プロローグ:日常の終わりと「無能」の烙印
深夜二時。蛍光灯のジジジという不快な放電音だけが、狭い六畳間の静寂を埋めていた。
浅桐イノリは青白い液晶画面を見つめたまま、何度目になるかもわからない溜め息を漏らした。画面に並ぶのは「不採用」の二文字が淡々と印字された電子メールの通知と、タイムラインを流れていく同年代の華やかな日常報告だ。
「……またダメか。俺の人生、どこで踏み外したのかね」
地方の大学を卒業し、就職活動に敗れ、バイト生活も続かずに引きこもる日々。特別に秀でた才能もなく、かといってどん底まで堕ちきる度胸もない。自分という存在の薄さに、息苦しさすら覚えていた。
冷めたインスタントコーヒーに手を伸ばした、その時だった。
カタカタ、とモニターのディスプレイが激しく振動し始めた。エラー音すら出ず、画面がどす黒い紫色に染まり、幾何学的な光の紋様が猛烈な勢いで旋回を始める。
「な、なんだ……!? ウイルスか……!?」
キーボードを叩こうとしたが、腕が動かない。まるで全身の肉体が鉛に変わったかのような金縛り。光の回転速度が増すにつれ、部屋の空気が急速に歪み、重力が狂い出していく。足元のフローリングが突如として霧散し、イノリの身体は果てしない虚無の底へと投げ出された。
「う、わあぁぁぁぁぁっ!?」
耳を聾する風切り音。色彩が引き千切られる感覚のなかで、イノリの胸元──皮膚の直下に、熱い焼きごてを押し当てられたような激痛とともに、小さな葡萄色の『歪んだ螺旋の痣』が浮かび上がったが、イノリがそれに気づく余地はなかった。
──これが、のちに世界を震撼させる【神殺しの楔】の伏線であることも、この時の彼は知る由もない。
◇
「──醒めよ、異界の勇者たちよ!」
朗々とした声が頭上に響き渡り、イノリは弾かれたように目を開けた。冷たい大理石の床。見上げれば、細密な彫刻が施された巨大な天柱と、絢爛なステンドグラスから差し込む黄金の光。
「ここは……?」
「凄え……マジで異世界かよ!?」
周りを見渡すと、イノリと同じように困惑し、あるいは興奮した表情を浮かべる同世代の若者が三人立っていた。相手を囲むように、白銀の鎧を纏った兵士たちと、豪華な法衣を着た神官たちが整列している。
中央の玉座に座る、豪奢な冠を戴いた老王が重々しく頷いた。
「よくぞ召喚に応じてくれた。我が名はアルテリア王国が王。魔王軍の脅威に晒されし我が国を救うため、古代儀式により諸君らをこの地へと呼び寄せた」
直後、神官たちが手にした水晶玉を若者たちにかざしていく。異世界転移者に与えられる『ステータス鑑定』だ。
「おお! クラモト殿は【聖剣技・SSSランク】! なんという神の加護!」
「サトウ殿は【天導魔法】! ミズシマ殿は【絶対防御】! 素晴らしい、いずれも伝説級のチート能力だ!」
歓声が上がり、クラスメイトらしき三人組は自慢げに誇らしげな笑みを浮かべる。そして、最後に水晶玉がイノリの前へと出された。
半透明の視界に、イノリのステータスが浮き上がる。
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【名前】アサギリ・イノリ
【職業】無職
【レベル】1
【体力】10/10
【魔力】0/0(測定不能)
【固有スキル】『ワン・ミニッツ・リワインド』
【説明】時間を「1分間」だけ過去に戻す。再使用まで24時間。
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神官の顔から表情が消えた。気まずい静寂が大殿を支配する。
「……魔力ゼロ。属性なし。スキルは……『1分間だけ巻き戻す』? クールタイム24時間……? なんだこのゴミは」
「使えぬ無能か。時間の無駄であったな」
王の冷酷な一言で、周囲の視線は一変した。熱狂的な歓迎から、害虫を見るような蔑みと嘲笑へ。
「おいおい、一人だけハズレ枠かよ」
「ダサっ……」
「衛兵、そやつをつまみ出せ。城の食糧を食わせる価値もない。遠くの原生林へ放り捨てておけ」
「なっ……待ってください! 俺だって好きでここに──」
抗う間もなく、両脇を重い鉄甲冑の衛兵たちに拘束された。抗議の声は嘲笑の渦に掻き消され、イノリは乱暴に城の外へと連行されていく。
馬車に乗せられ、暗い森の奥深くへと突き飛ばされたイノリ。地面に転がり、泥に顔を汚しながら、去っていく馬車の足音を聞いていた。
「ふざけるな……ふざけるなよ! なんだよ、この理不尽は……!」
悔しさと怒りで握りしめた拳から血が滲む。
だが、異世界は失意に暮れる時間すら与えてはくれなかった。背後の暗闇から、恐ろしい肉食獣の唸り声が響き始めたのだった──。




