09:アゲハ蝶
空も見えず花も咲かない場所に迷い込んだ蝶々。
雪雉から見た鈴の第一印象は、言葉で表すならばそんなところか。
昔々、まだ雪雉が子供の頃の話だ。
たびたび親に連れて行かれる社交界とは大人達が顔を売って人脈を広げる為のもの。
表面上は和やかににこやかに過ぎて行っても、実のところむしろ窮屈で息が詰まる。
令息令嬢として育てられている以上、皆それぞれ親からマナーを叩き込まれて愛想良くしろと強制もされているのだ。
家や親の仕事関係で同年代を紹介されては「仲良くしてあげて」の社交辞令には疲れてしまう。
特に家柄も見目も良い雪雉はよく大人達に可愛がられていたが、所詮は七光りだと思っていたのであまり嬉しくない。
そんな中で一際小さくて可愛らしい同年代の少女、それが鈴だった。
髪を結ぶ青いリボンと黒いワンピースの裾がひらひら舞って、まるでアゲハ蝶。
雪雉の一つ下だということを差し引いても儚げに見えたもので、会うたび気になってしまう。
話し掛けると小さく頷いて、雪雉の姉妹も一緒に交友が始まった。
長男の雪雉は日頃から家で頼られる役割。
鈴をつい構いたくなるのは、その延長や自分の性分とばかり思っていた。
しかし見回してみれば、同じように所在なさげな子供なんて幾らでも居る。
鈴だけ「オレが居ないと」と特別扱いして囲っていた理由を考えてみれば、あれは一目惚れで初恋。
根が真っ直ぐなもので多少の照れはありつつも自覚は早かった。
雪雉にとっての鈴は蝶々などではなくお姫様だと。
しかし子供にとっての一つ二つの違いは大きい。
ただでさえ無意識で鈴を子供扱いしていた雪雉のこと、気持ちを伝えるにもまだ早過ぎる。
困らせてしまうだけなのは目に見えていて、密かに言葉を飲み込んだ。
そうしてお互い中学生になったら告白しようと決めていた矢先、あの流血沙汰事は起きた。
年頃になってからご令嬢達のアプローチを受けるようになり、鬱陶しいとしか思っていなかったのに。
あれが刃物に変わって鈴に向いてしまうなんて考えたこともなかった。
愛には暴力性があると雪雉は初めて思い知ったのだ、最悪の形で。
傷害罪で訴えることもできた筈の鴨志田は事を荒立てたくないと、複数の家から多額の慰謝料で手打ち。
当然の話、雪雉は加害者達に対して頭に血を昇らせたが「報復するまでも無い」と父に止められた。
それらの家とは真っ先に日下部が縁を切ったことで周りも次々に倣い、今ではすっかりどこも没落してしまったという。
軽率な行動や噂一つが命取りになる、そういう世界なのだ。
それより何より、雪雉が気掛かりなのは鈴のこと。
事件で憔悴した鈴の母から門前払いされて、謝罪も受け入れてもらえなかった。
下手すると、もう二度と会えないのではとすら。
こうして無力感に打ちのめされている時、祖父から提案を受けた。
しばらく海外へ行くので、勉強の為に雪雉も来ないかと。
雪雉と鈴の故郷は明治時代に西洋文化で発展した土地だけに、外国とも緊密な関係を維持している。
本家の最上もそうして財閥を築いたので、分家である日下部もまた平成の今でも太い繋がりが続いていた。
会えないならばその時間を有効に使う考えもある。
いっそのこと誰も文句が言えないくらい立派になってから鈴を迎えに行ってはどうか、ということだ。
祖父に上手いこと乗せられた気もしたが、悩んだ末に雪雉はイエスの返事を出した。
いずれ日下部の当主となる長男という立場を考えれば行くのが早いか遅いかの違い。
何やかんや鈴とは手紙のやり取りだけは許されて、文通の仲に落ち着いた。
初恋とは幼い執着だと、雪雉だって知っている。
だからこそ広い世界を見れば消えてしまうものではないかとも思っていたのに。
アゲハ蝶、黒い仔猫、月に蜂蜜にレモン、彼女のイメージと重なるもの。
見つけるたびに心が震えて少女は浮かび上がる。
伝えたい言葉が山となって、綴る手紙は何枚でも何通でも足りやしない。
返事の手紙を受け取るたび心臓が破れそうな高揚。
これらは雪雉の為だけに捧げられた言葉、いっそ山羊になって食べてしまいたいとすら。
鈴の好きそうなもの、一緒に行きたい場所、食べたいもの。
話したくて、恋しさが募って、心に在り続ける。
一時帰国する際には雪雉の姉妹を交えてなら少しだけ会えた。
この二人も鈴と幼馴染かつ同じ女子校の先輩後輩なので、家族が参加できる学校行事は口実。
同じ菫色の制服なのに、彼女が身に纏っているとまるで春の野に咲く花のよう。
初めて逢った時から、蝶々は雪雉の胸に針を留めた。
漆黒の羽を広げてずっと美しいままで。
気付けば根元まで深々と刺されて抜けやしない。
それは鈴の知ったことでなく、雪雉本人の意思ですらどうにもできず息苦しさばかりが苛む。
艶々の長い黒髪に白く華奢な身体。
着飾っても慎ましやかで、不安げに揺れる大きな双眸は珍しい金色。
それでも雪雉の目を見て、透き通った声でゆっくりと喋る。
令嬢達は誰もが磨き上げた宝石、或いは温室で大事に育てられた花のようなもの。
「お前、ああいう子が好きか」と祖父に笑われながらも、美しいだけの少女なんて見慣れていた。
惹かれたのは容姿だけでない。
あまり自己主張しないが、言葉を交わしてみれば意外と大人びた考えをしていると気付く。
周りをよく見ている思慮深さ。
控えめな感情表現に、滅多に見せない笑みも静か。
あの頃の鈴はお堅いくらい真面目な雰囲気の大和撫子。
好きだから優しくしたい、守りたい。
雪雉が全ての憂いを晴らして、もっと笑っていてほしかった。
では、今はどうだ。
鈴の手紙が途切れたのは三年ほど前か。
遠方の名門校に合格したという便りを受けてから、あれが最後の一通。
新生活で忙しくしているものと思い、寂しさを抱えながら根気強く返事を待っていたのは間違いだった。
雪雉が長い海外生活を終えて帰国してみれば誰も高校卒業後の鈴を知らず、鴨志田家を訪ねると「家出して遊び回っている」と鈴の父は苦い顔。
納得できずに調べてみれば、あまりにも酷い事態。
鈴が夜の街でホストクラブ通いの借金が膨らみ、闇金融に身柄を売り払われて消息不明だなんて。
そんな訳があるか、馬鹿げている。
名門校へ入学する為に勉強漬けだったというのに。
更に調べを進めると、当のホストに貢いでいた女はどう見ても三十代だったという証言。
どうも真犯人は鴨志田の後妻が限りなく怪しかった。
家族間で勝手に名義を使って借金をすること自体は可能だ。
それなら被害者に支払い義務は無いが、鈴の場合はもう何年も前にあちらのものになっており厄介。
そんな状況で少女一人が外部へ助けを求めることはほぼ不可能だろう。
鴨志田家に問い詰めようとしたが、昔と違って雪雉は自分から一旦立ち止まってみた。
身の丈に合わない贅沢の代償は大きいもの。
闇金融を利用すれば個人情報の流出を始めとして「カモになる」と目を付けられてしまう。
現在は鴨志田家も細々としたものらしく、あまり幸福だとは思えない。
これまた報復するまでもないので、とりあえずは鈴の捜索を優先することにした。
相手が裏社会だけに調査は慎重に。
せめて生きていてほしいと祈りながら散々手を尽くして鈴を探し回り、ようやく辿り着いたのがホロルニスだった。




