18:アンバランス(拘束、スパンキング)
「コウさん、お待たせしました」
複数の指名を貰ったからには一人の客がキャストを独占できる時間は限りがある。
どれだけ名残惜しくても鈴は蝶のように花から花へ。
雪雉の次、順番通りコウの席。
待ちくたびれているかと思えば、それまでヘルプで付いていた木葉とも楽しく飲んでいた模様。
意味深に笑んで、コウの片手はひらりと舞う。
「んー、やっぱ良いや……さっきクラブの方に予約入れといたから、マリちゃんとは後でゆーっくりね」
その後で鈴の肩に触れて、耳打ちの近さでコウは新たな約束を交わす。
至近距離、青々とした葉がしなやかに揺らぐグリーン系の香水が鼻先を掠めた。
会員制クラブはフェティッシュバーと明確に違う。
二人きりで内緒の悪いことをする密室。
「後で」の響きに鈴は溜息を吐く。
女王様の顔に淡い憂鬱を隠して、真夜中を待つ。
フェティッシュバーは語り合いの場、過度の露出や粘膜接触厳禁など徹底されたルールが多い。
緊縛などの体験は飽くまでもお試しで行われるもの。
一方、会員制SMクラブは風俗の分類。
キャストと相互理解ができた常連客のみに開かれる、秘密の扉だった。
磨りガラスの戸を一枚隔てて土砂降り。
ふと雨が上がって、続いて開いたガラスからシャボンの匂い立つ霧。
シャワーを浴びていた男の影は実体を伴って鈴の前に現れる。
女王様は顎を上げてはいけない。
悠々とベッドに脚を組んで、相手が跪くのをただ待つだけ。
備え付けのバスローブもあるというのに、毎回この男は下着すら履かずにシャワー室から出てくる。
ボンデージで武装した女王様の前に全裸で降伏するMというのも倒錯的で刺激に満ちたものか。
男が片膝をついた拍子、濡れて少し濃くなったシャンパンゴールドの長い髪から雫が落ちる。
そこで初めて鈴の視界に入った、コウの顔。
見上げてくるコウは、気を引きたいあまり悪戯してしまった後の男児と同じ表情をしていた。
これからお仕置きされることが怖くて、恥ずかしげで、その身を小さく見せる。
反面、構ってほしくて堪らないとその目が言っていた。
碌に拭かず濡れたままで晒された、筋肉質の細身。
その裸体は王子様と呼ぶにはあまりに淫靡。
プレイ前に必ずシャワーという決まりでもなく、わざわざ浴びるのは禊のつもりらしい。
女王様に触られる前に身を清める儀礼。
確かにコウが希望するプレイは服を脱ぐ必要ならあるとはいえ、実のところ一番見てほしいのは両腕の模様か。
中には居るのだ、刺青を入れたことで露出癖になる者が。
腕に施す和彫は「袖」と呼ばれておりコウの場合は五分袖、肩から胸、肘の上まで。
新緑の柳と、その枝に留まる鮮黄の高麗鶯という華やかな図柄。
この組み合わせは古典的な漢詩や水墨画などで春の情景として馴染み深い。
いかにも軽薄そうな若者の肌に、こうした伝統芸術が描かれているというのは艶やかなくらいの意外性。
春告を兄と呼んでいたのは、血縁でなくて弟分ということ。
コウもまた、鶯巣組がバックにつくホストクラブでシノギを得ているヤクザである。
まず、これこそがフェティッシュバーとSMクラブの差。
子供の頃ですら父と風呂に入ったことが無いのだ。
初めて肉眼で全裸の男を見てしまった時の鈴は衝撃を受けたが、人間は慣れる生き物でもある。
三年ともなればもはや心にさざ波一つ立たず。
もともと感情が顔に出にくい鈴のこと、退屈そうな目すらできた。
それに、日頃から悪魔のように美しく装った女達に囲まれている弊害だろうか。
虐めてほしくて自ら服を脱ぐ男というのは情けなさすらある。
容姿が売り物だけに鍛えているコウの身体は綺麗な方ではあれど、やはり今は随分と弱々しい。
ここで行われるのは中級者、上級者向けの遊戯。
踏み込んで汚い話をすれば強制排泄や、女が男の尻を開発することもある。
さて、それならコウの欲望とは。
「思い切り痛くしてあげますから、ベッドにおいで」
「あ……ッ、はいぃ……」
ヒールの爪先で持ち上げる、コウの顎。
鈴に向けられる目は既に溶けかけ。
命令を下され、四つん這いのままでこちらへ寄って来た。
ベッドの端にコウの上半身だけ載せた俯せ状態にさせ、鈴は彼の両腕を後ろ手に。
プレイルームのベッドは拘束具付き。
雄々しい和彫の腕をベルトと鎖で固めると、これだけで麗しき高麗鶯も形無し。
こうしてコウの方は両膝を床について裸の尻が無防備になる格好。
ミニスカートの膝を割って、鈴は男の腰へ後ろ向きに跨る。
淑女としては大胆な格好ではあるが、あちらからは何も見えず女一人分の重みしか感じまい。
どっしりとした丸い尻をしている男も珍しくなかったが、コウは全体的に小さく筋肉質で四角い。
加えて、骨格によるものらしく側面に窪みがある。
タンバリンの要領、軽く叩いてみれば張りのある音。
ただしこれは挨拶に過ぎない。
続いて振り被って空を切る鈴の細腕、尻に向けて平手打ち一つ。
「ひゃんッ、あぁ……ァ……っ!」
SMに於いて、スパンキングとは痛み以上に音が大事。
わざと派手に鳴らす手法というものはあった。
濡れた肌を叩けば更に音が響く。
合図をしてからの一撃目でも、やはり受けた方としては呆然としてしまいがち。
感知した痛みが疼き始める寸前、鈴は二撃目を打ち据えた。
そこから先は冷淡に連続していく破裂音。
勿論、人体の部位によっては大怪我に繋がるが、尻は皮膚が厚くて丈夫なので最も安全。
女王様のスパンキングを受けるMは打楽器になる。
最初、コウの悲鳴は嬌声とも呼べる甘さ。
少しずつ猫が叫ぶ声に似た鋭さに変わっていき、最後には獣じみて低く濁った本気。
無慈悲に叩かれる音、乱れていく自分の喘ぎ、時折冷たく鳴る腕の鎖。
痛みを伴いながら耳から犯されていく。
そうして聴覚で頭の中まで支配は及び、やがて恍惚となる。
幾つか種類が分かれるMの中で、コウは痛みを与えてほしいという客だった。
しかしただ叩いてほしいだけならまだしも鞭が嫌いなので非常に厄介。
女の手にフェチズムを感じ、平手打ちを好む。
女王様の方も手が痛くなり面倒なので、気まぐれに指名されては皆一様に内心苦笑いしていたらしい。
三年前から鈴の固定客になったことで落ち着いたが。
誰にも狩られぬ狼のような金色の双眸。
圧倒的強者の冷たい表情で、鈴はコウを見下ろしていた。
あちらは甘やかな美しい顔も涙と涎でぐちゃぐちゃに濡れ溶けた頃。
プレイルームのベッドは液体を弾く仕様のシートが敷かれており、自らの体液で溺れて窒息しそうになっている。
これはまるで舌を垂らした犬の呼吸、短く速く繰り返す。
湯上がりの肌も噴き出した汗で再び湿り気。
そんな無様な姿すら受け入れるのだ、女王様ならば。
「レッド?」
「やだ……ぁ……ッ、ブルーで……お願いします、マリ様ぁ……」
日頃軽い態度でも仕置き中だけは「マリ様」と呼ぶ。
それにしても時に女が見惚れるホスト、またある時は恐ろしいヤクザというコウですら、この有様か。
人とは何面も持っているものであり悪党も分かりやすく恐ろしい顔などしていない。
歓楽街が深海ならば、この男は王子様を装って水面に引きずり込んだ女を喰らって生きる魔物。
そういった外道のくせに罪悪感というものからは逃れられず、溜め込んではホロルニスへ来る。
餌である女達と同じ生き物の鈴から叩かれて啼いて、罰を受けて許しを求める為に。
そのアンバランスぶりが酷く不気味だった。




