20:なかったコトにして
冗談めかしてならば何度も言われたことがある、先程だって。
後戯というのはやたら甘い気分になりがち。
女王様への陶酔が最高潮になっている時なので、酔っ払いの戯言として鈴は受け流してきた。
Mが恋愛感情として錯覚してしまうのも仕方ないことだと。
「何度かデートしたし、俺は脈あると思うけど」
「いえ、同伴ですよね」
同伴出勤はキャストが客と食事などを共にしてから店へ行くシステム。
この辺りは他のキャバクラなど飲み屋と同じ。
ただし別料金が掛かる上、女王様は身持ちが固くMとは一定の距離を保つべきもの。
これも仕事ではあれどホロルニスでは皆なかなか首を縦に振ってくれず、焦らすのも遊戯のうち。
そういう前提ではコウの言うことも一理あるかといえば、本当に単なる食事だけ。
ここはコウの兄貴分である春告が経営する店。
鈴も店の持ち物なので「下手なことはしてこないだろう」という読みの上での承諾だった。
そもそも異性同士の距離感とは微妙なバランスで成り立っているもの。
コウの場合は女を陥落させる手管に長けたホストだけに、女王様がそうなっては面子が立たない。
面子とはヤクザにとって金や命よりも大事とされるものだが、女王様にも同じく。
誇り高き鎧としてボンデージを身に纏わねば、安っぽい痴女に成り下がってしまう。
お嬢様育ちの鈴が男に免疫が無かったのも昔の話。
自分から大金を払ってまで痛みや羞恥の強い行為を強請っては、情けない姿を晒す男達を何人も相手してきたのだ。
その一人に口説かれたとしても簡単に舞い上がったりしない。
コウは鈴に向かって惜しげもなく好意を口にするが、ホストと知っていれば却って心に響かず。
それこそ吹けば飛ぶ軽さ。
「そうだけどさ、同伴でも良いからまたマリちゃんとご飯行きたいな」
ミニスカートの膝の上で寝返りを打つコウは寛ぐ犬の穏やかさで見上げてくる。
こういうところを見せられたら、男に甘えられたいタイプの女相手にはよく効くだろう。
恐らくホストクラブの客ならば喜んだ筈。
しかし鈴はといえば、コウが何でもなく口にした「また」に胸が鋭く痛んだ。
常連客とペットには明確な線引き、コウのことは飽くまでも前者。
それでも人の情とは簡単に切り捨てられるものではない。
時間や快楽を共にすることで心が触れ合ってしまうことはあり、信頼が重要なSMならば尚のこと。
「コウさん、まだ黙っておいてほしいんですけど……」
「なーに?」
今になってお姉様に言われたことを思い出す。
「開発するだけしておいて捨てるな」と。
だからこそ、筋を通す必要があるならば鈴からコウに明かさねばならないことが一つ。
「私、来年にはお店を辞めるつもりなんですよ」
隠し事は一息で吐き出される。
ああ、なんて苦くて堪らないことか。
Mが女王様に幻滅して離れて行ってしまうこともあるが、その逆も。
どれだけMが心酔していようと女王様から捨てられることも、店を辞めてしまうことも有り得るのだ。
「マジ、で……?え、あの、春の兄貴は知ってんの?」
「ええ、最初からそういう契約でしたから」
「こういうのって、何やかんや理由つけて辞めさせてくれないことよく聞くけど」
「ん、そこは師匠を信じるしかないですね……」
貯金分の目標金額や次の職場という問題はあるので、まだ先の話。
とはいえ契約満了までの借金は残すところ僅か。
皮肉なことに、こうしてコウがクラブで指名するほど時期は早まる。
少なくとも、もう来年の今頃にはマリという名の女王様はホロルニスに居ない。
このホロルニスは裏社会と繋がりがある店。
キャストとして勤めることと、客として知らずに入ることは全く違う。
ヤクザと縁を切りたければもう二度と来てはいけない、会ってはいけないのだ。
それはコウも解っていることだろう。
もともと店という鳥籠の中だけの逢瀬はいつ終わってしまっても何もおかしくないことも。
たっぷり十数える間に呆然と鈴を見上げて、泣きそうな目をして、片手で顔を覆った。
流石に涙は流れずとも、突然の悲しみは深く静かに。
「一時的に歓楽街で勤める人はさ、ここで仲良くなった人達のことも楽しかったことも全部若気の至りとか人生の汚点ってことになっちゃうんだよ……マリちゃんも、俺のことは忘れたいものの一つになると思う」
「そんなこと無い」と鈴は即座に返せなかった。
コウの言葉の重みを前にしたら、あまりにも軽すぎて。
どうすれば相手が喜ぶか、何を欲しているか。
それらを読むことを得意とする鈴はさり気ない嘘を吐いたり、小さく演技をする時もあった。
SMの実情はスレイブとマスター、SはMの奴隷。
暴いた欲望を叶える為に、自分を偽ることなんて珍しくなかったのに。
「思ったより落ち着いてますね、コウさん」
「そりゃ床に転がって泣いて駄々捏ねたって、マリちゃんずっと店に居てくれる訳じゃないでしょー。それとも見たい?本気でやろうか?」
ようやく少しだけコウが笑ってくれた。
日頃から明るい人が憔悴する様は見ている方が息苦しくなってしまうもので、鈴も密かに安堵する。
ここは深海、冷たく暗い世界の筈だったのに。
ボンデージの黒い鱗で適応するうち、鈴は居心地良さに気付いてしまった。
どんな環境でも行きて行こうとする図太さが仇となるとは。
望んで行き着いた場所ではない。
早く抜け出さなければと思うのに、過ごした全てが泡と消えることを惜しんでいるなんて今更。




