第1話:『1分』の限界と、泥を舐める死線
冷たい雨が、容赦なくイノリの肌を叩いていた。
薄手の服は濡れて重くなり、泥で汚れた膝が寒さでガタガタと震えている。王城の煌びやかな装飾と、自分をゴミのように捨て去った人々の冷ややかな嘲笑。
「属性なし……魔力ゼロ……『ワン・ミニッツ・リワインド』……」
視界の端に浮かぶ青いウインドウを、イノリは血が滲むほど唇を噛み締めながら見つめていた。
1分だけ過去に戻す。再使用まで24時間。
チート能力などではない。ただの欠陥能力だ。1分戻ったところで、自分自身の筋力も素早さも一般人の運動不足な青年のままなのだから。
「──グロロロロ……」
低い唸り声とともに、暗闇から赤目の巨狼が飛び出してきた。体長2メートル超。圧倒的な捕食者の威圧感。
「ひっ……!?」
恐怖で脚が固まる。巨狼が地を蹴った。速すぎる。
ドスッ!
激痛。右腕が肘から吹き飛び、血が噴き出す。首元へ顎が迫る──死ぬ!
「スキル発動……! 『ワン・ミニッツ・リワインド』!!」
世界の色彩が反転する。
激痛が逆流し、奪われた右腕が肉体へ繋ぎ直された。
「──はぁっ! はぁっ! はぁっ!」
1分前に戻る。無傷だ。
だが、安堵の暇など一秒もない。巨狼は再び目の前の茂みから現れる。スキルはもう使えない。カウントダウンは
【23時間59分59秒】
次に襲われれば死ぬ。
(軌道はわかっている……右側から跳んでくる!!)
イノリは必死で左へ飛んだ。
だが──知っていることと、体が動くことは全く別だった。
バリッ!
「ぐあああああっ!?」
避けきれず、巨狼の鋭い爪がイノリの左脇腹を浅く切り裂いた。激痛と衝撃で泥の中に倒れ込む。頭で理解していても、運動不足の一般人の運動神経では、野生の怪物の速度に体がついていかないのだ。
(痛い……痛い痛い痛い! だが……死んでない!!)
倒れ込んだ勢いのまま、イノリは泥まみれになりながら大木の根元の狭い隙間へ必死で身を滑り込ませた。巨狼が追撃の爪を振り下ろすが、太い樹根が遮り、間一髪で届かない。
「グオォォン!」
何度も隙間に顎を突っ込んでくる巨狼。そのだ液がイノリの顔に垂れる。イノリは涙と鼻水と泥に塗れながら、必死で木の根を抱え込み、息を殺して耐え続けた。
数十分後、痺れを切らした巨狼が去っていく足音が聞こえた。
イノリは脇腹の血を押さえながら、暗闇の中で生への執着から激しく咽び泣いた。
「ハぁ……ハぁ……知ってても……肉体がクソなら死ぬんだ……! なにが成り上がりだ……死にかけたじゃねえか……!」
ふと視界の端に浮かぶステータスを見ると、表示された
【クールタイム:23時間12分40秒】の数字が、一瞬だけバグを起こしたノイズのように
『??時間??分』と不自然に明滅した。だが、疲労困憊のイノリはそれを見落とした。
無敵の力など存在しない。これは、泥を舐め、傷を追いながら死線を這い回る生存劇なのだと、イノリは冷酷な現実を叩きつけられた。




