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学校一の陽キャ美少女が、俺の匿名アカウントの熱狂的なフォロワーらしい  作者: 虎山雲龍


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第17話 ふつうの八十パーセントで

金曜日の朝が来た。


五月下旬の金曜日。

一週間のいちばん最後の朝は、教室にとっていちばん油断している朝だ。


俺はいつも通り、いちばん後ろのエアコンの真下、廊下側の席に座った。

机の上に、教科書、ペンケース、ノート、そして淡い水色のハンカチを、0.2センチ、引っ込めた位置に置いた。


凛はいつも通り、自分の席で頬杖をついていた。

俺と目が合うと、彼女は唇だけで「ふ・つ・う・に」と四文字、伝えてきた。


そして、ひかりが教室に入ってきた。


「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」


ワントーン高い声。

八十パーセントの笑顔。

半歩、広い歩幅。


——ふつうだった。


昨日の九十五パーセントの無理のある明るさは、もうどこにもなかった。

木曜日の間に、彼女は家で、ちゃんと自分の「八十パーセント」を、ぴったり調整し直してきた。


宣言通りの、ふつうの八十パーセントの七瀬ひかりだった。


「ねぇひかり、昨日結局、彼氏からの連絡だったの?」

「だ、だから、彼氏、いないってば!」

「えー、ほんとにー?」

「ほんとだってば!」


教室の女子たちが笑った。

ひかりも、笑った。


それはもう、ちゃんと教室のふつうの金曜日の朝の、ふつうの笑い声だった。


木曜日の休み時間に、教室の対角線が、パチン、と切れたことなんて、教室の誰も覚えていなかった。


覚えていたのは、たぶん三人だけだった。




一時間目が終わった。


休み時間にひかりがふと、自分の席を立った。

立って、教室の後ろのほうへ、ゆっくり歩いてきた。


——また、ゴミ箱にインク替芯を捨てに来るのか。


俺は心の中で、ほんの少しだけ身構えた。

水曜日のひかりは、空っぽのボールペンを、共犯者にして教室の後ろを歩いた。


ところが、金曜日のひかりは手にボールペンを持っていなかった。


持っていなかった、代わりに——、彼女は、まっすぐ、俺の机のすぐ横まで歩いてきて、立ち止まった。


教室のいちばん明るい場所の住人が、いちばん暗い席の住人の机の横で立ち止まる。

それは、教室の中でほんの少しだけ、ちぐはぐな光景だった。


ただ、金曜日のひかりは、もうそれを隠そうとはしなかった。


「藤宮くん」

「……ん」

「これ」


ひかりは、自分のブレザーの内ポケットから、白いレースのハンカチを取り出した。


きれいにたたまれた、洗いたての白いハンカチ。

月曜日からずっと、彼女が家で洗って、内ポケットに忍ばせてきた、あのハンカチだった。


「返します」

「……え」

「『貸し』、返します」

「……いつ、返すかは『いちばん、忘れた頃に』、じゃ、なかったのか」

「……」

「もう忘れた頃、なのか」

「……ううん」


ひかりはほんの少しだけ、首を横に振った。


「忘れた頃には、ぜんぜんなってないです」

「……じゃあ、なんで」

「忘れた頃に返したら、たぶん、わたし、それまでずっと、このハンカチのこと考えちゃうから」

「……」

「考えちゃうと、たぶん、わたし、教室でふつうの、できなくなるから」

「……」

「だから、忘れる前に返します」


それは、ひかりのいちばん誠実な撤退だった。


「貸し」というセリフを、ずっと抱えていたら、彼女は、教室でふつうでいられなくなる。

ふつうでいられなくなったら、いちばん損をするのは、たぶん彼女自身だ。

そして、彼女がふつうでいられなくなったら、教室の対角線の糸は、もう保たない。


だから彼女は、自分の手で、その「貸し」を忘れる前に清算しに来た。


俺は、その白いハンカチを、受け取った。

受け取りながら、こう言った。

「……七瀬」

「はい」

「これ受け取ったら、もう貸しは、なしか」

「……はい」

「貸しがなくなったら、俺たち、もうなんの接点もなくなるのか」

「……」


ひかりはしばらく、なにも言わなかった。


言わなかったあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。


「……接点、なくなりますね」

「……」

「図書委員も、来月で、当番終わりだし」

「……」

「もうわたしたち、教室で話す理由なくなっちゃうかもしれないですね」


それはたぶん、ひかりがわざと言った言葉だった。


「接点が、なくなる」と、自分から口に出すことで——、こちらがそれに対して、どう答えるか。

それを、彼女は確かめに来ていた。


「正解には触れない」「断定はしない」という、彼女のルールのなかで。

彼女が、こちらに聞ける、いちばんギリギリの質問だった。


「藤宮くんは、接点がなくなったら、困りますか?」とは、聞かない。

「藤宮くんは、わたしと話す理由、ほしいですか?」とも、聞かない。


ただ「接点、なくなっちゃいますね」と、言う。

言って、こちらの答えを、待つ。


俺は、机の上の白いハンカチを、軽く手のひらで撫でた。

撫でて、それから自分のペンケースの隣の、淡い水色のハンカチを、もう一枚手に取った。


凛から押し付けられた、業務支給品。

0.2センチ引っ込めて置いていた、あのハンカチだった。


俺は、その淡い水色のハンカチを、ひかりのほうへ差し出した。


「……これ、貸す」

「……え」

「貸し出し処理。図書委員じゃなくて、俺の個人的なやつ」

「……」

「これ返しに来るまでが、接点。それでいいだろ」

「……」

「いつ、返すかは」

「……」

「『いちばん、忘れた頃に』でいい」


ひかりは、その淡い水色のハンカチを見ていた。

見て、それからゆっくり、両手で受け取った。


受け取った瞬間、ひかりの八十パーセントの笑顔が、ぐらり、とズレた。


ズレて——、今度は、立て直さなかった。


立て直さないままの、ひかりの笑顔は、八十パーセントでも、夜のひかりでも、図書室の薄い笑顔でもなく——、たぶん教室の、いちばん明るい場所で、はじめて彼女が、自分の「ふつうじゃない」を、半分だけ出した笑顔だった。


「藤宮くん」

「……ん」

「これ、貸し、ですよね」

「……うん」

「ぜったい返しに、来ますからね」

「……うん」

「『いちばん、忘れた頃』、ぜったい来ますから」

「……うん。待ってる」

「……っ」


ひかりは、淡い水色のハンカチを、ぎゅっと両手で握って、それを自分のブレザーの内ポケットにしまった。


白いハンカチが入っていた、あの場所に。

今度は、淡い水色のハンカチが入った。

そして、彼女は軽く頭を下げて、自分の席のほうへ戻っていった。


戻っていく背中の低い位置の、ゆるいひとつ結びのうなじが、五月下旬の金曜日の午前の光に、ほんの少しだけ白く見えた。


そのやりとりを、教室のいちばん中央の席で頬杖をついて、見ていた人間が、ひとり、いた。


凛だった。


凛は、なにも言わなかった。

言わなかった、けれど。


彼女は、自分の手元のノートのいちばん右下の、自分にしか見えない位置にシャープペンの先を置いていた。


そしてそこに、ごく小さくひらがなを書いた。


————

————


彼女が書こうとして、書かなかった、ひらがな、一文字。


その「ふ」のあとに——、金曜日の教室のいちばん中央で、彼女は、ほんの少しだけ、ためらってから、もう一文字書き足した。


————

ふじ

————


「ふじ」。


「ふじみや」とは、書かなかった。

「ふじみや」と書いた瞬間、それが「藤宮」というクラスメイトの名字ではなく、「藤宮陽人」という、ひとりの男の子の名前として、自分の中に書かれてしまうことを——、凛は、もうわかっていた。


わかっていて。


彼女は、「ふじ」までで、シャープペンの先を止めた。

止めて、その「ふじ」の二文字を、シャープペンの後ろの、消しゴムで、消そうとして——、


消さなかった。


水曜日までの凛なら、たぶん消していた。

木曜日までの凛なら、たぶん迷っていた。


金曜日の凛は——、消さなかった。


「ふじ」の二文字を消さずに、ノートのいちばん右下に残したまま。

彼女は、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。


そして、自分の口の中で、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。


「……普通、でいられる間は、ふつう、でいる」


それは、いつもの彼女の決意の言葉だった。


ただ、金曜日のそれは——、いつもよりほんの少しだけ、語尾がふやけていた。


「いられる間は」。


その「あいだ」が、いつまで続くのか。

それを、凛は、もう自分でも長くはないことを、知っていた。


知っていて、今日のところは、それを、ちゃんと名前にしないことにした。


「ふじ」までで、止めて。

仕切り紙の向こう側に、その続きを、もうしばらく、置いておく。


それが、金曜日の黒澤凛のいちばん小さな、けれど、いちばん本気の決意だった。


ペンケースの、いちばん奥の折れた芯は、まだ寝ていた。

寝ていた、けれど。


その芯のいちばん端っこのところが——、金曜日の朝、ほんの少しだけ、目を覚ましかけていた。


凛は、それを見ないことにして、ノートのいちばん右下の「ふじ」の二文字の上に、自分の手のひらを、そっと重ねた。


重ねた手のひらは、しばらく、そこから動かなかった。




放課後、俺と凛は、いつもの屋上手前の踊り場にいた。


凛は、自販機で買ったコーヒー牛乳のパックを、両手で軽く潰しながら、こう切り出した。


「藤宮」

「……ん」

「今週、いろいろ、あったな」

「……あったな」

「月曜のハンカチから、金曜のハンカチまで」

「……ハンカチで始まって、ハンカチで終わった、一週間だったな」

「ハンカチの貸し借り、まだ続いてるけどな」

「……うん。続いてる」


凛は、コーヒー牛乳の最後の一口を、ずず、と飲み干して、潰したパックをゴミ箱に放り投げた。

パックは、きれいにゴミ箱の口の中に入った。


「藤宮」

「……ん」

「彼女、最後まで、『ヨル先生ですか』って、聞かなかったな」

「……聞かなかった」

「教室のいちばん危ないとこでも、聞かなかった」

「……うん」

「あれ、お前、どう思った?」

「……」


俺は、踊り場の窓の外を、しばらく見ていた。


五月下旬の金曜日の、夕方の光がいつもより、ほんの少しだけ、長く踊り場の床に伸びていた。


「……あれは、たぶん」

「うん」

「彼女のいちばん強い、好きのカタチ、だったと思う」

「……好きの、カタチ?」

「うん」

「聞かないのが?」

「うん」

「『ヨルさんが、自分から言わない限り、聞かない』。それは、たぶん、彼女が、俺の——いや、ヨルのいちばん大事な前提を、守ろうとしてくれてるっていうこと、だから」

「……」

「自分のいちばん知りたいことを、自分で聞かないでいる。それはたぶん、いちばんしんどい、好きのカタチだ」

「……」

「俺はそれに、ちゃんと応えたい、と思った」

「……どうやって」

「彼女が、自分から聞かないでいてくれるなら」

「うん」

「俺も、彼女が自分から、その答えをほしくなる日まで、ちゃんと待つ」

「……待つ?」

「うん」

「いつまで」

「……彼女が『藤宮くん、ヨル先生ですよね』って、自分から聞いても、なにも壊れないって思える日まで」

「……それ、いつだよ」

「……わからない」

「わからないのに、待つのか」

「……うん。待つ」


凛は、しばらく、なにも言わなかった。


言わなかったあと、彼女は、ふっ、と自分の口の端で笑った。


「……お前、変わったな」

「……そうか?」

「先週まで、『別に、誰にも知られなくていい』って、言ってた男が」

「……」

「今週は『彼女が自分から、聞いてもなにも壊れないって、思える日まで待つ』だってさ」

「……」

「だっせ」

「……うるさい」


凛は笑った。

口の端だけじゃなくて、ほんの少しだけ声を出して、笑った。


声を出して笑う凛は、家族と俺の前でしか見せない凛だった。


笑ったあと、彼女はふと、踊り場の窓の外の夕方の空を見た。


五月下旬の金曜日の夕方の空は、ほんの少しだけ夏に近づいた色をしていた。


凛は、その空を見ながら、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。


そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。


「……普通、で、いられる間は、ふつう、でいる」


それは、いつもの決意の言葉だった。


ただ、その言葉のいちばん最後の音節が——、夕方の踊り場の空気の中に、いつもよりほんの少しだけ、ふやけて溶けていった。


俺は、それに気づいた。

気づいた、けれど。


凛が、今ノートの右下に「ふじ」までしか、書いていないことも。その「ふじ」を、消さずに残したことも。


俺は、まだ知らなかった。


知らないまま、踊り場の窓の外の夕方の空を、凛と並んで、しばらく見ていた。


その空のいちばん端のほうに——、来週の月曜日の朝が、たぶん、もう、ほんの少しだけ見え始めていた。


来週の月曜日も、ひかりは、たぶん、ふつうの八十パーセントで教室に来る。

来て「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」と、ワントーン高い声で言う。


そして、教室のいちばん明るい場所といちばん暗い席の間の、対角線のいちばん細い場所には——、淡い水色のハンカチの「貸し」が一枚、まだ繋がっている。


その「貸し」が、繋がっている間は。

ふたりの接点は、まだなくならない。


「いちばん、忘れた頃」が、来るまでは。


たぶん、ずっと、来ないままの「いちばん、忘れた頃」が来るまでは。


教室の対角線は、木曜日に一度、パチンと、切れた。

切れた、けれど。


金曜日に、もう一度、淡い水色の糸で結び直された。

結び直された糸は、先週より、少しだけ短くて、少しだけ太くて——、そして、誰にも断定されないまま、ちゃんと繋がっていた。


五月下旬の金曜日の夕方の踊り場に、夏に近づいた色の光が、ほんの少しだけふやけた色で、差し込んでいた。


第二章「通知音は、世界を壊す」、これにて、完。

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