4 湖の聖女
宿へと戻る途中、ふと人の気配が切れた。すぐそばには塔がある。フィーリアは夕闇に紛れて塔の一つに潜り込んだ。
数えるほどしかいない番人を、風に眠り薬を混ぜて寝かしつけ、塔の内壁沿いに何重にも周回する長い階段を上った。
最上階に近い部屋は鉄格子で閉ざされてはいたが、その中は分厚い絨毯と獣の皮が床に敷かれ、いかにも手の込んだ作りの家具類が配置されていた。石造りでありながら快適な暖かさが保たれ、軟禁状態であっても暮らし向きには不自由はなさそうだ。
ゆったりとした一人がけのソファには女性が座っていて、本を手にしたまま窓の外を見つめていた。
フィーリアの気配を感じたのか、本をそばに置くと、
「どなたですか?」
と、落ち着いた声で尋ねてきた。
「わたしは、ビリディスの者です。帝都に召喚された姉を探しに来ました。あなたも帝都に召喚された魔法使いですか?」
女性はソファから立ち上がると、ゆっくりとフィーリアのいる鉄格子の近くに歩み寄った。
「はい。私はデセルタムの魔法使いです」
美しい銀の髪、水色の瞳をしたその人の服装は、シンプルな生成り地に襟元や裾を蔦のような文様で刺繍がされており、緩やかでウエストにくびれのないラインは、旅の途中で寄った砂丘の街で見かけたものだった。
湖の街で聞いた聖女、この人がそうに違いない。
「ここに来る途中、デセルタムの湖畔の街に立ち寄りました」
「みな、元気にしていましたか? …水は…」
そう問いかける聖女の目は不安に満ちていた。
「元気にされていましたが…、水は街から離れたところに、少し残っているだけです。街を出る人も増えていると聞きました」
「そう、ですか…」
目を伏せた聖女は、ゆっくりと悟られぬように気遣いながら溜め息を吐き出した。
「ここにいるのもあと四ヶ月程度、と聞いてはいますが、聞くところによると、二年を過ぎても帰してもらえない方がいるそうです。私一人の力で湖を満たしているわけではありませんが、ここにいても湖の主の力が消えていくのを感じて、何だか不安で…」
遠く離れた帝都にいても、湖とつながる聖女。しかし、力を及ぼすことはできないらしい。
それもそのはずだ。聖女の力はこの部屋に仕組まれた魔法陣と魔法回路を通じて、この塔の先端に吸い取られているのだ。
「力を…奪われていらっしゃいますね。体にご負担はありませんか?」
「ええ、私は。ですが、私の力と共に、湖の主の力までもが吸い取られているような気がします。私は、できるだけ早くここを離れなければいけない。ですが…」
フィーリアは少し考えた。何とかしたいが、こみ上げる思いのまま、今、脱出を試みても、姉の元へ行けなくなる。
塔にいる全ての魔法使いの意思を聞き、望む者全てを同時に解放すべきだ。そうしなければ、ここから出られなくなる者が出てくる。残った者の負担は大きくなるだろう。
しかし、自分には5つの塔に同時に進入し、助け出すだけの力はない。
「今しばらく、お時間をいただけますか。姉だけでなく、あなたも助けたい」
聖女は、フィーリアの姉もまた自分と同じくこの帝都に連れて来られ、恐らく5つの塔のどこかにいるだろうと察した。
「ビリディスの魔法使いは、どのような魔法を使われますか?」
「癒しの魔法です」
「…それであれば、恐らく、今、明かりが落ちているあの塔にいらっしゃいます。治癒魔法の気配を感じていましたが、先週から魔法の気配が小さくなりました。秘めているならいいのですが、あるいは消耗されたのかも知れません」
フィーリアの旅は決して速くはなく、アーリアが連れ去られてから五ヶ月ほど経っていた。アーリアの力はさほど濃くはない。国では、過度な消耗から力を落とさないよう、祈りと治癒以外で魔法を使うことのないように常に周りから労られていた。一日中魔力を吸い取られているのだとしたら、消耗している可能性も高い。
「ここでの暮らしは、ずっと塔の中ですか?」
「ええ、ここから出ることは許されていません。供に連れてきた侍女の他、誰とも会うことはできません。ですが、ふらりとやってくる人はいるのですよ、あなたのようにね」
聖女はクスッと笑みを浮かべた。どうやら、フィーリアが初めての来客ではないらしい。
「塔は古く、魔力を吸われてはいますが、それ以外、魔法への干渉はありません。魔法を使えないわけではないのです。捕らわれてるというのに…。おかしいでしょう?」
聖女が左の人差し指を立てると、小さな水玉が生まれた。その水玉をフィーリアに向かって飛ばし、それが耳元ではじけた途端、頭の中に声がした。
- このように、魔法を使って語っても、察することができる者はいないのです
魔力による通信が妨げられていない。
- ですから、隣の塔くらいまでの距離であれば、このように話もでき、
- 侍女が面白い話をいろいろと聞いてきてくれるのです
- あなたとも、つながっていいかしら?
フィーリアは答えを頷きで示した。
「申し遅れましたが、私はビリディスの聖女の番人、フィーリアと申します。…失礼ですが、名をお伺いしても」
「デセルタムの湖の守人、アクエリアです」
フィーリアは、鉄格子の中に恐る恐る手を差し出したが、アクエリアの水滴が通ったように、フィーリアの手もまた、何の干渉もなく、鉄格子を通ることができた。
鉄格子には、何の魔法もかかってはいなかった。ただ、物理的な鍵だけが施されている。
それは、皇帝に呼ばれた魔法使い達が、国を人質に取られ、限られた年期で戻されたために、従順であったからかも知れない。
それにしても、この警備の手ぬるさは、油断の仕方は何だろう。
帝国を恐れていると信じ、逃げることなど想定していないのだろうか。
本来であれば、その手の甲に誓いの口づけを落とすところであるが、湖の聖女に何かがあってはいけない。軽く手を取り、聖女の手は鉄格子を通さないよう気をつけ、会釈だけして挨拶を終えた。




