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10:ミュージック・アワー

やろうと思えば雪雉(ゆきじ)は強引な行動も起こせるのだが、その前に相談してからでも遅くはない。

そもそも一人で抱えるには重い案件。

話を聞いた祖父からは「いきなり店を潰そうとかするなよ?」と忠告をされた上で、まず雪雉は(すず)に会うことを提案された。


歓楽街は大金が動く場所だけあり、地位がある者も多く関わっている。

長いこと店を構えている老舗なら尚更の話。

日下部(くさかべ)の人脈で顔の利く常連を捕まえて潜り込んだ。

いつか渡した指輪の約束通り迎えに行く為にも。


それに、一度でも良いので二人きりで夜を過ごしたかった。


兄のように振る舞って守ってきたつもりでも、恋心が生む感情は綺麗なものばかりでない。

こんな状況になって抱えていた劣情が理性を揺らした。

会えなかった分だけひたすら耐えていたのだ、押し込められなくなっても仕方あるまい。



鈴が歓楽街に居ると知った時は流石に雪雉も身構えたものの、そもそもSMとは何なのか。

そういう趣味は別の世界とばかり思っていたので浅い知識しかあらず。

あんな清楚で儚げな鈴とは結び付かなくて理解に苦しむ。


何にせよ変態行為や風俗とは明白。

他の男とどんないやらしいことをしてきたのかなんて知りたくないと、無意識で思考停止したままクラブへ乗り込んだ。



結論から言って、やつれて青い顔をしているのではなんて心配していたのは杞憂。


五年前にも背が伸び始めていたとは知っていたが、幼馴染の小さな少女は黒が似合う女になっていた。

綺麗な身体のラインを引き立てるボンテージに、細い脚をますます長く見せるヒール。

仄暗い色気を纏ってまるで悪魔のように美しい。

ローズの艶めく唇で「日下部様」と呼ばれた時、背筋が甘く痺れた。


軍帽を落とした時こそ真骨頂。

水のなめらかさで滑り落ちる長い黒髪と、はっきり見せたその顔。

化粧で彩られても確かに鈴だった。

こんな月も星も見えない場所で、大きな金色の双眸はきらきらと強く。



そうして網膜に焼き付いた一瞬の先、帽子で目隠しされて何も見えなくなった。

手首を縛られていて動けない暗闇。

急に不安や恐れで包まれ、自分を見失いそうになる。


「……さぁ、捕まえた」


華奢な腕を回して、鈴の声がしっかりと雪雉を掴んだ。


鈴が消息不明と聞いた時から、こちらの方がずっと迷子になってしまった気持ちだった。

世界はこんなにも広いのに好きになった女は一人しか居ない。

独りぼっちのような心細さを、焦がれていた体温と声が熱を灯す。


ああ、もう駄目だ。


立派になったつもりだったのに、感情が流出して止まらず子供のように泣いた。

この恋心は雪雉の世界の一部分でなく、全てだと思い知らされる。


「もうそんな名前の女は居ませんよ」


攫うつもりだったのに彼女は望んでくれない。

名前を呼ぶことすら許されずに、また居なくなった。








また夜が巡って、雪雉はここに戻って来てしまった。

日常から掛け離れて別世界じみたバーの空間。

他の客がお喋りする声を遠く聴きながら、ホロルニスのソファーでグラスに口付ける。


「来ても良い」という言葉だけに縋って情けなくも足を運び、これではまるで骨を投げられた犬。

"マリ様"こと鈴はクラブの方に出ていて、今は不在という。

露出の多い格好をしていてもバーは語り合いの場。

クラブでは他の男と一対一、何をしているのかと思うと臓物が灼けるように重苦しい。


金が要るのなら、いっそこの先ずっと雪雉だけが買うつもりだってあったのに。

しかし「そうやって勝手に決め付けるところが苦手だった」と鈴から突き付けられて、自覚の無かった罪に初めて気付いた。

こんなにも好きなのだから鈴が応えてくれる、なんて考えは押し付けに過ぎない。

小さな子供を叱るように柔らかで確かな拒絶。



「それで、恋する騎士さんはどうしたいのかしら?」


黙って聞いていた隣から、歌うように優美な女の声が返る。


これまた無自覚だった酔いから覚めて、雪雉はグラスから顔を上げた。

ピンクグレージュの長い髪に縁取られた上品な笑み。

語るつもりなど無かったのに、どうして(さくら)にこんなことを明かしてしまったのか。


「お隣失礼します」に頷いたのが間違い。

話上手の聞き上手、酒に自白剤でも盛られていたかのようにぽろりぽろりと本音が溢れてしまった。

ここは告解室でもあるまいし。

そうでなくとも桜に対しては警戒するべきだろう。

ホロルニスはヤクザと関わりのある店、姐さんが切り盛りしているなんてよくある話。

彼女もまた幹部と繋がっていたとしても不思議でないのだ。



「店の女王様だから独占はできなくても、特別になりたいなら奴隷になることよ」


失礼に当たっても席を立った方が身の為か。

そう思っている間に、桜から穏やかでない言葉。


「奴隷……ですか……」

「この業界はね、客から格上げして奴隷になるものなのよ」


何でもないことのように悪魔の囁きは唇から滑る。

「奴隷」という響きは大きく重く、例えるならば打たれた鐘か。

雪雉が目眩を覚えたのは酒の所為ばかりでも。

そもそも強い方なので、この程度で酔ったりなんて。



「だって、ねぇ……恥もプライドも捨てない、痛みも苦しみも負わない、それで女王様と向き合おうなんて虫が良いわ」


桜の含み笑いには微量の嘲り。

嗅ぎ取った瞬間、雪雉は胸を針で刺された錯覚。


フェティッシュバーであるホロルニスは初心者歓迎、言うなれば夜の入口。

ただし、どれだけ深みに立っているかは皆それぞれ違う。

冷やかし半分で立ち寄ってみた客も居れば、桜のように姿が見えない暗闇に沈んでいるキャストも。


雪雉が身を置いているのは夕暮れ。

明るい場所へ鈴を引っ張り上げて連れ去るつもりだったのに、手を払われて茫然自失。

少しだけ暗さに慣れてきた薄目の藪睨みのままでここに居る。

こんな月も星も見えない場所で、愛しい女に会いたいという心だけ持って。




「なぁ白雪さん、折角だし緊縛体験やってみねぇ?」


ふと、男の声に肩を叩かれて雪雉は訝しんだ。

誘い掛けてきたのは短いツーブロックに気怠げな雰囲気、ホロルニスの主でもある春告(はるつぐ)


雪雉からコンタクトを取った、ホロルニスの常連とやらが懇意にしていたのは初代の方。

二代目経営者となる春告のことはよく分からない。

ただ、彼が身に着けている指抜きの黒いロンググローブには少しばかり違和感。

本来なら日焼け防止やドレスアップで使う物ではなかろうか。

外では雪の降りそうな夜なので防寒と言われたらそれまででも、布の下に何があるのか怪しんでしまう。



それにしたって唐突な申し出。

当然のごとく断ろうとした雪雉に、春告は一歩距離を縮めた。


「……いやぁ、ちょっとお話しようかって言ってんだよ。日下部雪雉さん」


低音の耳打ちに由々しき響き。

名前とは正体や本質、悪魔に名前を知られるとはそれを通じて支配される危険を伴っているということ。


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