14:一雫(拘束、氷責め)
当然の話、性行為で「やめて」や「死ぬ」なんて言われたらすぐに中断しなくてはいけない。
自分がどんなに興奮していようと相手の心身に負担を掛けるのはルール違反。
それが一晩だけの遊びだとしても同じこと。
しかし一方で、SMではそれらを昂る為の言葉としてMが使う場合なんてのもある。
例えば緊縛での首吊りや落下など、SMは事故で死ぬこともある危険な遊戯。
相手の合図が分からないのはブレーキの無い車に乗るような自殺行為だろう。
殺してしまう可能性があるなんてSからしたら非常に恐ろしい。
そういう訳でセーフワードというものがあり、行為中に脈絡の無い言葉を使うのが一般的。
ちなみに有名どころでは猫型ロボットの名前だったりする。
こうして鈴がよく使うワードとして提案されたのは、信号機の色によるサイン。
「レッドは"終わり"、イエローは"優しくして"、ブルーは"もっと"です」
なるほど、分かりやすく覚えやすい。
拒絶だけでなく他の要求も一式揃えて親切なことで。
雪雉が頷いたところで薔薇の唇が綻んだ。
「では早速、遊んでみますか?」
仄暗い艶が絡んだ鈴の笑みに、雪雉はミントミルクよりも濃い酩酊感を覚えた。
アンバーアイとは実に不思議な色。
軍帽が落とす陰で冷たいグレー、或いは煙ったグリーンへ。
その移り変わる瞬間まで逃せず目が離せない。
SM方面は浅い知識しかない雪雉でも覚悟なら決まっている。
また縄で縛り上げられたって良い。
鞭でも蝋燭でも、これから何をされても構わないと。
それは結局のところ雪雉自身の望みかもしれないが。
鈴を追い掛けて飛び込んだ未知の世界。
この白い手を掴んで連れ戻すつもりだったのに、逆に捕まってしまった。
昔から焦がれていたアンバーアイに見つめられると魔法に掛けられた錯覚。
命令されている時は雪雉だけを映していて独占できるのだ。
可愛がられて、求められて、何でも受け入れてしまう。
「初心者相手にまだそんな激しいことはしませんよ。極論、特別な道具なんて無くてもSMはできますから」
否定する鈴の「まだ」という言葉に雪雉は心音が跳ねたが、微量の期待で甘い響き。
それなら、これから何をされるのか。
「野張さん、二杯目はお冷やで……氷もお願いします」
グラスのベビーブルーを飲み干したのが合図。
バーテンから氷水のガラスタンブラーを代わりに受け取ると、連れ立ってボックス席へ。
鈴の手がテーブルに「Don't Enter」の立て札を置く。
プレイ中なので邪魔するなという意味。
人目はあっても誰も入って来られず、この席だけ二人きりで切り取られた空間になる訳だ。
「水は置かないで下さい」
あちらとこちら、向かい合って席に着いて早々、鈴から妙な命令を下された。
雪雉の腰はソファーに落ち着けているが、持たされたままのタンブラーはテーブル上の数センチ中空。
時間停止の魔法でも掛けられたようで身動き取れず、少し間抜けな格好。
立ち上がった鈴はテーブル越しに身を乗り出す。
その手は蝶の羽搏きを思わせる自由気儘、雪雉の首に巻かれたネクタイへ触れてくる。
それだけは彼にも意図が読めて恥ずかしげに頷く。
許可を得た指先は器用にネクタイを解き、するりと抜き取っていく。
何の為かなんて分かっていた。
再会した日と同じように、両手首を拘束されるのだ。
ただしタンブラーを掲げた状態で固定され、あの時と違う。
持ち手が無い筒型の為、両手で支えられるというのは却ってありがたいか。
冷水を満たしたタンブラーはそれなりに重みがある。
滑らかなガラスの肌にじわりと細かな汗を掻き始め、これが片手ならやがて滑って落としてしまうところ。
何が始まるのかと大人しくしている雪雉の眼前、タンブラーの水面に薔薇色の爪が沈む。
花弁を水に浸したローズウォーターでも作るかのように優雅な様。
そうして指先で氷を一つ掴み取ってみせた。
ぽたりぽたり透明な雫を落とし、まるで皮を剥かれて蜜を溢れさせる果実。
「歯は立てないで、舐めるだけですよ」
見下ろしながら命令する鈴と、見上げながら口を開けさせられる雪雉。
濡れた細い指先と氷が唇に触れてくる。
そのまま少し強めに押し込まれて、口腔一杯に鋭い冷気が刺さってきた。
「……っン……は……ぁ……ッ」
雪雉の唇は氷で塞がれて、これでは何だか息苦しいキスにも似ている。
そんな錯覚で艶めいた吐息が落ちてしまった。
鈴の指ごと咥えさせられた氷は口腔の温度で溶け始めて唾液と一体、涎として顎を伝う。
口を開いたままなので何も隠せやしない。
苦しくなってきた雪雉が舌を動かすたびに空気と掻き混ぜられて、じゅるっと粘着く水音。
ただ氷を舐めているだけなのに、妙にいやらしく耳に届く。
冷えていく筈の行為で雪雉の深奥は熱を上げる。
「レッド?」
助け舟のつもりなのか、鈴が短く訊ねる。
しかしそんなものは不要。
喋れない雪雉は緩く首を振って返事した。
「イエロー?」
いいえ大丈夫、この程度。
「それならブルー?」
反応を一つずつ探っていた鈴が小さく笑う。
頷く代わりに雪雉は目を伏せた。
命令を言い訳にして、氷ごと指まで丹念に舐め続ける。
温めてあげたい奉仕の気持ちと、ベリーの香水の所為か酷く甘い気がして溶け合う欲望。
浅ましさを恥じながらも、この先に何があるのか教えてほしくて。
「じゃあ、舐めるのはおしまい」
急に引き抜かれた鈴の指先。
唇と繋がる儚い糸はすぐ消え去り、寂しさも束の間。
「……あッ」
その小さくなった氷の行先は雪雉の背中へ。
悲鳴を上げそうになって、傾いたタンブラーから少し水が零れた。
重い音でテーブルに無事着地したのは幸い。
雪雉の背中に入れられた氷が皮膚と布の間を滑り下り、やはり木から熟れ落ちる果実を思わせた。
シャツが濡れていく一筋の冷たい感覚は快と不快の境目。
分厚い冬服の狭いトンネルをゆっくり抜けた氷はソファーの上に転げて、静かに水へ還る。
「ん、ユキちゃん頑張りましたね……良い子」
テーブルに突っ伏した雪雉は腕が攣りそうだったことを思い出していた。
まだタンブラーを持ったままネクタイで縛られて、ずぶ濡れの両手。
氷一粒、たったこれだけで心を乱されてしまうなんて。
熱が巡るくらい恥ずかしいのにその金色の目に見られているなら悪くない気分。
上目遣いで顔を盗み見ながら、大人しく鈴に頭を撫でられていた。
雪雉がどれだけ本を読んでも知らないことを、この手は教えてくれる。
何をするのか予測不能、ひらりとふわりと舞い遊ぶ。
まるで薔薇色の水玉が散った白い蝶。




