夏の溝 (2)
朝早くから大声で鳴く蝉は、僕が布団の上でうとうとするのを邪魔してくれた。
枕元に置いた時計は普段起きる時間より、ほんの数分後を指していた。下の階から、ニュースの音に混じって、包丁とまな板がリズムよくぶつかる音がする。いつもより重たい瞼をこすりながら、そろそろと階段を降りると、いつも通りの顔をした母親が、いつも通り決まった内容のお弁当を作っていた。
「おはよう。どうしたの?いつもより眠たそうだけど。具合でも悪い?」
「別に。普通だよ」
椅子を引き、目玉焼きとトーストが用意されたテーブルにつく。目の前にある大きめのテレビでは、普段通りニュースが流れていて、良いニュースの時は笑顔で、悪いニュースの時には神妙な顔をする、といった具合にアナウンサーが表情を変えながら、しかし淡々とニュースを読み上げている。
もしかすると愛奈の事故もニュースなっているかもしれない、と思って普段より注意してみたが、ついにそのニュースが流れる事はなかった。
「ねぇ、愛奈…じゃなくて、交通事故のニュースってやってた?」
「交通事故?特にないけど、どうして?」
「ううん、やっぱいい。なんでもない」
母親は僕を気遣って知らないふりをしてくれているのだろうか。
年間、交通事故でなくなる人はおよそ4000人ほどだと何かで読んだことがある。愛奈の事故もその4000件のうちの1件に過ぎない。どれだけ多くの人が悲しんでいようと、あくまで4000分の1で、その事が世間の関心を占める大きさは変わらない。
いつもより通りの悪い喉に、トーストと目玉焼きを無理やり流し込んで席を立った。先日の葬式のせいで、少し線香くさくなった制服に袖を通す。テスト期間のために大した荷物も入っていない軽いリュックは、重い身体の僕にちょうどよかった。
僕の学校は、家から徒歩で15分、坂の上にあった。
両側に等間隔で気が植えられた校門までの並木道は、四季の移ろいを感じられるとかで老人の散歩コースにもなっていて、朝早くから人通りがある。
愛奈と鉢合わせるのは、この並木道の直前。古びたカーブミラーのある十字路だった。僕が愛奈を避けてきたから、長らく一緒に坂を登ることはなかったけれど。
同じ高校の生徒の流れの中、立ち止まってカーブミラーをぼんやりと眺めた。
見慣れた制服。白いカッターに市内では比較的短い紺色のスカート。校則で定められた黒い髪に控えめな髪留め。
そのなかに1人、スラリとのびた白い足とぱっちりとした目を持った小さな顔が見えた。
カーブミラーには愛奈が写っていた。人混みに混ざってこちらへ歩いてくる。
ミラーから目を離すことができなかった。昨日、棺桶ですらみれなかった愛奈が、すぐそこにいる。
固まって動けずにいると、ミラーのなかの愛奈と目があった。手を挙げて挨拶をしてくる。
ミラーの写していた角から愛奈が手を振りながら近付いてきた。
「おはよーおはよー。どしたの?待っててくれたの?珍しいじゃん」
「い、いや、そんなんじゃ…。」
「えー?つれないなー。そういう時は嘘でも、待ってたよ、とか言うもんだよ」
「お前も俺のこと待ってたことないだろ」
「えー?そーかなー?てか、女の子に待たせちゃだめでしょ」
人差し指を立てて注意するいつもの仕草をみせた。
「さ、いこ。まーたガッツに怒られるよ。あいつほんとうるさいんだから」
ガッツというのは、僕の学校の生徒指導担当だった。本名は岸本元気。あだ名の理由は単純明快で、口癖が「ガッツ」だからだった。
「お、おう。」
愛奈は自然に僕の手を引いた。
僕は愛奈に触れている。事故にあって死んだはずの愛奈の腕が、僕をつかんでいる。
「お、おまえ、怪我とか大丈夫なのか…?その、事故…とか…」
伏し目で遠慮気味に質問した。わけのわからない質問なのは自覚しているが、聞かずにはいられなかった。
「怪我?事故?なにそれ?」
あの日と同じキョトンとした顔をする愛奈がいた。
「だ、だっておまえ、事故で…!」
ここまで言って言葉に詰まった。あれは全て夢だったのかもしれない。
僕の感じる、愛奈との溝がみせた幻覚だったのかもしれない。いっそ、そういうことにしてもいいかもしれない。僕の言葉の続きをまつ愛奈は不思議そうな、でも少し寂しそうな顔をしていた。
「いや、なんでもないや。ほら、いこう」
数年ぶりに2人で校門をくぐった。ガッツはいつも通り怖い顔をして立っていた。
奇妙な一日の放課後は図書室で過ごした。
毎週月曜日と水曜日と木曜日は僕がカウンター担当で、下校のチャイムが鳴り始めるまで少し上等な椅子に座っている。大した蔵書もない図書館は、当然大した人気もなく、高校生に魅力のある本も置いていなかった。放課後の来館者はせいぜい両手で足りるほどで、いっそカウンター当番なんてものは廃止して、すべてセルフサービスで貸出をすればいいと思うのだが、この提案は一向に通る気配を見せなかった。
「お願いします」
椅子に深く腰掛け黙って小説を読んでいたら、目の前の机に本が置かれた。最近話題のライトノベル数冊。
「お名前とクラス番号お願いします」
読みかけの小説をバーコードリーダーに持ち替えながら、機械的に対応する。
「2組12番杉下です」
「え?」
「なに?私が本借りたら変?」
カウンターの向こうに愛奈が立っていた。
「いや、珍しいなと思って。どうしたの?」
2組の名簿をめくって杉下の名前を探しながら返事をした。
「この前、君が公園で読んでた本これでしょ?あらすじ読んだらおもしろそうだったから、私も読んでみようかと思って」
わざとゆっくり名簿と本のバーコードを読み取る。愛奈が興味深そうに僕の手元を覗き込んだ
「ねえ、そのバーコード読み取ったら何の情報がでてくるの?」
「名前から始まって、借りた本の履歴とか今まで借りた総冊数とか最終利用日とか。…あと、返却期限を大幅に過ぎた本とか。」
借りた本の最終履歴1年前、総冊数2冊の下、赤い警告文が出ている杉下愛奈のページを指でさした。
「あちゃー、ばれたか」
「ばれたか、じゃないよ。ちゃんと返却してください。まさか、なくしたりしてないよな?なくしてたら弁償なんだけど。ついでにいうと、延滞している人には新しい本の貸し出しが禁止されてるんだよね」
「返す返す!借りてた本は絶対返すから、お願いしますっ」
少し頭を下げながら、愛奈が両手を合わせた。
「…そんな読みたいなら僕の本貸そうか?この本もってるし、この巻は読み終わってるから貸せるけど」
「いや、私はここで借りた本が読みたいの!」
妙に食い下がる愛奈に負けて、ついバーコードを通してしまった。ありがとう助かったよー、といいながら機嫌よく図書館を出ていく愛奈を見送った。
学校内でも一、二を争う総冊数の少なさを誇る、杉下愛奈のページは更新された。最終更新日は今日。実に一年ぶりの更新だった。
図書館事務員の山中さんはバーコードを読み取る貸出機を見て、便利になったもんだと感心していた。僕が学生の時には…という決まり文句から始まって、時代についていけないというこれまた決まり文句で締める。
古くからある本の背表紙には決まって黄色く変色した紙の貸出票が挟まっていた。昭和、を示すSから始まる貸出日が残っているものさえある。十年以上前に借りた人の跡が残っているのはロマンがあって好きだが、カウンター当番をするにあたっては機械的になっていて助かったと心から思う。
夕方の陽がさしてオレンジ色に浮かぶ図書室に下校のチャイムが鳴り響いた。
今まで死んでいたかのように動かず本を読んでいた生徒たちは続々と席を立ち、足早に図書館を出ていく。そのたび廊下から流れ込む、湿っぽい風を吸い込みながら名簿の整理をして、カウンターを締めた。
死んだはずの愛奈がいる1日はなんてことなく過ぎた。
クラスも先生も友達も、愛奈が生きていることに何の疑問も持っていない。
2日後、愛奈はまた死んだ。今度は、帰り道の途中、階段を踏み外したことが原因らしかった。何故か制服のポケットにピンクのハンカチが入っていた。
もう前のような、胸に詰まる想いはなく、ああ、またハンカチを返しにいかないと。ああ、また制服に線香の匂いがついてしまう。大声で泣く同級生をみてよくそんなに涙がでるものだな。とか、そんなことを考えながら、機械的に悲しんだ。
愛奈の母親からは、あの日彼女が借りたライトノベルが僕に手渡された。そのまま学校へ行ってバーコードを通した。画面に表示された赤い文字は一層濃く見え、この文字はこのページから二度と消えないと思うと、大変煩わしいものに見えた。
僕はまた家のベッドで強く強く目をつむった。これがまた夢であることを願って、また十字路で愛奈と鉢合わせることを祈って、涙が目から流れる隙間もつくらないほどに。
また愛奈は学校に来た。何にもなかったかのような顔をして、授業を受け、昼休みには弁当を食べ、笑っていた。
放課後も変わり映えのない図書室の椅子で過ごした。
黙って小説を読んでいると、カウンターに本が置かれた。あの日と同じシリーズのライトノベル。もう陽は傾いて、図書室は赤く染まっていた。
「おねがいします」
声の主もあの日と同じ。
「名前とクラス番号お願いします」
小説を片手に持ってバーコードリーダーに手を伸ばす。
「2組12番杉下です」
手際よく名簿から名前を探し、バーコードを読み取る。
最終利用日は、彼女の死ぬ夢をみた、あの日。変わらず、返却期限の過ぎた本の題名が赤い文字で示されている。手元を覗き込む愛奈が気付くように、画面の赤い文字を指さした。
「言ってた本、持ってきた?この前はおまけしたけど、今日はおまけできないよ」
「言ってた本?おまけ?なんのこと?」
「はあ…忘れたんなら忘れてたって言えばいいのに」
「ちょっと、私、君にため息つかれるようなことした覚えないんだけど」
「よく言うよ、ほらこの1年前の貸出履歴の…」
マウスを動かす手が止まった。というより、動かせなかった。
総貸出冊数は3冊。最後に借りた本は、今愛奈がカウンターに置いたライトノベル。最終利用日は三日後。僕が一人で返却作業をした、あの日の夕方あの時間だった。
画面と愛奈の間で視線が揺れた。愛奈が複雑な顔をして立っていた。
それ以上は何も言わずに黙ってバーコードを通した。
彼女が小さな、消えるほどの声で「ごめん」と呟いたから。
――――帰り道、何気なくポケットに手を入れると見覚えのあるピンクのハンカチが出てきた。
嫌な予感がした。
きっとまた、繰り返すのだろうと僕は思った。




