08:カナシミブルー
「ただいま帰りました」
日頃の鈴は系列他店も含めて女性キャスト達と一緒の寮住まい。
それぞれ個室を持てるが、風呂やトイレなどは共用で使うルームシェア状態。
明るいうちはほぼ眠っていたり寮に籠もって過ごしているので、雪雉も店でしか接触できなかった訳だ。
歓楽街という場所は事情のある者が多い。
同じような境遇の女同士で固まっていて気楽な生活なので、鴨志田家と比べたら天国にも思える。
こんなところでの孤立は危険、横繋がりは生き残る為の術。
むしろ居心地の良さが恐ろしい。
視点を変えれば、住処というプライベートまで管理されている環境でもあるとは忘れてないのだ。
「マリ様おっはー」
「どったの、シリアスな顔して」
「何かあったん?」
ここの住人達は夜行性なので、どの時間帯でも誰かしらリビングに居る。
店では化粧やドレス、ボンテージで武装した女達も今は部屋着。
テレビでは深夜番組を流したり、ゲームの対戦をしたり、何とも平和。
そして客商売だけに、察するという能力に長けている。
「ちょっと客にプロポーズされまして」
事も無げに言って皆と一緒にお行儀悪くカーペットへ座り込み、パンの袋を破った。
流行り物はコンビニで出回るようになるのも早い。
雪雉と別れた後、帰りに寄り道して買ってきたシナモンロールが鈴の夜食。
少し甘すぎるくらいが今の気分にはちょうど良かった。
「うわ、マジかー」
「あぁ……あるよねぇ……」
「何て言われたん?"マリ様、毎朝ボクをビンタで叩き起こして下さい"みたいな?」
雪雉には悪いが、もう笑い事とさせてもらおう。
それだけでこの話は終わりだ。
さながら雛から成鳥の変貌を遂げた鈴だが、ずっと変わらない点が一つだけ。
髪だけは重くても毛先を揃えるだけにして腰の辺りまでの長さを保っている。
というのもあれ以来、鋏を持った他人が背後に立つと恐ろしくて美容院もすっかり苦手になってしまった。
ばつん、と肉を切られた感覚が耳から離れず。
顔面の傷は最も目立ちやすい。
ここは特になるべく跡が残らないよう綺麗に縫う技術が必要とされ、今では鈴の右耳も綺麗なものである。
病院に運び込まれた時、付き添いの母の方が大きなショックを受けて泣いていた。
そうして怪我をしている鈴本人は却って冷静になって宥める側になってしまう、いつものこと。
確かに母からは愛されていた、大事にされていた。
しかし長年に渡る父からの冷遇で病んでいたことは否めず、どうも鈴に依存気味。
本来なら甘えたり弱音を吐ける筈の相手と、時折こうして精神面が逆転してしまうのだ。
母のことは好きで楽しい思い出も沢山あるものの、距離が近過ぎて重くなる面があるのは仕方なし。
ちなみに父は周りを騒がせたことに頭を下げ、家に帰ってからは心配もせず鈴を怒鳴りつけていた。
「お前がフラフラついて行ったばかりに」と軽率な行動として変換されていたのだから呆れてしまう。
複数人で囲まれて刃物を突き付けられたら、父だって手を挙げて無抵抗になるだろうに。
この時ばかりは日頃大人しい母も言い返していたが、口論の後に父は「お前なんか殴る価値もない」だとか言い捨てて外へ行ってしまった。
それは気高いヒーローが卑怯な悪人に報復しない時の決め台詞だろうに。
安っぽい映画でも観ている気分になっても鈴の痛みや血は本物なのだ、嫌でも現実に引き戻される。
「もしあなたが結婚するなら家を出ても良いのよ、離婚して母様も一緒について行くわ。死ぬまで父様と二人きりなんてとても無理」と項垂れていた母の暗い顔を思い出す。
度々こんなものを見せられる家なのだ、結婚願望なんて育つ訳が無いのに。
その母も鈴が高校生の頃に突然の事故で亡くなり、鴨志田の墓で眠っている。
どうせ父は内心喜んでいたろうけれど。
亡くなって早々にあの若い義母が家へ出入りするようになり、大して間を置かずの再婚。
ずっと以前から深い仲になっていたに違いない。
ああ、そうだった、雪雉と二人きりで会った五年前というのが母の葬式か。
昨日のプレイルームで思い出さないように封じていたことが今になって浮上してくる。
事件の際に母から「娘に近付かないでほしい」と言われていた手前、もう海外へ飛んでいた雪雉とは随分と久しぶりのことだった。
この時も一時帰国していただけで忙しい身。
また人目につくとトラブルの元なので、ひっそりと隙を見てまるで逢引。
「鈴、これを受け取ってほしい」
開かれたリングケースに、銀色の指輪。
流石に驚いて上手く言葉が出てこない鈴の前で膝をついて、雪雉は続けた。
「こんな付け込むみたいなタイミングでごめんな。オレもお前もまだ親に養われている子供だから、偉そうなことはあまり言えない……でもこれはオレが働いて買った指輪なんだ。二十歳になったら必ず迎えに行く、待っててくれ」
あの時も雪雉は真っ直ぐに鈴と向かい合っていた。
熱すら感じる視線で、こちらも目が離せなくなる。
学生の身分であれを買う為にどれだけ苦労したことだろうか。
一人で勝手に突っ走って、格好付けて無理もする。
雪雉のそういうところが苦手だった。
その結果、鈴の所為で何かに巻き込んでしまいそうで見ていると不安になるのだ。
いや、もうそれは起きているか。
鈴に会う為にと大金や手間を掛けさせてしまった上に、日下部の御曹司が歓楽街のSMクラブなんて。
雪雉が現れた時、嬉しかったかと訊かれたら返事は「いいえ」だ。
どうしてこんなところに居るの。
私は会いたくなかった、忘れてほしかった。
鈴に後悔があるとすれば、もっと早くはっきりと振ってあげるべきだったのだ。
そうすれば今頃、相応しい家柄のご令嬢と縁談が進んでいたろうに。
雪雉の時間を無駄にさせてしまったことが申し訳ない。
だったらどうして指輪を返さなかったのかといえば、迷っているうち義母に持ち出されて消えてしまった所為。
冷たい家で過ごしていた頃から父と義母に売り払われて辛い日々の間、雪雉のことを忘れていた訳でない。
「迎えに行く」と宣言した強い目だって。
それでも、決して期待してはいけないと思っていた。
五年も経っていてはもう昔の話。
ずっと初恋の泥濘みに足を取られている雪雉のことは可哀想だとすら思う。
そんな青年に縋って、人生ごと捧げて、彼の重荷になるなどできないのだ。
繰り返してきた「義理なんて無いのに」は単なる思考停止。
本当は鈴だって知っていた。
雪雉の想いも、こんなところまで追って来た理由も。
人魚とは、娼婦を意味する隠語や象徴として扱われていた歴史がある。
深海で生きる為に、今の鈴はボンテージという黒い鱗を纏ってしまった。
人魚姫と王子様は決して結ばれないのに。
育った家庭環境の与える影響とは大きいもの。
鈴には健全な家庭を築く男女のロールモデルも居なければ、甘えるということもよく分からず。
相手の望みを読み取ったりその通りに演技したりはできても、代わりに我儘は押し殺してきた。
だから「苦手」の下にある鈴の本心なんて、雪雉には明かせない。
鈴に必要なものは無償の信頼と真っ直ぐな愛だ。
実の親子ですら築けなかったもの。
受け止められるとしたら或いは、ペットならば。




