第9話 宿屋にて
取って返すようにして、私達は先ほどの宿へ戻った。
女主人は再び現れた私達を見ると、少し驚いた顔をしたが、今度は何も言わずに部屋を用意してくれた。
こうして無事、本日の宿を確保することが出来た。
案内された部屋へ入る。
「……ほう」
思わず小さく声が漏れる。
金貨一枚というだけあり、中々に立派な部屋だった。厚い絨毯。大きな寝台。窓際にはソファまで置かれている。
そして何より、人間用ではあるが専用の風呂と水洗式の便所まで備え付けられていた。
アウローラは目を輝かせている。
「御主人様、下のレストランでお食事が出るそうです」
「そうか」
荷物を置き、私達はそのまま階下へ向かった。
夕食時という事もあり、レストランはそこそこ賑わっていた。
肉の焼ける匂い。香草の香り。酒の匂い。
人間の食事というのは随分騒がしい。
席へ着くと、給仕が注文を取りに来た。
アウローラはメニューを真剣な顔で眺めた後、少し緊張した様子で口を開く。
「おすすめをお願いします」
なるほど。選び方が分からぬ時の定番だな。私は給仕へ視線を向ける。
「ワインを」
すると給仕が困った顔をした。
「申し訳ありません坊ちゃん、お酒はちょっと……」
「……」
断られた。どうやらこの外見では流石に無理らしい。
容姿が子供過ぎるというのは、こういう時に不便だ。
アウローラが気まずそうにこちらを見る。
「御主人様は普通のお食事は……」
「必要無いな」
実際、空腹は感じない。血を摂取している以上、人間の食事は嗜好品に近い。
「しかし、何も注文せずに座っているのも不自然か」
周囲から浮くのも面倒だ。私は適当にメニューへ目を落とした。
「ではステーキを」
「焼き加減はいかが致しますか?」
「限界まで生に近いものを」
しばらくして料理が運ばれてきた。
アウローラの前には香草を使った肉料理とスープ。
私の前には、表面だけを軽く炙った程度の、ほぼ生肉のようなステーキ。
ナイフを入れると、中から赤い肉汁が滲み出る。私は一切れ口へ運んだ。
「……悪くない」
やはり血の味が濃いものは食べやすい。
向かいでは、アウローラが空腹だったのか夢中で食事をしていた。
……この娘、意外とよく食べるな。
食事を終え、私達は部屋へ戻った。部屋へ入るなり、アウローラが小さく欠伸を漏らす。
人間は腹が満たされると眠くなる生き物らしい。
「アウローラ、先に風呂を使うといい」
「はい……」
返事をしながらも、既に少し眠そうだ。私はふと疑問を覚えた。
「……風呂は一人で入れるのか?」
アウローラがむっとした顔になる。
「入れます! そんなに子供じゃありません〜」
そう言い返してくる辺り、多少元気は戻ったらしい。
私は収納空間から彼女の荷物を取り出して渡した。
アウローラはそれを抱え込み、ぱたぱたと風呂場へ消えていく。
扉が閉まる音を聞きながら、私はソファへ腰を下ろした。
……しかし。
しばらくして、風呂場の扉が開いた。
湯気と共に現れたアウローラを見た瞬間、私は眉を顰めた。
「……そこに座れ」
「へ?」
ぽかんとした顔をしたまま、アウローラは言われるままソファへ腰掛ける。
確かに風呂には入れたらしい。
だが。
長い金髪からボタボタと水が滴っていた。床にまで雫が落ちている。
全く手間のかかる。本当に世話の焼ける娘だ。
私は備え付けのバスタオルを引き寄せ、その濡れた髪を乱暴にならない程度に拭いてやる。
アウローラは大人しくされるがままだ。
……人に髪を乾かして貰う事に抵抗はないのか。
箱入りというのはここまで世話を焼かれて育つものなのだろうか。ある程度水気を取ったところで、ふと思い出した。
「そういえば」
私は指先へ意識を集中する。脳裏に浮かぶのは、以前血から得た知識。
熱と風。水分を飛ばす魔術。
「【乾燥】」
小さく呟く。
すると次の瞬間、アウローラの濡れていた髪がふわりと揺れ、一瞬で綺麗に乾いた。
柔らかな金髪がさらりと肩へ流れる。
アウローラが目を丸くした。
「まあ……!」
「便利なものだな」
私は小さく頷く。
しょんぼりとソファへ座っているアウローラを見下ろし、次の言葉を告げた。
「アウローラ、血を寄越しなさい」
「はい!」
即答だった。しかも妙に嬉しそうである。
私は少し目を細めた。
「……怖くはないのか?」
普通の人間なら多少は怯えるものだろう。
吸血鬼に血を差し出すなど、本来恐怖以外の何物でもないはずだ。
だがアウローラは、不思議そうに首を傾げた。
「やっと御主人様のお役に立てますのに、何故そんな事をお聞きになるのですか?」
「……」
アウローラ。お前の精神構造の方が不思議だよ。
私は内心でそう呟きながら、小さく溜息を吐いた。
「……この先、お前が何が出来て何が出来ないのかを知る為だ」
私は淡々と説明する。
「まだまだ栄養の足りていないお前から【食事】をするつもりは無い」
すると。
何故かアウローラが露骨にしゅんとした。
……何故そんな残念そうなのだ。
本当に理解が追いつかない。私はそれ以上考えるのをやめ、彼女の細い指先を取った。
軽く爪を立てる。
白い肌に小さな傷が生まれ、赤い血が珠となって浮かび上がった。
私はその血を指先で掬い、静かに舌へ乗せる。
温かい。
そして――。
驚くほど澄んだ味だった。
これは難題だな。
アウローラの血から流れ込んできたものに、私は静かに目を細めた。
血は、その者の人生を語る。
記憶。感情。価値観。積み重ねられた日々。
それらが溶け合い、一滴の中へ凝縮されている。
そしてアウローラの血が伝えてきたのは――。
いかに、この娘が愛されて育ったかだった。父親。母親。使用人達。誰もが彼女を大切にしていた。
優しく。丁寧に。慈しむように。
怒られる記憶より、褒められた記憶の方が遥かに多い。
失敗しても責められず、出来た時には皆が笑ってくれる。
そんな温かな環境で、この娘は育ってきたのだろう。
だからこそ純粋で、優しい。他者へ善意を向ける事を疑わない。
……眩しい程にな。
私はソファに座るアウローラを見下ろした。
先程血を舐められたばかりだというのに、妙に満足げな顔をしている。
意味が分からない。だが、この曇りの無さは、確かに美しい。
「……」
これを今後、曇らせる事なく育てていくとなると、少々骨が折れそうだ。
人間社会は醜い。
欲。嫉妬。打算。悪意。そんなものが渦巻いている。
放り込めば、この娘は簡単に傷付くだろう。
だが同時に思う。ここへ更に。凛とした強さ。理性。聡明さ。
それらが加われば――。
極上だ。血としても。精神としても。恐らく、とても美しく成熟する。
私は無意識に小さく口角を上げた。
それと。
意外だった事がある。領地法。税。収穫管理。奥向きの采配。使用人の管理。貴族同士の礼節。
アウローラは、領地運営に関する知識をかなりしっかり身につけていた。
断片的に流れ込む記憶の中には、母親から厳しく教え込まれている光景も多い。
書類の読み方。帳簿の付け方。社交。婚姻。領主夫人として必要な教養。
恐らくあの母親は、この娘を“領地持ちに嫁げる女”として育てていたのだろう。中々見事な教育だった。
だからこそ、失われたのが惜しい。あの母親は有能だった。
死なせたのは損失だ。
……まあ。
出来るならば。身の回りの事も、もう少し教えておいて欲しかったが。
宿代という概念さえ知らぬ令嬢は、流石に生存能力へ不安を覚える。
私は小さく溜息を吐いた。
するとアウローラが不安そうにこちらを見上げてくる。
「……わ、わたくしの血は、お口に合いませんでしたか?」
「いや」
私は即答した。
「かなり上質だ」
「……っ!」
何故か、アウローラの顔がぱあっと明るくなった。
本当に。意味が分からない娘である。
翌朝。私達は宿を出発した。
朝の街は既に活気づいており、露店の準備をする者や、荷車を引く商人達が行き交っている。
そんな中、隣を歩くアウローラの動きは、どこかおかしかった。
ぎこちない。一歩踏み出す度に微妙に身体が震え、まるで錆びたからくり人形のような歩き方になっている。
「……」
私は無言で横目に見る。
アウローラも気付かれていると理解しているのだろう。必死に平然を装っていた。
だが無理がある。
階段を下りるだけで「うっ……」と小さく呻いている時点で隠し切れていない。
無理もない。
昨日は一日中、私に抱えられた状態で高速飛行していたのだ。人間の身体であれをやれば、当然筋肉痛にもなる。
恐らく身体のあちこちが悲鳴を上げているのだろう。
私は小さく溜息を吐いた。
せめて乗馬経験でもあれば、多少はマシだったかもしれない。
だが、アウローラにはその経験すら無かった。流石は箱入り娘である。
私は収納空間から地図を取り出して確認した。現在地から見れば、王都まではあと半分ほど。飛ばせば今夜中には到着出来る距離だ。
だが、ちらりと隣を見る。
アウローラは既に歩くだけで精一杯らしい。
「……今日は王都手前で宿を取るか」
「はい……」
返事にも覇気がない。本当に脆い生き物だ。
それでも弱音を吐かず付いて来ている辺り、根性だけはあるらしい。
私はそんな事を考えながら、昨日アウローラの荷物を整理したのを思い出した。
フェデーレから渡されていた鞄がアウローラの荷物の中に入っていた。
領主交代の申請書類。後見人申請の書類。
そして――。領主家族の死亡届。
紙切れ一枚で、人の死を処理する。人間社会とは中々乾いている。
……まあ合理的ではあるが。
ついでに、その鞄の中には旅費もしっかり入っていた。
金貨。銀貨。必要十分な額。フェデーレはきちんと準備していたのだ。
つまり昨日の宿騒動は、完全にアウローラが存在を忘れていただけである。
本当に、全くこの娘は。




