夏の溝 (1)
公園全体に蝉の声が鳴り響いている。
すぐ近くにあるコンビニでアイスを買って、木陰のベンチに腰を下ろした。何をするわけでもない。冷たいアイスを頬張りながら、大人の都合で殺風景になった公園をぼんやりと見つめる。この暑さのせいか、それとも時代のせいか、公園には小さな子供の姿が全くない。
申し訳程度に残された遊具は塗装が剥げ、砂場は暑さで水分を奪われ固くなっていた。
7月に入って高校全体が浮足立っていた。梅雨も佳境に入り、晴れ間が見えることも増えた。それに合わせて体育会系の部活も一層盛り上がりを見せる。グランドからは野球部の怒声交じりの掛け声が聞こえ、体育館からはなにかボールの弾む音が延々と響く。そんな喧騒に追われるように僕は自転車で校門をくぐる。
あいにく僕は部活動に所属しているわけではないし、いつでも気軽に誘える友達もいない。もちろん彼女だっていない。かといって、いじめられたり仲間外れにされたりされることもない。休み時間がくれば教室の隅で一人本を読んでいる、クラスに一人はいるやつ。それが僕だった。青春と遠く離れた場所で、青春から目をそらして高校生活を送っている。ひっそりといつもの通学路で家と学校を振り子するだけだ。
「あ」
蝉の声にかき消される程度の小さな声を発した。
べとつく平たい木の棒には「あたり」の3文字が印字されている。これは何かツいているかもしれない。一人でほくそ笑んで、土がつかないように、ベンチの上にそれをそっと置いた。締まらない顔のまま、ぐぐっと一度伸びをして鞄から読みかけだった小説を取り出した。
「なに一人で笑ってんのよ気持ち悪い」
蝉に混ざって聞きなれた明るい調子の声が聞こえた。蝉より夏らしい声をわざと無視して小説を広げると、背後から伸びた手にそれを阻止された。
「なにすんだよ」
わざと大げさに悪態をつきながら振り向くと、予想通りの声の主、杉下愛奈が奪った小説を持ちながらにやにやして立っていた。部活終わりなのか制汗剤のいい匂いが漂っている。汗でばさつく長い髪の毛をゴムでまとめ、額にかく汗とは対照的に、涼しげな表情をしていた。愛奈は俗にいう幼馴染で、幼稚園の頃から知り合っている仲だ。
「聞こえてるくせに、無視する君が悪い」
「お前、部活は?」
奪った小説のカバーを外して題名を見ている愛奈に質問をぶつけると、小説から目線をこちらに向けずに、今日はオフなの、と答えた。
「…これなに?有名な本?」
「お前に関係ないだろ。ちょっとは本よめよ」
はいはい、と肩をすくめてから本のカバーを付け直す愛奈の手から小説を奪い返す。
「もー、乱暴だなぁ。昔は、愛ちゃん愛ちゃんって後ろからついてくる可愛いやつだったのに…」
「うるさい。いつの話してんだよ。僕ももう子供じゃないんだよ」
ちょっと語気を強めて反抗すると、愛奈はクスクスと笑った。
「僕、僕、って本当に昔から変わんないねぇ。ま、私は君のそういうところ嫌いじゃないけど」
ドキッとしたのを悟られないように、うるさいなぁ、とまた反抗しようと後ろを振り向くと、いつの間にかベンチにもたれかかっていた愛奈の顔がすぐそこにあった。
「君さぁ、なんか部活動とか始めないの?高校生活の貴重な夏だよ?なんならうちのバレー部とかどう?マネージャーとしてなら入れてあげてもいいよ?ん?」
大きくて黒目のぱっちりとした目をニヤニヤと細めながら、むかつく顔をこちらに近づけてくる。
「部活は始めないし、バレー部のマネージャーなんて死んでもしないよ。第一、バレー部なんかのマネージャーしたらどれだけの男子から恨まれるか」
小説を鞄の中にしまって、近づいた愛奈の顔をできるだけ見ないようにして返事をした。制汗剤の匂いがより一層強く香ってくる。
「なんで恨まれるの」
愛奈がキョトンとした顔をする。
「…まぁ、とにかく僕は部活動はしないの。公園の木陰のベンチで一人アイスを食べながら小説を読む。これが僕にとっての青春だから。」
頬杖をついて僕の反論を聞いていた愛奈から、ふーん、とやけに静かな相槌が返ってきた。
「と、いうことは好きな人とかもいないんだ」
「うん。いない。」できるだけそっけなく答える。
「…そーかそーか。ま、君も精一杯青春したまえよ。同じ夏はもう二度と訪れないよー。」
「なんだよその変なアドバイス」
「まーまー。お気になさらず」
妙な間の後、妙に気の抜けた声で返事をした愛奈は、僕の頭をぽんぽんと叩き、友達と約束があるのを忘れていたといって時計を見ながら急いで公園から出ていった。
後ろ姿が完全にみえなくなってから、もう一度鞄から小説を取り出し、一息つく。
僕は愛奈を避けていた。
意識的にそうしたわけではなかったけれど、きっと避けていた。喧嘩したとか、嫌いとかそんな単純な理由ではない。
スポーツ万能、成績優秀。おまけに友達も多く、性格は明朗単純。人を引っ張るカリスマ性もあって、いつも人の輪の中心にいる。
そんな愛奈にとって僕は邪魔なんじゃないだろうか。
運動は昔から苦手で、勉強もそこそこ。友達と呼べる友達は片手で足りて、性格は根暗で陰気。カリスマ性なんてもちろんないし、人の輪を外から眺めるので精一杯。そんなことを考えていたら、愛奈と僕の間には一生かけても埋まらない溝があるような気がした。最初は飛び越えられる程度だった溝も、中学、高校と上がるたびに大きく深くなって、いつしか、声も届かないほど離れてしまった。
きっと愛奈は何度も僕に手を伸ばしてくれていた。いらないといってもバレンタインには何故か欠かさずチョコレートをくれた。クラスでグループ活動するときは声をかけてくれたし、休み時間に本を読んでいたら何かとちょっかいもかけてきた。僕が一人でやっている図書委員の仕事も勝手に手伝ったりしていた。一度、愛奈と僕が付き合ってるんじゃないかなんて噂になった時、僕が謝ったら、愛奈は困ったような顔をして「いいのいいの。地味なクラスメイトと活発な女子高生の恋愛…だなんて、小説みたいじゃない?」と不気味に笑っていた。
それが僕と愛奈の関係。漫画の中の幼馴染は一生仲良しで最後には結婚するらしいけど、現実はそんな風にうまくできていない。
ふと足元をみるとピンクの可愛らしい柄がついた見覚えのあるハンカチが落ちていた。おそらく愛奈のものだろう。明日学校で渡せばいい。常にバレー部の華やかな女子やサッカー部の快活な男子に囲まれている愛奈に話しかけるのは少し憂鬱なことだったが、仕方ない。そう思ってハンカチをポケットに押し込んだ。
小説を開いてしばらくしても蝉は泣き止む気配を全く見せない。
さっきに比べると湿気を含むようになった風が、夕立を知らせているような気がしたので早々に引き上げることにした。
雨が降る直前特有の、俗に言う「雨の匂い」がする。
アイスのあたり棒を忘れたことに気付くのは、夜、ベッドの上で同じアイスの棒に「はずれ」の三文字を見た時のことだった。明日まで置いてあるだろうか。誰か卑しい人が勝手に引き換えてるんじゃないだろうか。いらない心配をしながらゆっくりと目を閉じた。ハンカチもアイスも明日でいいのだ――。
―――次に愛奈を見たのは額縁に入った写真の中だった。にっこりと笑う彼女の顔は生前の明るさを保っていたものの、生気のなさは隠しきれていなかった。
カラリと澄んだ青空に、鼻をつく線香の香り、夏に似合わない真っ黒の服とネクタイ。そこら中から聞こえる鼻をすする音。初めて見る大人の涙。声をあげて泣く、僕が名前も知らない同級生。大人に混じって、学校の白いカッターシャツを喪服代わりに来ている僕は、どこか浮いているような気がした。
場違いなピンクのハンカチが僕の右手の中で気まずそうに揺れた。返す相手がいなくなってしまったので、愛奈の両親に渡すと、それにすがるように二人して大声で泣いていた。なんだが、自分が泣かしたような気持になって、その場から逃げるように外にでた。
どうやら、愛奈は死んだらしい。大雨のなか急いでいたところに交通事故。即死だったそうだ。不謹慎かもしれないが、昔愛奈が「死ぬなら苦しまずに即死がいい」と笑いながら話していたのを思い出した。
帰りにすれ違った高校生の集団から、愛奈と同じ制汗剤の匂いが漂ってきて一人でむせた。どこを歩いていても、蝉の声に混ざって愛奈の明るい声が聞こえてきそうで、家に帰ってからもできるだけテレビの音量を大きくして、布団にくるまって震えた。母親から晩御飯に呼ばれても、返事もしなかった。何故か涙は出なかった。いっそ大声をあげて泣けばすっきりすると思うのに、うまく泣けなかった。
僕の数少ない友人の一人はもうこの世にいないのだ。
愛奈が夢に出てこないことだけを祈って、早く意識がどこか深いところへ堕ちるように、何も考えなくてよくなるように、強く強く、ぎゅっと目をつむった。




