置けたときの、笑い方と——、たぶんまったく同じだった。


火曜日の三限目の予鈴が、教室に鳴り響いた。

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