無駄VS了
無駄について、考える。いったいどこからが無駄で、どこからが無駄ではないのか。そんなことを延々と思考する。わからないまま、ずっと、考えているふりをする。もしくは、ふりではないかもしれないが。
無駄の対義語は、活用だと誰かが言った――それを聞いて、なるほど、と思った。つまり、活用さえできれば、この世界に、無駄なものはないのだ。よくよく考えると、これって凄いことではないだろうか。
無駄だ、と信じきっているものに対しても、活用法さえ導き出せば、無駄も、無駄ではなくなるのだ。ぼくは、なんだか愉快な気持ちになった。
0だからこそ、無限大の可能性があるのだと、そう言われているような気にさえなった。生きてさえいれば、あらゆるものに、可能性を与えることができるのだ。0から1になったかのように――虚構から現実に変化したかのように、驚愕するような、明瞭な変化が現れるのだ。
ぼくは、なんだか、楽しくなった。これまで、信じてきた、無駄ではないことが、全て無駄のように思えてきた。そして、いままで、無駄だったことが、全て、活用できるような気がしてきた。
表裏がひっくり返った。
無駄も――無駄じゃない。それは、確信を持って、ぼくのどこかに潜んでいるはずの信念に影響を与えた。無駄も無駄ではなく、無駄じゃないものも、もしかすると、無駄かもしれない。無駄の全てが無限大で、活用できるとわかりきっていることは、有限の可能性しかない。そして、じきに、無駄になる。
そうか――
「無駄も、無駄じゃないのか」
なんだか、わかった気になった。こうして、ぼくは、無駄を知った。戦略を練り、無駄と戦った。そして、無駄に勝った。こうして、大きな戦いは幕を閉じた。いつ開いたのかは不明だが、こうして、終わった。
終わったと思ったら、次が始まる。終わりがあるから、始まりがある。無駄があるから、無駄がない。そんな、巫山戯た言葉で、今日も遊ぶ。わかったようで、わからない。抽象的で、伝わらない。そんなことは、わかっていた。
もう、ぼくは眠くなってきた。爆睡したい気分だ。いますぐにでも、横になって眠ってしまいたい。この眠たい気持ちも、無駄だろうか。まさか、無駄なわけがないよな。でも、無駄かもしれないよな。
脳内が何度も何度も、同じ言葉を反芻する。無駄かもしれない、と、学習性無気力感を与えてくる。どうして、こんなにも眠いのか。そんなの、本能だからに決まっているだろう。はあ。もう、眠い。




