16:あなたと握手(手ックス)
「……ん」
浅い器の形、上にした右の掌を鈴は翳してみた。
具体的な命令は無く挑戦的に。
眼前に差し出された雪雉はあからさまに戸惑った様子を見せる。
それでも考え込むのは三つ数えるうちだけ、おずおずと左でお手の姿勢を取った。
まるで服従を誓うように。
今日もネオン煌めく深海に潜って、鈴の忠犬はホロルニスの扉を開けた訳だ。
「今日は手だけで遊びましょうか」
一度互いに下げると鈴の手は器から形を変じる。
薬指中指親指を閉じ、人差し指と小指を立てて耳。
手遊びでお馴染みの狐だ。
雪肌の華奢な指に薔薇色を塗った爪で、鈴の狐は口紅を引いた艶やかな雰囲気。
躊躇いも無く白狐は雪雉の唇にキスした。
寒さで荒れているかと思えばリップクリームの質感。
綺麗な形をしている厚めの唇は、ぷっくりと柔らかく押し返す。
ボンデージの女王様が不似合いに子供じみた仕草。
雪雉が面食らうのも無理はなく、うまく反応できずにいた。
何か言おうとしても狐の唇に塞がれて碌に開けず。
「挨拶はこのくらいにして、テーブルに片手を置いて下さい……あぁ、手袋は外さないで、そのまま」
「えっ?」
隣り合って着席した二人掛けのソファー席。
まだコートしか脱いでおらず、雪雉の両手には曇り空に似たグレーの毛糸で編んだ手袋。
ウールで包まれた男の手は一回り大きく見える。
左隣に居る鈴の為にと、命令通りテーブルへ投げ出された雪雉の左手。
対する鈴は、まず右手で彼の手首を強めに握る。
もう逃げられないと静かな捕獲宣言。
それから引っくり返して雪雉の掌を上に、これはまるで無抵抗な仰向けの姿勢だ。
女が男を押し倒しているような倒錯感。
「お邪魔します」
薔薇色の爪が艶めく指先一本。
ウールに隠れて見えずとも雪雉の手首の真ん中に沿って、するりと潜り込む。
手には細かな神経が集まっていて感覚が鋭い。
胸や下腹部など直接的な部位ではないので意外かもしれないが、性感帯になり得る。
そこを踏まえると雪雉はどうやら素質があった。
腕が動かないよう緊縛した時、見えない背後から手を弄ってみたら確かに反応したことを鈴は覚えている。
「ん、やっぱりユキちゃん手が大きいですね」
「……ッあ……そう、か……」
もう既に返事の声を震わせる辺り、雪雉はスイッチが入ったらしい。
試しに手袋の中で重ね合わせて大きさ比べ。
ウール素材は多少伸びるので、女の手がすっぽりと侵入する余地もあった。
ただし思った通り二人分は酷く狭い。
互いの手は強い磁石に変わってしまって隙間無い密着。
少し動かすだけでもゆっくり這うしかできず。
ニットならいかにも暖かさそうなものでも、手袋の中で雪雉の指先は冷えていた。
厳しい外気からは守ってくれようと末端に血が通いにくいのは仕方なし。
この歓楽街は極寒の地、十一月の夜なんて呼吸すら凍りそうな暗闇である。
暖かい店内で強張りはゆっくり溶けてきてもまだ足りない。
ふとウクライナ民話の有名な絵本を思い出す。
目印の黄色い表紙、手袋から顔を出すウサギにネズミにカエル。
寒い雪の森で落とした手袋の中へ次々と動物達が入っていく物語だ。
そういえばあの中には狐も居たか。
もぞもぞと蠢く鈴の手はお洒落狐、我が物顔で住処を決める。
「ここで暮らすことにするわ」
「え……?」
鈴が口にしてみたのは絵本の台詞、果たして雪雉は気付いたかどうか。
あの絵本は日下部邸の本棚にもあった。
まだ小さかった鈴が遊びに行った時、雪雉の祖父が子供達を集めて読み聞かせをしてくれたこともある。
ビジネスの場では怜悧な切れ者、社交界では伊達男と知られた彼も孫の前では好々爺としての顔を見せていた。
こんな時に鈴の唇が小さく笑ったのは、まさか懐かしさからだなんて雪雉は思うまい。
少しだけ手袋から引き抜こうとしたら、嫌がるように指先を絡めてきた。
それなら雪雉を暖めてあげるのは鈴の役目だろう。
身を切る寒さで荒れ気味の指先、指の関節の裏や腹、掌に走る三本線。
優しく寄り沿って、撫で擦って愛しみ、丁寧なマッサージにも似た触れ方をしていく。
骨張った大きな男の手は硬くて丈夫。
それでもしなやかな女の手は溢れるばかりに慈しむ。
強弱つけて握るだけでも気持ち良い。
心音が速度を増して緊張していた雪雉も、やがて表情が解けてきた。
こんな狭い中で戯れ合っていれば手汗も滲む。
絡み合う両手は熱を持ち始めて、蒸れる感覚は発情の体液を錯覚させていやらしい。
そうして性感が高まってきた頃合いか。
今まで触れずにいた、敏感な指の間に爪を立てた。
「……うぁッ」
雪雉の肩が跳ねても、鈴は大仰だなんて思わなかった。
そこまで感じやすいのなら良いこと。
Mは少し情けないくらいがSにとって凄く可愛らしい。
「石鹸で泡立ててからやると、もっと気持ち良いですよ」
「……今度、それもやりたい」
鈴が秘密めいた耳打ちをしてみると、雪雉は恥ずかしげに頷いた。
日頃は生真面目だけにはしたないことは本人も感じつつ、昂ぶっている今は欲望に素直。
これは周りの目から衣服で隠れた秘め事。
脱ぎ捨てた裸の手で泡にまみれるのは、何故か酷く淫らに感じた。
ただ、そんな妄想は不意に途切れる。
「こんばんは、マリちゃん居る?」
後方から聞き慣れた声に名前を呼ばれて、鈴は一瞬喉が詰まってしまう。
覚悟はしていたつもりでも先日の心配は現実になってしまったか。
ああ今日も「Don't Enter」の立て札をしておくべきだった、つい忘れていた。
店内を見回して揺れる、シャンパンゴールドの髪。
そこには胸元の開いたスーツ姿の若い男が一人。
どう見てもホストではあるが、派手さを抑えて甘やかな顔立ちの美形でもある。
そして室内で一人だけ軍帽の頭というのは座っていても目に付きやすい。
鈴を見つけた瞬間、尻尾を振るように駆け寄って来る。
犬の性格というのも種類があるもの。
雪雉が知的な忠犬のボーダーコリーならば、この男は人好きで社交的なゴールデンレトリバー。
防御の為に鈴は空いた左手を突き出したのだが、構わずに男は真っ直ぐ飛んできた。
その手に顔を寄せて冷たい頬を無遠慮に擦り付ける。
暖を取るように、愛しい主人に甘えるように。
「マリちゃん、会いたかった」
「こんばんは、コウさん……お久しぶりですね」
まだ鈴の右手は雪雉と手袋の中、左手にはコウの頬。
これを両手に花だと呼ぶなら誰か代わってほしい。




