13:海へと
短い秋が立ち去って冷たい灰色の冬に包まれる頃、雪雉は長年探していた想い人を見つけた。
それからというもの週末はいつも先約有り。
流石に住処や職場とは距離があるので、移動には少し時間が掛かる。
毎週金曜は目的地付近のホテルに泊まり、金曜土曜の二日連続で会いに行ってはまた帰る生活。
正直なところ週末に一人でゆっくり眠れるのは少しありがたくもある。
というのも、日曜の朝は「好きな子供番組があるから付き合え」と幼い妹が叩き起こしに来るのだ。
そう安心していたら、子供は繰り返し同じ物を楽しむ習性があるものでVHSで録画したものを見せられることになったが。
雪雉が祖父と共に海外に出ているうち生まれていた末っ子で日下部のお姫様。
可愛い盛りでもあり多少の我儘は聞いてあげたいところ、お陰で無駄に特撮や魔法少女に詳しくなってしまった。
それはそれとして、雪雉にとって世界で一番可愛い女は一人だけ。
彼女に会う為にと目指すは歓楽街。
暗闇に底無しの欲望がギラつく深海へと潜る。
「いらっしゃい、ユキちゃん」
薔薇の唇と澄んだ声。
子供の頃とは違う、これはペットとしての呼び名。
そうして雪雉に淡い笑みを見せたのは軍帽とボンデージの女王様。
今はフェティッシュバー&会員制SMクラブ、ホロルニスのマリ。
「ご指名宜しいですか、マリ様」
かつて儚げだった少女、鈴は堂々とした立ち姿で大人の女になっていた。
夜に呼べない名は口の中で転がすだけ。
口紅と同じ色のマニキュア、シルバーの指輪と手首を繋ぐハンドチェーンやバングルの手は冷たい印象。
少しでも温めてあげたくて、挨拶と忠誠のキスは手の甲に。
ここに来たのは傷付く為でも虐げられる為でもない。
ただ愛しい主人の場所へ向かってのこと。
初めて出逢った時から心など支配されていたのだ。
この身まで所有してくれるなら、幾らでも差し出しても良いとすら。
「何か飲みますか?」
「それなら、今日はカウンターで一緒にどうだろう」
女王様を装った鈴は香水も好むようになっていて、長い黒髪が揺れるたび雪雉は喉が鳴りそうになる。
ベリー系のようだが甘酸っぱい雰囲気だけでない。
小さくて愛らしい果実も煮詰めれば黒々と深い色に変わるもの。
そんなラズベリーやカシスのジャム瓶を開けた瞬間にも似ていて、どこか妖艶な香りが高揚させた。
正式にペットを任命された所為だろうか。
鼻まで忠犬になって、貪欲に主人を求めてしまう。
カウンター席に腰を落ち着けると普通のバーと変わらない。
SMを語らう他の客達に背を向けて、正面には若いバーテンと壁一面の棚にはコレクションのように並ぶ酒。
色も大きさも様々なガラス瓶の群れとはなかなか圧巻で、グラスに注がれる時をただ静かに待っている。
チョコレート色で統一されたレトロな空間、隣には愛しい女。
アルコールを口にする前から酔いそうな気分。
「ユキちゃんはまたブランデーですか?」
「それも飲めるけど、本当はオレ……甘いカクテルの方が好き……」
鈴に訊かれるまま雪雉は頷いても良かったのだが、口ごもりながら白状した。
鈴のアンバーアイを連想して好んで飲むこともあり、蜂蜜を溶かした温かいブランデーは寒い日に最適。
とはいえ正直ジャズバーの時は、告白前だからと大人ぶっての注文だった。
格好つけておいて、あの時は振られてしまったが。
「素直に言えたから、ユキちゃんの好きそうな物にしますね。野張さん、ミントミルク二つお願いします」
鈴の声にバーテンが一つ頷いて、背後の棚からリキュールの瓶を選び取る。
こういう時、普通なら注文は男の役目か。
主従関係を結んだ今となっては、意地や見栄なんてものは役立たず。
無理をするまではいかずとも「男だから」と自分に言い聞かせて選択してきたこと。
そうやって格好付けなくても鈴は受け入れてくれる。
加えて、昔から雪雉がミント系も好むことを覚えてくれていたらしい。
アイスクリームはチョコミントが定番だった。
今も煙草はメンソール、気分転換の為に持ち歩くガムやタブレットもミント系。
瓶の中で揺れる、透き通ったアクアマリンはミントリキュール。
ミルクの白が溶け合ってベビーブルーを注いだグラス二つが仲良く並ぶ。
小さく乾杯してから啜ると、一杯目ということもあり軽めの甘めな口当たり。
ミントというと夏向けと思われがちだが暖かい店内では優しい清涼感が効く。
「マリ様が好きな物を頼んで良かったんだが」
「それじゃ、二杯目はそうしましょうか」
先日の鈴はカシスコーラを飲んでいた。
普段なら雪雉は炭酸飲料をあまり口にしないが、彼女とならば共にしても構わなかった。
昔から好きな物なら知っていても、もっと知りたい。
フェティッシュバーは本性まで曝け出す語らいの場。
離れていた時間が長かったのだ、本当なら鈴と話したいことなんて山積み。
だというのに、いざとなったら妙な緊張。
手紙なら饒舌になれたのに、書くことと喋ることは違うものだと改めて思う。
「ユキちゃん、今日は大事な話をしますよ」
そんな時、柔らかにミントの香る一息を吐いて鈴が切り出した。
カクテルのグラスがカウンターに着地する。
「Mを飼うのは初めてなので私も不慣れな点もあると思うのですが、まずはセーフワードを決めましょう」
「セーフワード」とは聞き慣れない単語。
大事な話だなんて言うからには瞬間的にあれこれ予想してしまったが、どれも外れ。
分からない雪雉は子供のような素直さで首を傾げる。
成り行きもあってペットという立場を得た雪雉も、相変わらずSMについては無知に近い。
SMを描いた文学も沢山あるので、そのうち谷崎潤一郎でも読んでみようと思っているところ。
語源のマゾッホは自分の妻に他の男と関係を持つよう仕向けて被虐を味わったというが、雪雉にそういう趣味は無し。
鈴もまた、女王様という言葉から多くの者が想像するであろう冷酷だったり我儘な美女かといえば違う。
ちなみに若い頃に浮名を流していた祖父にうっかり零したら、官能小説じみた体験談を語り始めたので耳を塞いだ。
身内のそうした話はあまりにも生々しいので御免被る。
雪雉が幼い頃から一緒に海外へ出ていた頃まで意外と女の匂いなど一切させなかったものの。
まだまだ伊達男で通用するが、加齢もあってのことか。
ここホロルニスは初心者にも間口を広げているとはいえ、知らないことばかりの世界。
しかし知らないままではいけなかった。
今度こそ鈴と共にある為、この深海に身を置く為に。
「ん、セーフワードというのは……要するに、プレイを中断する合言葉ですね。M側にも一旦止めてほしいとか嫌な時もありますから」
「マリ様にならオレは何をされても良いし、何でもするよ……飼われる時、そう決めたんだ」
必要無いとばかりに盲目的な雪雉の返答。
対する鈴は喜ぶかといえば、少し困った色の溜息一つ。
「それでは駄目です」




