第五話:憧れと恋心
――登場人物紹介
夜奈月 椿:『織香部』部員、背の高い女子高生。本編主人公。
岐阜県出身、彼女は中学までずっと岐阜で生活していた。
背の高いポニーテール女子、かわいいものが好き。
悠の『破壊の皇帝』の正体を、知っている。
皇 悠:『織香部』部員、気弱な少年。
ぼさぼさの銀髪、気弱で人見知りする少年。
影の薄い、草食系男子。でも、彼は『破壊の皇帝』というもう一つの人格を持つ。
星ケ崎 彩芽:小さい女子高生、甘えん坊で、甘いものが好き。
夜奈月 椿とは長い親友。実は、あまり頭がよくない。
彩芽と椿は、同じ東城学園を受けていた。
三野宮 織香:『織香部』顧問、既婚者。
東城学園高等部で、数学を教えている。ショートボブで、色白な大人の女性。
完璧主義者で、理論的。ピンク髪の娘を大事そうに抱きかかえている。
園川 哲治:『織香部』部長、エロい男子。高三男子。
眼鏡をかけている痩せた男で、常にカメラを首にぶら下げている。
好きなものは、フィギュア。自作フィギュアを作るのが得意。
広州 伊豆奈:『織香部』部員、子役、小四女子。
赤い髪でカールがかかっている、童顔で無邪気な人気天才子役。
好きな男子ができて、現在つき合っている。
長峰 あずさ:『織香部』部員、ツンデレ毒舌アイドル。
意外と可愛いロングヘアーと、目立ちたがり屋の大きなリボンが特徴。
最近は、大事なものを失って落ち込んでいるようで落ち込んでいない。
西園寺 轟:大きくて、太った男。
岐阜出身で、おとなし目。彼にはある野望があった。
沢尻 桜子:東城学園日本史教師、独身。
なぜか常にセーラー服を着ている、セーラー服日本史教師。
三野宮先生を尊敬していて、別のマンションに住んでいる。
福永 東雲:夜奈月 椿の甥。
小さいけれど、すばしっこいらしい。
まだ寒い冬のこの日、ポニーテールのあたしは、慣れ親しんだ中学のセーラー服を着ていました。あたしの名は夜奈月 椿。
遠く離れた、東京の東城学園という学校を受けに来たんだよぉ。
そして、今日が入学試験の発表の日なんだ。
「椿お姉ちゃん、一緒に受かっているといいね」
あたしの隣には、あたしと同じ制服を着た小さな女の子がいた。
彼女の名は、星ケ崎 彩芽。一番大事な、あたしの親友だよ。
背の差はかなりあるけど同級生、ツインテールの童顔な女の子は、あたしのほうに顔を覗かせていた。
「そうだね、二人とも受かっているよ」
枯れ木並ぶ寒い冬の道を、二人で歩く。
間もなくして、やってきた掲示板は、多くの人だかりができていた。
掲示板に近づくにつれて、緊張と不安と期待が、心を支配する。
「じゃあ、いこっか」
「うん、椿お姉ちゃん」
試験番号を互いに見直して、掲示板という運命の分かれ道に向かう。
手に持った受験票を、持つ手が震えていた。
『4056』、これがあたしの番号。掲示板を見上げ、探す。
こういう時は、あたしの高い背が役にたつなぁ。
前の掲示板から意中の番号を探すこと、約一分。
緊張の顔つきであたしは、見上げていた。
「4040……あ、あった4056」
あたしは受験票と、掲示板の番号をもう一度見返した。
間違いなく、そこに張り出されていたのがあたしの番号だった。
「あったよ、あたし、受かっていた!彩芽は?」
思わず、興奮気味に言ってしまったあたし。
隣の彩芽は、なぜか視線を落として前髪に目を隠していた。
体が小刻みに震え、目には何か光るようなものが見えた。
右手で握りつぶした受験票、それだけであたしはわかった。
「おめでとう、お姉ちゃん」
そんな彩芽は、不意にあたしに笑顔を振りまいた。無邪気な、屈託のない笑顔。
そのままあたしに、抱きついてくる。
「ありがとう、彩芽。よしよし」
あたしは、小さな同級生彩芽の頭をなでていた。
親友のあたしは、彩芽のことが何でも分かっている。
だからあたしも、なんだか泣けてきた。
それは、地元から遠く離れた学校に通う親友との、別れの意味をなしていたから。
でも、そのことをあたしは口にしないで、大親友の女の子の頭を何度もなでてあげた。
「じゃあ、帰ろうか。学校に、報告もしないといけないしね」
「うん、椿お姉ちゃん」
そこでも彩芽は、気丈にふるまって笑顔を見せた。
そんな小さく健気な彩芽に、あたしは逆に心がチクリと痛い。
掲示板を後にして、あたしと彩芽は手をつないで歩く。
枯れた木、合格発表後のあたしたちは、ここに来た心境とは別の心境になって戻っていく。そんな時、校門には一人の女性が立ちふさがっていた。
「夜奈月 椿さん、ですわね」
そこに立っていたのがやや白い肌の、紺のスーツを着た大人の女性。
ショートボブで、美人の顔立ちをした女性は、こっちを見ていた。
「そうですけど」
「わたくし、東城学園高等部の数学教師をしております三野宮 織香と申しますの。
あなたに話がありますわ、つきあってもらえますか?」
三野宮先生は、軽く丁寧に頭を下げてきた。
そういえばこの人、面接のときにいたかも。
「彩芽は、じゃあ先に帰ったほうがいいかな?」
「いえ、あなたにも大事な話にもありますの。星ケ崎 彩芽さん。
さあ、みんなで参りましょうか」
そんな三野宮先生は、学園のそばにある喫茶店に、あたしたち二人を案内してくれた。
古風でやや高級な喫茶店、客層は学生よりサラリーマンやOLなんかが多い。
三野宮先生がおごってくださるということなので、テーブルの上はあたしと彩芽が頼んだものが運ばれていた。
それにしてもなんだろう、三野宮先生が見せる余裕ある笑み。
なにか裏がありそうで、不思議な気もした。
隣の彩芽はいつも通りというか、かわいい顔でパフェをスプーンですくっていた。
「なんで、あたしたち二人を呼んだのですか?」
「まずは、夜奈月さん東城学園高等部合格、おめでとうございますわ」
「ありがとうございます」
「星ケ崎さん、不合格でしたわね、残念でしたわね」
三野宮先生がそういうと、彩芽のスプーンがぴたっととまる。
前髪に目を隠して、どこか悲しみを押し殺そうとしている彩芽。
「彩芽に、そんなことを言わないでください!」
あたしは、思わずバンとテーブルをたたいた。
親友に浴びせられたあまりにも現実な言葉、あたしは悔しかった。
触れないように気遣った言葉に、見ず知らずの人に土足で侵入されたようで、あたしは彩芽の代わりに眉をひそめた。
目の前の織香先生は、それでも冷静にあたしを見ていた。
「そんな星ケ崎さんに、朗報ですわ。あなたを、補欠合格させようと考えていますの」
「えっ」不思議な顔で彩芽は、顔を上げて三野宮先生を見ていた。
「どういうことですか、補欠合格なんですか?」
「まあ、そういうことですわ。そのために夜奈月さん、あなたは責任重大ですの」
三野宮先生が、アイスミルクを一気に飲み干して、身を乗り出してきた。
そのまま、大人の女性の落ちつた顔で、あたしを見てきた。
「責任重大?」
「そうですわ、星ケ崎さんを合格にさせるために、あなたに我が『織香部』に入ってもらいますの」
いきなり、三野宮先生が部活の勧誘をしてきた。
席に戻り、にこやかな顔を見せた織香先生。
すると、急に髪の毛のてっぺんのあほ毛がいきなり現れた。
そのあほ毛は、手招きしているように動いていた。
「動いていない?」
「何をおっしゃっていますの?わたくしは真剣ですわ。
夜奈月さん、『織香部』は少し変わった日常を体験できるものですの」
三野宮先生は真剣だけど、髪が動いて滑稽に見えた。
『織香部』かぁ、どんな部活なんだろう。なんか怪しそう。
「その部活にあたしが入れば、彩芽は合格になるの?」
「そうですわ、わたくしのコネを見くびらないでもらえますの」
なんだか裏口入学っぽいなぁ、大丈夫なんだろうか。
するとあたしの隣で、袖を引っ張ってきた彩芽。
「椿おねえちゃん、彩芽。東城に、行きたい!」
ウルウル視線、小さい彩芽のおねだり仕草。
それは、かわいいもの好きのあたしの心を、容赦なくくすぐる。
かわいいなぁ彩芽、でもなんか怪しそうな部活だし。
ちょっと理性的に戻ったあたしは、やはりこの質問をすることにした。
「『織香部』って、具体的にどんなことをするんですか?」
「簡単ですわ、わたくしの雑用が主な仕事ですの。
ほかにも部活ならでは、のイベント盛りだくさんですわ」
雑用ね、特別難しいことはなさそうかな。
本当は、中学までやっていたバスケも気になるけど。
でも、あたしはまだ揺れ動いていた。
あたしには、東城を受けた二つの理由かあったから。
ちなみに、バスケは理由じゃないから。
「椿お姉ちゃん、彩芽は東城に行きたいな」
「かわいいっ、よしよし。じゃあ、あたし『織香部』に行きます。
その代わり、絶対彩芽を合格させてください」
「分かりましたわ、交渉成立ですの。ではこの契約書に、サインしてくださいな」
三野宮先生は、ポケットから一枚の紙を取り出した。
何の変哲もない紙に、サインしたあたしだけど、名前を書いた瞬間、あたしの体全体をチクリとなにか針のようなものが刺さった感覚を覚えた。
「えっ?」
「契約成立ですわ、あなたは卒業するまでもう『織香部』の一員ですの。
あなたは、逃げも隠れもできませんわ」
「椿おねえちゃん、ありがとう。だ~いすき!」
彩芽は、あたしに抱きついてうれしそうな顔を見せた。
無邪気な笑顔に、さっきまでの不思議な感覚を忘れさせるほどだった。
契約書をいそいそとしまった三野宮先生は、立ち上がって伝票を持っていた。
「最後に、夜奈月さん」
「はい、なんですか?」
「猫は好きですか?」
「ん~、あたしはどっちかっていうと犬派だよ。
でも猫も大丈夫、飼ったことはないけど」
「なるほど。あなたには、十分素質がありますわ。
では後日、説明会がありますので来てくださいな」
三野宮先生の言葉は、その時はよくわからなかった。
あれから一年半もの月日が流れた。高二になったあたしは、新幹線に乗っていた。
『織香部』という部活に入ったあたしは、隣の座席に一人の女の子がいた。
女の子の彩芽。彩芽は、にこやかな顔をあたしに向けていた。
彩芽も、織香先生(織香部で三野宮先生を織香先生と呼ぶ)の配慮?のおかげで東城学園に入学していた。
「彩芽、やっぱりかわいいなぁ」
小さな同級生を、あたしはいつも通り頭をなでていた。
乗っている新幹線は、東京から名古屋に向かう。地元の岐阜まで長旅。
隣どうし座席の彩芽は、あたしに体をすり寄せてきた。
「えへへっ、椿おねえちゃん、だ~いすき!」
「彩芽は、本当になでがいがある頭だね」
彩芽は、にこにこしていた。
待ちに待った夏休み、あたしと彩芽は故郷の岐阜に帰っていた。
あたしと彩芽は長いつき合いで、小学校三年の時に転校してきた彩芽。
それ以降、あたしの一番の親友。一番大事な、かけがえのない人。
街中歩くとあたしと彩芽は、仲よし姉妹に見えるんだよ。
でも、あたしには最近気になる人がいて、それでいて頭の中でふわふわしていた。
甘いもの大好きな彩芽は、車内販売のチョコレートをご飯代わりに食べていた。
互いに、別々で寮暮らしをしている彩芽とあたし。
本当は一緒の寮に入りたかったんだけど、残念。あたしの方に、理由があるからね。
「彩芽、いつも、ご飯食べないでおやつばっかり食べているでしょ」
「チョコレートがあればご飯いらないよ、えへへっ」
「彩芽、チョコレートばっかり食べていたら、大きくなれないよ」
「椿お姉ちゃんの妹だから、彩芽は小さくてもいいんだよ」
彩芽はすぐ、あたしに甘えてきた。彩芽に甘えられると、あたしは怒れないよぉ。
「椿お姉ちゃん、恋しているよね?」
「えっ、な、何言っているの?彩芽!」
あたしは、思わず取り乱してしまう。あたしには、最近ちょっと気になる人ができた。
好きというほどではない、恋もしていない、でも気になる、あやふやな存在がいた。
「夜奈月さんが、好きになりました」
放課後のグラウンドで、気弱な少年にいきなり言われた一言。
かつて、つきあった彼が言わなかったその言葉を、あたしは生まれて初めて聞いた。
彼に告白され、彼の裏を見て、彼のことを知っていき、彼に惹かれるあたし。
「椿お姉ちゃん、もしかして好きな人できたの?」
「えー、あー、うーっ……」
彼とずっと行動しているうちに、気になる自分がいて、惹かれる自分がいた。
始めは、ただ弱すぎる彼を、なんとなく世話しているだけだった。
それでも、彼の見せる強すぎる本性はなんだか違う。
そんな彼の顔が頭に浮かぶと、鼻白むあたしがいた。
「彩芽には、隠さなくてもわかるよ。
彩芽は、椿お姉ちゃんが幸せになるのが、一番うれしいな。
中学のこともあったし、彩芽は応援するよ」
自分のことのように喜んでくれる、無邪気な彩芽。
あたしが彩芽のことが分かるように、彩芽もあたしのことが分かる。
そんな彩芽には隠せないと観念したあたしは、重い口を開いた。
「彩芽、みんなに内緒にしてくれる?」
「うん、内緒にする」
彩芽はしーっと、かわいらしいしぐさを見せた。
赤面したあたしは、そのまま彩芽の耳に手を当てた。
「あのね、あたしは、……同じクラスの皇君が、今、すごく気になっているの」
「皇 悠?」
彩芽は、思わず口に出してしまう。
彩芽が名前を言ってしまったので、やっぱり赤くなったあたし。
「彩芽、言っちゃダメ!恥ずかしいんだから」
「悠……皇……、椿お姉ちゃん正気?」
そんな彩芽の様子がちょっとおかしい、ぼんやりとチョコレートを見ていた。
その持っていたチョコレートが、突然ばきっと割れた。
力強い握りしめた手に、拳を震わせていた。
「正気って、彩芽」
「椿お姉ちゃん、それだけはダメ!」
うるませた瞳、子供が駄々こねるそんな顔であたしを見てきた。
「えっ、なんで?」
「彩芽は、椿お姉ちゃんが、だ~いすき。だから、皇 悠とだけは別れて。
彼は、ものすごく危険だから!」
切実な彩芽の顔、声。予想外の反応に、あたしはショックだった。
彩芽は喜んでくれる、祝福してくれる、そう思っていた。
しかし、あたしの考えは、無残に打ち砕かれた。
「椿お姉ちゃんといつまでも一緒にいたい、今度は椿お姉ちゃんを彩芽が守るから。
だから皇 悠とだけは、別れて!」
「できないよ!たぶん……」
あたしは、適当な言葉で濁した。
彩芽は、なんだか悔しそうな、泣き出しそうな顔を見せていた。
その顔が、悠のあの言葉と同様に、あたしにはとても印象的だった。
ひさしぶりの実家の前で、大きなカバンを持って立っていたあたし。
夏の空気、木々のにおい、セミの音、それから打ち水の道路、懐かしき我が家。
長旅を経て、ようやく戻ってきた。
二年生になったあたしが、ママとパパと再会、やっぱり懐かしいなぁ。
リビングで会話を交わした後、学校であった楽しかったことを話して、階段を上がる。
大きなカバンを持って上がった、二階にあるあたしの部屋。
あたしは、部屋を開けると、そこから聞こえてきた声があった。
「『子育てキラキラ☆ベイビーズ!』」
謎の子供の声が、聞こえてきた。
白髪交じりの子供が、携帯ゲームを片手にかわいいポーズであたしを見上げる。
「えっ、東雲君」
「君は、こういうのが好きなんだね」
そこはあたしの部屋、ベッドとぬいぐるみ。
後は、アイドルのポスターなんかが飾られた、普通の女の子らしい部屋。
だけど、そこには一人の小さな男の子が、あたしの携帯ゲームを持っていた。
彼の名は福永 東雲、小学生であたしの甥だよぉ。
「あーっ、東雲君、返してよ。あたしのゲーム!」
「ふーん、このゲームは、自分の赤ちゃんを幼稚園入園まで育てる育成ゲームなんだ」
あたしが手を伸ばして、ゲームを取り返そうとするけど、東雲君はゲーム画面を見ながらすばしっこく避ける。そのまま、大きなベッドの上に乗っかった。
「もう、あたしの部屋のものを、勝手に触らないでよぉ!」
「君はかわいいね。小さかったり、かわいかったりするものが、好きなんだね」
「返してよっ!」
あたしがベッドにそのまま飛びついたけど、東雲君はそれをあざけるかのように、ひらりと飛び上がった。そのまま、フワフワとあたしの背中に馬乗りした。
「東雲君、お姉ちゃん怒っちゃうよ!」
「君の好きなものは、何も変わっていない。でも、君自身は少し変わっている。
君は綺麗になったね、もしかして恋をしたのかな」
「東雲君、お姉ちゃんを『君』とか言っちゃだめだよぉ」
「においがいい、桜のほのかな香り。君は女性として磨きがかかったね」
「東雲君、うん……」
そこは、否定ができなかった。こういうところは東雲君、鋭いんだよね。
あたしの上からゲームを差し出した東雲君から、ようやく携帯ゲームを取り返した。
「東城は、楽しいかい?」
「えっ、あっ、そうだね。楽しいよ」
東雲君があたしの上から降りて、あたしはベッドに座った。
そんな東雲君は、なぜかあたしの机のほうを向いていた。机には中学までの教科書やノート、ほかにもメモ帳や、プリクラの写真までが無造作に置かれていた。
その中から、一冊の雑誌を取り出す。
「岐阜だと、地元紙に『健康的少女』と載る君が東京の学校に行くとは、驚愕だよ」
あたしは、小学生の東雲君がこんなに饒舌に話せることにびっくりだけどね。
「うん、あたしが選んで入ったんだから」
「偏差値的にも、そこまで遠くに行く必要があるのかい?」
「東城のブレザー、かわいいし」
「ボクの兄が、卒業できなかったから、かい?」
東雲君の声に、あたしは顔が曇った。東雲君の兄は、福永 誠。
東城学園の体育祭で、殺人を起こして少年院に入ったあたしの甥。
幼いころから、憧れていた、あたしの尊敬する「お兄ちゃん」。
もともと一人っ子のあたしは、よくお兄ちゃんと、(もう一人そういえば誰かいたようだけど)遊んだ記憶があった。
そんなお兄ちゃんは、何でもできた。
スポーツ万能で、正義感のある、たくましい甥に、あたしは尊敬していた。
あたしは、一人っ子だけどお兄ちゃんのように慕っていたから。
小学校後学年、周りより小さい彩芽が転校してきていじめられた。
彩芽と一緒に仲良くなって遊んでいたあたしも、いじめられていたの。
でも、そこで助けてくれたのが「お兄ちゃん」。
わざわざ学校に乗り込んで、いじめっ子を撃退してくれたんだよぉ。
だから、あたしも彩芽も「お兄ちゃん」が大好きなんだ。
「東雲君は、どう思うの?あの事件」
「君は、今でも信じているのかい?福永 誠を、彼のことを」
「うん、お兄ちゃんは、そんなに悪いことをするとは思えない。何かの間違いだよ」
「真実は東城、そこにいればいつか会えるかもしれない。
世界は廻り、また東城に戻る。大事なのは、会いたいと思う気持ち」
「えっ、なにそれ?」
「ほら、そこの赤ん坊がオムツを交換してくれって言っているよ」
と、あたしの携帯ゲームの画面を覗き込むと、赤ちゃんが泣きだしていた。
その画面に出てくる三択画面、
「1:ご飯を上げる、2:オムツを交換する、3:何かを飲み込んだ」。
あたしは、声を聞くけど鳴き声からだと判断できない。
「違うよ、この赤ちゃん何も言っていないよ」
ゲーム画面の泣いている赤ちゃんは、ただ泣いているだけ。
それでも、あたしは分かっていた。
あることが原因で、あたしに身についていた不思議な現象。
そんな時、あたしの部屋のドアがガチャ、と開いた。
「椿、そういえばあんたに手紙が届いているんだって。はい」
それは、やはり少し大きな背の女性のママだった。
あたしはママが持ってきた、封が切られていない手紙を手に取った。
手紙の主と話すのは、一年半ぶり。
懐かしい再会だけど、あまり会いたくない気持ちもあった。
(なんで来ちゃったんだろう?暇だから?未練はないし)
夕日が沈む夏の夜、あたしの目の前には大きな川が広がっていた。
真っ黒なシャツ、深緑のデニムミニスカートにポニーテールのあたしは、不機嫌な顔になっていた。
この周辺は、昔からあちこちに大きな川があって昔は治水が大変だったらしい。
近くの河原は、提灯の明かりがともっていた。
今から、夏祭りが始まるんじゃないかという賑わい。
「遅いなぁ」
ママから渡された手紙を握り、約束の時間を三十分以上過ぎても呼び出した人は来ないで、大きな橋の下で待っていた。
すると、上のほうからあたしの場所に、一人の人間が走ってきた。
その人は、黒っぽい着物を着て、頭に頭巾をかぶった小太りの人。
「椿、またせたな」
「あ~っ、轟。どうしたの、その格好?」
あたしの目の前に現れたのが、口髭をはやして老け顔のあたしと同じ年の男子。
彼の名は、西園寺 轟。中学まで同じ学校だった、地元の知り合い。
やや小太りで、のっそりとした大柄な彼はあたしに手を振った。
着物を着て、老け顔に貫録さえあった。
「轟、ちょっとやせたね」
「そんなことはないぞ。今から、あの船に乗るぞ」
「な、何を言っているの?あれって……」
轟が指さした方向に、見えたのが船着き場。
その場所は、あたしが小学校の遠足で外から見ただけの伝統漁法、
「『鵜飼い』?なんでまた」
「そう、いまからそこに行く。お前との、中学の時のデートのやり直した」
轟は、恥らいながらもその言葉を言い切った。
『鵜飼い』ってニュースとかで見たことはあるけど、行ったことないなぁ。
高級なイメージがあるから、遠巻きに見ただけの場所。
「行くぞ、見せたいんだ!大丈夫」
「う~ん、何があったの?」
「話があるんだ」
その時の轟の声は、ものすごく大人びていた。
あたしは、そんな大人びた同級生の思いを素直に受けることにした。
あたしは船上にいた。大きな屋形船に乗り、大きな川を眺める。
涼しい風と屋形船の提灯が、夏の風情を感じさせた。
暑かった夏を、忘れさせるそんな船上の光景。
「わ~、きれい」
こんなことならシャツじゃなく、浴衣を着てくれば良かったと、今更ながら後悔した。
あたしの隣には、着物姿の轟。
彼が高そうなチケットのお金を、堂々と払っていた姿がちょっとかっこよかった。
「初めてか?僕は、何回もあるぞ」
「でも、『鵜飼い』ってチケット高いでしょ。高校生だと、なかなか買えないよね」
「買ってはいないぞ」
轟が、自慢げに言っていた。不思議に思えたあたしは、轟の顔を見ていた。
「じゃあ、買っていないってことは?」
嫌な予感がしたけど、轟は首を横に振った。
「チケットがあっただけだ、それに、……始まるぞ」
轟は川のほうを指さす頃、アナウンスがポロポロ~ンと鳴りだした。
「皆様、本日は当屋形船「みずき」にご乗船いただきありがとうございます。
この船は、伝統漁法『鵜飼い』を楽しむためのものです。
これより、『鵜飼い』が始まりますので、鶴側のほうにご注目くださいませ」
などと流れると、あたしたちの背後から人が続々と集まってくる。
どうやら上の柱には、鶴の絵が描かれていた、納得。
すると、川の奥のほうから明かりが見えた。
その小さな明かりは、船に近づいてきたのかやがて大きくなった。
現れた松明をつけた小型の船、二人の人物が乗っていた。
周りが暗いので、はっきり細部までは見えないが大人の男の人が乗り込んでいた。
「ほうほう、ほうほう」
などというと、ツボのようなものから三匹の鵜が姿を現した。
首に縄をつけた鵜が、現れたかと思うとそのまま川に入っていく。
「わ~、すご~い。テレビでは見たことあるけど、生は初めて!」
あたしは、なんだか感動していた。幻想的な光景が、そこに広がっていた。
川の上の不思議な空間、不思議な雰囲気。
松明のチリチリっていう音と、羽をばたつかせる鵜の音だけが聞こえる。
周りの客もどうやら、音を立てずに静かに見守っている様子。
鵜が川から上がると、おなかのあたりが膨れていた。
そこから出てくるのが鮎、かごの中に吐き出して、また川に潜っていく。
健気でかわいい鵜、松明のぼんやりとした明かり、その空間だけを別世界の出来事のように見るものを誘う。
「すごいだろ、僕の爺ちゃん」
「えっ、あっ、轟のおじいちゃんなの?」
あたしは、素直に驚いた。自慢げに鼻を鳴らした轟は、その光景を見ていた。
「我が『西園寺家』は、数百年も続く鵜飼の伝統漁法を守る一族。
俺は、その十八代目にあたる」
「う、うん。轟って、すごいね」
「椿、この僕とやり直さないかい?」
轟の言葉にあたしは、目を丸くした。
そう、轟の会いたい手紙は、このことが理由だったんだとようやく分かった。
――轟との出会いは中学に入ってから。二年生で同じクラスで初めての席替えの時。
大きくのそっとした彼と、やはり女子の中で一番背の高いあたしと、自然と隣どうしの席になった。
当時の彼は、あまり友達もない。そんな彼は、クラスでも大きいから目立つ存在。
おとなしい轟は、一人でいつも掃除を押しつけられていた。
放課後の教室の掃除を、黙々とこなす轟に、見かねたあたしが手伝ったのが始まり。
それからしばらくして、あたしは轟に放課後を呼ばれた。
そこで轟が、あたしを好きになったから、つきあって欲しいと言い出したの。
当時、バスケ部で部活に熱中していたあたし。
初めは断ろうとも思ったけど、彼の熱意には叶わなかった。
好きな人がいないあたしは、彼と何となくつきあうことにしたの。
でも、つきあったもののデートもなく、なにもなくて、ただ席が隣にいるだけの変化のない日々を過ごしていく。
一年間、ほとんど進展のないあたしと轟は、同じクラスでもう中三になっていた。
そんなあたしはGWの近いある日、大親友の彩芽から映画のチケットをもらったの。
そして、彩芽の計らいもあり轟とつきあい宣言以降、初めてのデートに誘ったの。
GWに映画館デート、おしゃれして出かけたあたし轟。
でも轟は、やはり乗り気じゃなかったなぁ。
「轟は映画、何が好きなの?」
「僕は、あまり映画観ません」
「むーっ、こういう時はなんか言うもんだよぉ。
たとえばカンフー映画とか、アニメ映画とか、恋愛映画とか」
「そんなものに興味ありませんから、映画なんて観ませんし」
私服姿の轟は、なんだかうわの空で携帯電話ばかりをいじっていた。
「じゃあ、アクションとかどう?上演時間近いし」
「別に、いいですよ」
やや、投げやりの轟。あまりうれしそうじゃないので、あたしのほうで何とかテンションを上げていた。手を引いて、彼とともにシアターに。
そのまま近くの席に座り、映画が始まった。
……二時間ほどの超大作SFアクション映画が終わり、あたしと轟は出てきて近くのフードコートに来ていた。
思った以上に、面白かった映画を見たあたしは上機嫌。
轟も、声を上げながら映画に見入っていた。
「なかなか楽しかったね、映画」
「つまらなかったですよ、映画」
やはり、携帯ばっかり見ていた轟。
ちょっと膨れたあたしは、轟の携帯電話を無理やり覗き込んだ。
「そんなに熱心に、何を見ているの?」
「み、見ないでください。邪魔です」
すぐさま、慌てた様子で携帯電話を隠した。
轟は、なんかイヤそうな顔をあたしに向けた。
「ねえ、轟。映画嫌い?」
「普通ですよ」と、携帯電話を背後に隠して、あたしに言ってきた。
ため息をついて、困った顔を浮かべたあたし。
「じゃあ、何がいいの?
デートとかも行かないし、あたしの部活も忙しいけど、電話もメールもないし。
なんか、つきあっている感じが全然しないんだよね」
「ちゃんとつきあっているじゃないですか、僕は……」
「いい加減にして!」
あたしは、思いっきりテーブルをたたいた。
そこに今までの不満や怒りを、ぶつけるかのように。
「夜奈月さん、どうしたんですか?」
「どうしたじゃないよ、あたしのこと好きじゃないんでしょ!」
「いえ、普通に好きです」
「普通じゃないよ!これ以上、あたしは轟とはつきあえない!」
あたしは、そのまま彼のテーブルから走って去っていく。
そのまま轟を置いてあたしは、帰ることにした。
つきあっているとか好きと、そういうのがないまま、轟とのあやふやな交際は、こうして終わっていった――
そんな彼と、やり直したいと思えるはずもない。
でも、中学の時に誘ったことさえない彼の変化。
始めて見せる能動的な轟は、船であたしの顔を見ていた。
提灯の明かりが、ぼんやりとあたしと轟の顔を照らす
「椿、この僕と結婚してくれないか?」
「……なんで、そうなの?わからないよ、あたし」
轟の言葉に、あたしは小さな声で漏らした。やや強引で、やや不思議な感覚。
裏がありそうで、利用されていそうで、不器用なプロポーズ。
結婚の申し込み、はじめは冗談に思えた。
でも、轟は冗談なんて言う性格じゃないことを、あたしは知っていた。
「僕、椿と別れてようやく気づいたんだ。椿が、少し大切な存在だってことに」
あたしは、轟の言葉を無言でかみしめた。
もっと、早くその言葉を聞きたかった。
「それに、僕は好きな人がいない。椿だって彼氏はいないだろ、もう一度……」
「馬鹿にしないで!」
その言葉であたしは、一気に怒りが込み上げてきた。
でも、時折言ってくる轟のこういう心無い言葉、あたしは嫌い。
「じゃあ、いるんだ?誰?そいつは?本当に好きなんだろうな?」
「えっ、ううっ……」
あたしは、困っていた。悠は好きかもしれないが、まだわからない煮え切らない関係。
ただ告白だけされた人、ちょっと彼のことが分かってきて、気になっている。
無意識のうちに、惹かれている自分がいた。
でも轟の前で発表するほどはっきりとしていないし、彼の名前をだすと恥ずかしい。
そんな困り顔のあたしに、ここぞとばかりに轟は追求する。
「これでも、僕は本気です!」
「う~ん、どうやって説明しよう……」
それぐらい微妙な関係、あたしと悠。
そんな目の前の小型船は、鵜が健気に鮎を口に入れては、吐き出す漁法を、黙々と続けていた。その度に、船から歓声が上がる。そんな時、
「『破壊』、重力」
どこからともなく、男の澄んだ声がした。その声の後に、見えるのが一つの人影。
そしてありえない人物が、ありえない川の上流あたりから歩いてきた。
その姿を見てあたしの体に、驚きという名の電気が流れた。
提灯の明かりで分かってくる、川の上に立つ男をあたしは知っていた。
「悠、どうして?」
その姿は悠ではない、『破壊の皇帝』というもう一つの姿。
「俺は、夜奈月 椿に会いに来た」
その言葉に、あたしの心はなんだかうれしくなる自分がいた。
欲しかった言葉を、聞きたかった言葉を、あたしは彼から聞けたのだから。
「なんで、なんであたし?」
「お、お前は?」
「俺の名は、皇 悠。椿の恋人だ!」
ファンタジーチックに、川の上を歩いて現れた悠、いや『破壊の皇帝』に対し船の中は騒然とした。しかし、轟は苦い表情で悠を見ていた。
そのまま悠は、船に強引に乗り込んでくる。
「こ、恋人って、あたしは……その……」
「もういいだろう、俺は待てないぞ。
あの時の答えを、俺は聞きにわざわざ来たのだから」
悠は、悠々と船にたどり着いていた。自信たっぷりの顔は、いつもの彼とは正反対。
そんな彼と、気弱な彼のギャップを両方見ているあたしは、彼が気になっていた。
『破壊の皇帝』、彼のことをこう呼んでいる。
どんなものでも、『破壊』できるすごい悠、強気の彼。
「何を言っている!」
「椿、この輩は?」
「轟、あたしの中学の知り合い」
あたしは、轟のことを言う。『破壊の皇帝』赤く光る眼で、轟のほうを覗き込んだ。
あたしはまるで助けを求めるかのような目で、悠に『破壊の皇帝』に視線を送る。
大柄の轟は、あたしに言い寄ってきた。
怒りをにじませ、貫録ある顔であたしを見ていた。
「椿、こんなヤツが、本当にお前の恋人なのか?」
「うん、そう……だよ」
あたしは、やっぱり恥ずかしかった。
そんなあたしのそばに来た悠は、お構いなしに頭をなでてきた。
きれいに整えたポニーテールが、乱れていく。
おもいきりゴシゴシと、あたしの頭を乱暴になでていた。
「あたしが今、気になっている人」
「帰るぞ、椿。ノーマルがさびしがっている」
「待て、僕は椿を、その……デートに誘って……」
急に轟の声が、歯切れ悪くなる。
そんなことをお構いなしにあたしは、悠に手を引っ張られお姫様抱っこされていた。
委ねるあたしの大きな体、あたしはやっぱりうれしく恥ずかしく半々の気持ちでいた。
「お前は、椿と何をした?」
「えっ、それは……」
「何もしていないのだろう、こういうことも」
悠はそういってあの時のように、あたしの前髪を掻きあげた。
そのまま顔を、唇を近づけてくる。
ドキドキした、生きていた中であの時と同じように。
あたしの心は、張り裂けそうだった。
そして、交わした唇。
「つ、椿、やめろ!」
轟が手を伸ばして、あたしたちを奪おうとした。
だが顔を上げた悠は、余裕の表情で後ろに下がった。
悠に抱きかかえられたあたしは、そのまま船の手すりに飛び上がった。
どうやら危険な行為なのか、乗務員のおじさんも人垣のほうから姿を見せた。
「危ないぞ、やめないか!」
しかし、『破壊の皇帝』になった悠は全く動じることがない。
「な、おい」
「お前の負けだ、椿はもう俺のものだからな。契約の儀式だ」
その言葉に、赤らめたあたしは口をつぐんでドキドキしていた。
あたしは、長い間この言葉を待っていたのだとはっきりわかった。
自分の本能で潜在的に、それがあったのかもしれない。それが、恋だから。
そのまま悠と抱きかかえられるあたしは、手すりから川へと飛び込んだ。
でも重力を『破壊』した彼は、川に落ちなくて、魔術的で非科学的に浮いていた。
(やっぱり、悠のこと好きなのかも)
この時、はっきりしない恋心は、また一つ動いたような気がした。
お世話したいんじゃなく、お世話されたい、誰かのものになりたい、そんな潜在的気持ち、感情。あたしの奥底にあるその気持ちを確認して、彼の顔を見上げた。
川の水面に浮かぶ彼の顔は、やはり凛々しい。
前を向き、赤い目がきらりと輝く。
「いくぞ、椿」
「えっ、うん」
『破壊の皇帝』になった悠は、無敵。何にも動じない、何にもひるまない。
彼はあたしを、抱きかかえて川を歩く。
そこは『鵜飼い』以上に、幻想的な世界が広がっていた。
「椿、戻ってこい!」
轟は、ただ遠ざかる船から大声を出すだけだった。
「戻ってこい、椿!もう一度……」
でも轟の声は、離れることでやがて聞こえなくなる。
川のせせらぎ、奥のマンションの明かり、船から離れての二人だけの静かな空間。
あたしは、重力を『破壊』して浮いている悠に、一生懸命抱きついていた。
両手を絡ませて、彼から離れないように懸命に肩から首に手を伸ばす。
「あたしは、悠のこと、まだわからないけど、気持ちがちょっと固まったかな」
「ノーマルの望みは、俺の望み。お前が俺を好きになることは、悪くない選択だ」
そんなあたしを抱きかかえたまま、川に浮いたまま川の対岸に向かって悠は歩く。
真っ暗な岸にたどり着こうとしたとき、その奥には一人の女性が立っていた。
「は~い、それまでですよ」
赤ん坊を抱きかかえて、セーラー服を着た女性の姿が見えた。
周りが明るいけど、顔までははっきりうかがえない。
だがそれとほぼ同時に、『破壊の皇帝』である悠は顔をしかめた。
悠の前髪が、影になって見えない。
だけど体が小刻みに震え、ちょっと息を切らしているようにも見えた。
「くそっ、こんな時に!」
身震いした悠は、あたしを抱きかかえる力を強くした。
あたしは、心配そうな顔を浮かべた。
「大丈夫、悠?」
「だめだ、もたない」
すると、悠の赤い目がいつも通りの目にもどり、気弱な少年の顔が見えた。
ぼさぼさの銀髪で、恥ずかしいのか顔を赤くしていく。
『破壊の皇帝』が、元に戻るということはつまり、
「えっ、落ちるっ!」
戻った重力に引っ張られてあたしと悠は、そのまま川に落ちていった。
それから一時間ほど、あたしが目を覚ますとそこはベッドの上に寝かされていた。
あたしの下着も、あたしが着ていた青いシャツも、カジュアルなパンツも、リボンも床に無造作に置かれている。
しかも、悠のはいていた真っ黒なトランクスまで。ううっ、見ちゃったよぉ。
ほかにもポテチの袋や、紺のビジネススーツ、はたまた雑誌や新聞まで散らかった汚い部屋。あれ、そういえばあたしのブラだけがないんだけど。
「はい、気付きましたか」
「ここは?」
「カプセルホテル、ですよ~」
そこには、なんと東城学園の日本史教師である沢尻先生の顔が見えた。
授業しているときも、セーラー服を着ている若い女教師。
若作り教師とも言われているけど、意外と生徒から人気もあるそんな先生。
あたしも、沢尻先生が好きだよぉ。そういえば、織香先生とも仲がいいんだね。
「あっ、悠は?」
「そのことで、残念なお知らせが……」
沢尻先生は、なぜか目に涙を浮かべていた。
あたしは、心配そうな顔で沢尻先生の顔を覗きこむ。
「えっ、悠がもしかして……」
最悪のことが、頭をよぎる。
あの大きな川だから、行方不明になっても不思議ではない。
だけど、あたしのベッドの上を、ハイハイしている黒いベビー服の赤ちゃんがいた。
その赤ちゃんは、なぜかあたしの赤いブラジャーを頭にかぶっていた。
ピンク髪のつぶらな瞳の赤ちゃん、プリちゃん。
「にゅにゅ」
あたしは、実は一つだけ特技があった。
よしよしと、なでた後プリちゃんを抱きかかえてあげた。
「プリちゃん、どうしたの?あっ、そう。うん」
「皇君は、いい子でしたね、あまり……」
沢尻先生が、ハンカチ片手に涙を拭きながら話をしていると、あたしはハンカチを強引に奪った。横目で、沢尻先生を見る。
「先生、悠は隣の部屋で寝かせているんでしょ」
「えっ、あら、わかっちゃいましたか」
沢尻先生は、舌をペロッと出した。もう、生徒を心配させないでくださいよ。
「皇君は無事です、ごめんなさいね。
それにしても夜奈月さんは赤ちゃんと、しゃべれるんでしたね。
私のうっかりさん、でしたよ」
「うん、プリちゃんはとってもかわいいんだよぉ」
あたしは、『アビ』という特殊を持っていた。
『織香部』に入部した際に、手に入れた特殊な能力。
それは、『赤ちゃんとお話しができる』特殊能力、『アビ』だよ。
かわいいものが大好きで、小さな子が大好きなあたしにぴったりの能力。
なんで織香先生の娘、プリちゃんがここにいるんだろう。
あたしの次の質問を、沢尻先生に向けることにした。
「そういえば、織香先生は?」
「こっちで~す」
あたしの質問に、沢尻先生はカプセルホテルのユニットバスに案内した。
そこには、洗面器の中でもぞもぞしている音だけがした。
「この中で、『オリッチ』は気持ちよく眠っているのです~」
ちなみに、『オリッチ』は沢尻先生がつけたあだ名らしい。
つけられた本人は、気に入っていない様子だけど。
あたしに抱かれたプリちゃんは、洗面器に向けて手足をばたつかせていた。
織香先生は、夜六時から十二時間限定の黒猫になる呪いがかかっているんだって。
本当はちゃんとした人間なんだけど、今は夜十時を過ぎているね。
あたしが洗面器をどかしてあげると、疲れた表情の黒猫が出てきた。
湿気のある浴室の床で、のぼせているようにも見えた。
「あ、そう。なんか織香先生が、沢尻先生の家からあたしの寮に引っ越した理由、分かったような……」
「だって~、『オリッチ』、ひっかいてくるんですよ~」
沢尻先生が、スカートの下から太もものひっかき傷を、あたしに見せてきた。
「う~ん、織香先生って潔癖症だからね。
それにしても、なんでここに、みんないるんですか?」
「そうだねぇ~、私たちは皇君を追いかけに来ました。そう、おっかけなのです」
沢尻先生が、どこからともなくピンクのハッピを着た。
そこには『LOVELY SUMERASGI』と書かれたハッピ。
「あははっ、そうなんだ」
「夜奈月さん、そこは突っ込むところです。
本当はね、皇君は数学の補習を、抜け出してきたんですよ」
沢尻先生は、いろいろ涙あり笑いありで説明をしてくれること三十分ほど。
「要は悠が補習を抜け出して、あたしに会いに岐阜まで来て、沢尻先生と織香先生がその悠を連れ帰しに来たんですね」
「ざっくりと、まとめすぎですよ」
沢尻先生の説明中に、あたしはプリちゃんの無地オムツを、ウサギのオムツを交換していた。お昼寝したのか、夜十一時過ぎてもプリちゃんは元気だね。
うん、かわいいなぁ。
その時、あたしたちの部屋のドアがガチャ、と開いた。
「夜奈月さん、ごめんなさい!」
姿を見せると、いきなり悠は直立であたしに頭を下げた。
やはりしわくちゃなぼさぼさの髪、気弱な悠は顔を赤くしてこわばらせていた。
白いシャツは濡れていて、慌てていてズボンのチャックが開いたままになっていた。
「ゆ、悠?大丈夫?」
「ボクは馬鹿なことをしました、ごめんなさい!」
そのままもう一言、言って彼はいそいそと部屋を出て行った。
それでも、あたしは嬉しかった。
(奪われるのも、いいかも)
そんなあたしの目の前には、プリちゃんがにっこり微笑んでいた。
「ばぶばぶ(もう、皇とは子供を作ったのか)?」
「えっ、ち、違うよぉ」
あたしは、プリちゃんに対し顔を赤らめていた。
沢尻先生は、プリちゃんの顔を見て不思議と、赤らめたあたしに首をかしげていた。
帰省で夏休みがほとんど終わった。そして、二学期を迎えた。
二学期開始の式を終え、今日は二学期に入って二回目の登校日。
あたしは放課後、『織香部』のある数学準備室にいたの。
この日が、『織香部』が二学期初の部活の日。
いつもの部活に、いつものメンバーが集まっていた。
「みなさん、お久しぶりですわ」
ドアを背に、織香先生がホワイトボードに何かを書いていた。
久しぶりに集まった面々と、会話を交わす。
この『織香部』には、あたしと悠以外にも三人の部員がいる。
唯一の小学生部員の伊豆奈ちゃんの背が少し大きくなったり、現役アイドル女子高生のあずさちゃんは黒くなったり、眼鏡をかけた園川部長は趣味の自作フィギュアの種類が増えたり。
そして夏休みにあたしに会いに来た悠が、ゲッソリとやつれた顔になっていた。
そんな部室のホワイトボードには、『文化祭企画会議』と書かれていた。
ちなみに今、プリちゃんは白いカーテンのベビーベッドの中。
顔は見えないけれど、寝息だけがスースーと聞こえた。
「文化祭って、もうそんな時期ですか」
「えっ、そうかなぁ。文化祭、この学校だと大きいからいろんな人が来るね」
「当然ですわ、そこで皆さんは文化祭の出し物を決めようと思いますの。
一応『織香部』は、れっきとした部活ですので」
織香先生は、にこやかな顔を見せていた。
紺のスーツを着た、数学教師をあたしたち織香部部員は見ていた。
ちなみに、みんなはおのおのブレザーを着ていて、伊豆奈ちゃんだけが白いワンピース。やっぱり、かわいいなぁ。
「俺は、フィギュア撮影会をしたほうがいいと思う」
「伊豆奈は、演劇したい」
「あたしのコンサートが、一番よ」
園川部長、伊豆奈ちゃん、あずさちゃんがそれぞれ主張。
発言の後、三人ともがいがみ合っているようにも見えた。
「残念ながら、それらは全て却下ですの」
「えー、じゃあ赤ちゃんカフェですか?」
「夜奈月さん、惜しいですの」
織香先生の言葉に、あたしはなんだかがっかりした。
「なによ、なんでもダメダメって、ダメ教師ね!」
「くっ、ひどいですわ」
織香先生は、あずさちゃんに反対されてとても悲しげな顔を見せた。
そんな織香先生の顔を、園川部長がいつも胸にぶら下げたカメラでおさめた。
「あの……、そろそろ……」
「じゃあ、何をやる予定なのですか、織香先生?」
伊豆奈ちゃんが聞くと、立ち直りの早い織香先生はきりっとした顔を見せた。
「ズバリ、『数学カフェ』ですわ!」
「す、『数学カフェ』って?」
「この部屋は、なんという部屋の名前かご存知ですの?」
「数学準備室、ですね」
「そうですわ、大正解ですの。
この『織香部』は数学準備室でやっているので、『数学カフェ』が当然ですの」
「内容は?」
園川部長が眼鏡を抑えて、いつの間にかフィギュアをいじっていた。
そのフィギュアは園川先輩のオリジナル、あたしで水着姿。
ううっ、このまえ園川部長を励ます時に、写真を撮られたやつだよぉ。
フィギュアだけど胸のあたりを触られてあたしは、思わず身震いをして手を伸ばす。
「というわけで、『数学カフェ』で皆さんよろしいですか?」
「えっ、あっ、届かない」
園川部長は、あたしのフィギュアの胸をものすごく卑しく触りながら、あたしの手を器用にかわしていく。
ううっ、東雲君みたいにすばしっこいよぉ。あたしは、ムキになっていた。
「伊豆奈は、先生に賛成です」
「カフェなんて一般的よ、個性が足りないわ。やっぱり見た目よ、見た目!」
「あたしは……返して!返してよ!」
机に身を乗り出して、あたしは園川部長のフィギュアを奪いに手を伸ばす。
しかし、園川部長の回避力がとにかく高い。
立ち上がった一年上の部長は、体をそらしてあたしの手をかいくぐる。
業を煮やしたあたしは、立ち上がって素早く園川部長の背後に走っていく。
「いいんじゃないか。織香先生は、こういったら聞かないからな」
「よし、とれた」
あたしはようやく園川部長から、水着バージョンの自分のフィギュアを取り返した。
「かわいそうな、あたし。かわいそうな、あたし」
園川部長が、あたしそっくりに精巧に作られた非売品フィギュアに慰めをいれた。
取られた園川部長は、表情を変えずに伊豆奈ちゃんのメイド服フィギュアをいじり始めていた。伊豆奈ちゃんは、見て見ぬふりしている。なんか、落ち着いているなぁ。
「具体的な内容は、どうなんですか?」
「なんとか、数学とコラボしたカフェを作りますの。
ですが、具体的にどうするかは、これからしっかりとつめねばなりませんわ」
織香先生は、やや難しそうな顔を見せていた。
「皆さんには、メニューを考えてもらいますの。ほかにもいろんな企画を考えますわ」
「分かった、では早速考えるぞ」
部長の号令、そして部活が始まった。
数学カフェの中身を、議論するための話は夕方まで続いた。
夜、あたしは自分の寮に戻っていた。あたしの寮には、天使が住んでいるの。
お風呂であたしは、そんな天使を洗っていたんだよぉ。
あたしのそばには、ピンク髪に赤ちゃんが洗面器で泡だらけになっていた。
「プリちゃん、お流しするね」
泡だらけのプリちゃんを、水で流す。
織香先生の娘、プリカこそ、プリちゃんがあたしの寮にいる。
そもそもこの寮では、織香先生とあたしが一緒に暮らしていた。
「にゅにゅ(お姉ちゃん、あのお兄ちゃんとはうまくいっているのか?)」
「えっ、プリちゃん」
赤ちゃんのプリちゃんは、「ばぶばぶ」と「にゅにゅ」しかしゃべらないけど、あたしは言葉が分かる。
「にゅにゅにゅ、ばぶばぶ(わらわは見ておるのじゃぞ、ママのそばで)」
「うん、まだわかんないの」
お風呂であたしは、プリちゃんのピンクの髪を洗う手を止めた。
赤ちゃんと話ができる、あたしの『アビ』。
あたしはプリちゃんのような赤ちゃんや小さな子が大好きだから、プリちゃんと会話ができるんだよぉ。
ちょっとプリちゃんの言葉が、古風なのは気になるけど。
あたしの言葉が分かるように、プリちゃんもあたしの言葉が分かるの。
「にゅにゅにゅにゅ(あの男は助けを求めておるのじゃ、わらわにはわかるのじゃ)」
「助け?なに、それ?」
「にゅにゅ、にゅーにゅ(あの男が、普通ではない事からじゃ)
ばぶばぶ、にゅにゅ(だから、彼のことをよく知るといいのじゃぞ)」
「うん、わかったよぉ。あたし、頑張ってみるね」
プリちゃんの言葉、あたしは何となく心にとどめていた。
翌日、あたしは休み時間の教室にいた。
いつもの授業が終わった休み時間、あたしは同じクラスの彩芽と、もう一人の三人の女子があたしの机に集まっていたよ。
「椿ちゃん、もうすぐ文化祭だね」
「うん、そうだね」
ショートカットのさわやかな少女、姉瑠花ちゃん。
彼女とは、東城で知り合ったあたしの新しい親友。
あたしと同じクラスで、風紀委員をしているんだよぉ。
彩芽とも、知り合いで仲がいい姉瑠花ちゃん。
「彩芽、文化祭楽しみ」
「姉瑠花ちゃんは、クラスの出し物に顔を出すの?」
「参加したいんだけど、私は文化祭の取締りで忙しいですね」
彩芽はわくわく、姉瑠花ちゃんは凛と引き締まった顔を見せていた。
「椿ちゃんは、クラスと部活もあるんだっけ?」
「うん『織香部』が、あるよ」
その単語を出すと、彩芽はしかめ面を見せた。
彩芽は責任を感じているんだと思う、あたしが入ってしまったこの部活に。
あたしは、悲しそうな顔の彩芽の顔を見て、話題を変えることにした。
「彩芽のクラスは、お化け屋敷やるんだよね?」
「そうそう、彩芽はお化けだよ」
「彩芽みたいならお化けなら、あたしいくらでも、なでなでしちゃうよぉ」
「えへへっ、椿お姉ちゃん、だ~いすき」
彩芽は、やっぱりあたしに甘えてきた。
あたしは頭をなでてあげると、自慢のツインテールがご機嫌に動いていた。
「私と椿ちゃんのところは、『茶屋』だっけ」
「うん、でもあたしは部活のほうもあるし、クラスのほうは参加できないかも。
だから準備のほうにだけは、少し参加しようと思っているんだ」
「そっか、残念だね。椿ちゃんの振袖姿見たかったですね」
「うん、なんかそっちの服が、かわいくていいなぁ。
できれば、クラスのほうがいいんだけどね」
あたしは、頭に『織香部』の園川部長の顔が浮かんだ。
「おーい、夜奈月。ちょっと来てくれないか」
そんな時、あたしを呼ぶ声がした。
そこに現れたのが、紺のブレザーを着た一人の男子生徒。
「あっ、なに?」
「ここの飾りつけ、どうしたらいいかな?」
「うん、そこはね、こうしたほうがいいと思うよぉ」
あたしは、男子生徒のメモ帳を見ながら話し込んでいた。
あたしのクラスにいた悠は、なんだか元気なく窓を眺めていた。
その視線が、少しだけ気になっていた。
その日の『織香部』、あたしは買い出しに外に出ていた。
周りは、多くの雑貨が並び、賑やかでモノがあふれている店内。
日本というのはつくづく雑貨社会なのだと、あたしは思えてしまう。
この国は、家の中の雑貨が世界一多いんだって。
「あの、いきなりで……」
隣には困惑気味の悠の顔が、覗かせていた。紺のブレザーを着た悠とあたし。
しかし、あたしの目の前には、なぜか欲望に負けそうなおもちゃがいっぱいあった。
「あれ、これ、かわいいよね」
そこにはベビー用品、おもちゃコーナーがあった。
ガラガラから、押して歩くタイプ、さらにはクマのぬいぐるみまであった。
「ほら、このガラガラ。プリちゃんに買ってあげたら喜ぶだろうなぁ」
「うん、そう……だね」
制服であたしと悠は、買い出し中。
『織香部』の数学カフェに必要なものを二人で、買い出しに来ていた。
ここは、某ディスカウントショップ。
迷路のような店内と、ペンギンぽいマスコットキャラクターが、店の看板に堂々と描かれたスーパー。
なんでもそろう、激安殿堂、おまつりさわぎ~♪などと軽快なお店のテーマ曲まで流れていた。
「こっちのベビー服も、ちっちゃくってかわいいなぁ。黒のふりふりなんだよぉ」
ついつい、脱線してベビー用品に、目がいってしまうあたしだった。
「夜奈月さん」
「わ、わかってるよぉ。ちゃんと数学カフェの備品、買いに来たんだよね」
買い物かごを持った悠は、やっぱり困っていた。そこにはいろんな食品が入っていた。
「うん、でも夜奈月さんなら、あのままでも……」
「絶対ダメ!」
あたしは、かたくなに拒否をした。
――それは二時間前のこと。
『織香部』の数学準備室では、数学カフェの会議が行われていた。
「数独というパズルで、注文が変わる仕組か」
「そうですわ、何百通りかパズルを作って、それをカフェに来ていただいた方に、解いてもらいますの」
園川部長と、織香先生のやり取り。
目の前には、何枚かの数字が書かれたカードが置かれていた。
ちなみに数独とは、三かける三のブロックに区切られた九かける九の正方形から枠内に一から九までの数字を、縦横、ブロック内で重複しないように並べるパズルだって。
「初級編としまして、二かける三の六かける六の長方形ブロック。
その長方形ブロックを六つにしまして、数字を皆さんにパズルを解いてもらう仕組みにしますわ」
「なによ、これ難しいじゃない」
あずさちゃんが早速、数独を解いていた。いらいらした顔で、カードに向かっていた。
「あ、四が縦に来ているから、横には、入らない」
「悠、ここはね、こっちに四が来るんだよ」
一足早く解けたあたしは、悠に丁寧に教えてあげた。
あたしと悠、あずさちゃんと伊豆奈ちゃんの四人で、数独にチャレンジ。
最初に伊豆奈ちゃん、次にあたしが解けて、あずさちゃんと悠が悩んでいた。
「確かに、解ければ面白そうなパズルだ。だが、それだけで客は呼べるのか?」
園川先輩は、なぜかあずさ着ぐるみフィギュアを舐めるように触っていた。
「解いたら、覚えていなさいよ」などと、うねり声も聞こえるあずさちゃんは、やっぱり数独に夢中。
「数学の良さを、皆さんに知ってもらえれば何よりですが、確かにインパクトに確かに欠けますわね」
「織香先生、前の撮影会のことを覚えていますか?」
「えっ、ああ。園川君を元気づけるための撮影会でしたわね。
わたくしの旦那がやっているネット通販会社のコスプレで、みなさんでコスプレを着ていましたわね」
「それです!」
園川先輩は、なぜか珍しく立ち上がった。
そして目の前のあずさ自作フィギュアを、前に突き出す。
「みんなコスプレで、接客してはどうでしょうか」
「えっ、な、なにを……」
「さすがは園川部長、素晴らしいアイディアですわ、ぜひそうしましょう。
前のコスプレは、ちゃんとクリーニング屋に頼んでおいてありますので、いつでも試着できますわ」
「さすがは、織香先生。見事な仕事だ」
「当然ですわ、完璧な数学教師ですもの」
園川先輩と織香先生が、互いに妙に納得していた。
「じゃあ、長峰が着ぐるみ、広州がメイド服……」
「勝手に決めないでよ!」
あずさちゃんと伊豆奈ちゃんの声が、きれいにはもった。
「それでも広州さんのメイドさんは、かわいらしいですわ」
「はい先生、私着ます!」
「まあ、広州さんは優秀ですわ。
子役でかわいい広州さんが着たら、さすがに目立ってしまいますわね」
「あたしだって、着るわよ」
あっという間にあずさちゃんも、織香先生に乗せられていた。
「じゃあ、夜奈月も水着で参加と……」
「それは、絶対だめっ!」
しかし、園川先輩の手には、いつの間にかあたしの水着バージョンフィギュアが握られていた。一体いくつあるの。
「絶対、水着だけは着ないからね、あたしいやだから!」
「そうはおっしゃっても、夜奈月さんは大きいので、サイズは水着ぐらいしか……」
「あるもん、何かちゃんとあるよぉ。大体、あたしの制服だって」
「ドンペリドンペリ~」
すると、伊豆奈ちゃんが無表情で変な歌を歌い始めた。
「なにそれ?」
「ドンペリホームの歌。ドンペリホームならきっと大きいサイズあるんじゃないかな、コスプレ」
「あるの、かな?だってディスカウントスーパーだし……そういうのって専門店とか」
「行ってみる、価値はありますわ。
早速ですが夜奈月さん、メニューの買い出しついでに行ってくださいな。
ついでに、皇君と一緒に行ってきてくださいな。夜奈月さん一人では不安ですわ」
織香先生は、そういってあたしと悠を送り出したのだった――
再びドンペリホーム、ここは激安ジャングル。
伊豆奈ちゃんの歌っていた軽快なテーマ曲が流れる店内、夕暮れ時ということもあり主婦の姿が多く見えた。
あたしと悠は、互いにぎこちなく店内を五分ほど歩いていた。
制服で歩くあたしたちは、難しい顔で周りを見回す。
「う~ん、ここどこ?」
あたしは、迷っていた。そばにいた悠も、一緒に迷っていた。
「ここ、ベビー用品のところですね」
「う~ん、あたしたち出られるのかなぁ」
最初に見たベビー用品、おもちゃコーナーに戻ってしまった。
本当に、迷うほどに店内は入り組んでいる。
赤ちゃん用玩具の中に、隠れた店内マップを見つけたあたし。
「悠、地図見てくるね。ここで待っててね」
悠の前ではしっかりした自分を演じたい、いつもリードしているあたしは店内マップに歩いていく。
『破壊の皇帝』の前では、逆にリードされたい複雑な心境があたしにはあった。
そんなあたしは、彼に好かれたいから。
気弱な彼を、何とかお世話したいから。
「えーと、ここは……こうして。あ、近いね。じゃあ、いこっか」
あたしが、振り返るとそこには悠はいなかった。
「あれ?悠、悠は?」
あたしは周囲を見回すけど、なぜか悠の姿はない。
消えた悠に、途端に不安になるあたしがいた。
(トイレにでも、行ったのかな?)
とりあえず、あたしは周りを見回しながら、パーティグッズのコーナーと悠の両方を探しで歩いていた。
それから間もなくして、あたしはパーティグッズのコーナーにたどり着いた。
「あ、大きいサイズもあるね。わー、かわいいなぁ」
そこにコスプレコーナーと、はっきり書かれていた。
並んでいる多くのコスプレ、大きいサイズコーナーもあるね。
一つコスプレを手に取って、パッケージを見ていた。
いろんな種類のコスプレが置いてあって、その一つ一つが、かわいいモデルの人が着た写真が並ぶ。
「って、そうじゃなく!早く、悠を探さないと……」
「椿には、これが似合う」
すると、あたしの後ろから手が伸びてきた。
太い手は『スーパー婦警さんシリーズ』と書かれたコスプレのパッケージを持った。
あたしは、その手から顔のほうに視線を移すと、あっと驚いてしまった。
「な、なんでいるの?轟?」
そこには、小太りで、ひげ顔で着物を着ていた轟の姿があった。
地元の岐阜から、数百キロ離れた東京の、このドンペリホームにいたことに素直に驚かざるを得なかった。
「椿に、会いに岐阜から来た。椿に、告白するために来た」
「なんで、あたしは轟のことなんか……」
「椿、僕とつきあってくれませんか?もう、結婚をしてくれませんか?」
「高校生だよ、あたし。できるわけ、ないじゃない」
「僕は、違う。僕はもう、鵜匠だ。『西園寺家』十八代目当主だ」
轟の目力に、あたしはやや気おされていた。
「ボクは、あきらめられないんだ!
中学の時は、もっとバカなことをしたと後悔している。
だから、ボクは君が必要なんだ!」
「ごめんなさい、できません」
悩ましい言葉、そして中学の時に聞きたかった言葉。
でもあたしは、悠に対する気持ちがあった。
徐々に強くなったこの気持ち、彼に対する思い。
轟も大人になったと思うけど、あたしは逆に子供になって、我が儘になったのかもしれない。
「やっぱり我が儘を通すけど、あたしには気になる人が……」
「彼のことですか?」
すると、轟がパーティグッズのコーナーから、少し先の化粧品コーナーを指さした。
轟の指さす方を見て、あたしは目を疑ってしまう。
「えっ、悠がなんで?」
そこには悠とあずさちゃん、二人とも制服を着て一緒に歩いていた。
あたしの中に、途端に悔しさと悲しさがこみ上げ、体が震え、胸が苦しい。
「椿、君には……」
「悠、何やっているの?」
少し離れた化粧品コーナーに、無我夢中でダッシュしたあたしがいた。
そこには、確かに悠とあずさちゃんがいた。
はっきりと手をつないでいて、恋人のようにさえ見た。
そういえば、あずさちゃん有名じゃないアイドルだけど顔はかわいいから。
嬉しそうな顔のあずさちゃんと、いつも通り落ち込んだ下を向いている悠の顔。
「椿、なにやっているのよ!早く買い物をしなさいよ」
「なんで、あずさちゃんがここにいるの?部室でメニューを考えていたんじゃ……」
「何って、見てわかんないの?皇とデートに決まっているでしょ!馬鹿じゃないの」
あずさちゃんは、勝利者のような顔を見せていた。
「皇、そんなことより、こんな馬鹿、ほっといて行きましょ。
こいつといるより、あたしといたほうがずっと楽しいでしょ」
「悠、なんで……」
「あの、長峰さんに……」
「椿、考え直してくれ!ボクと一緒につきあってくれ」
すると、背後からあたしの右肩を強くつかんできた。
大きな手、太く低く切らした声は轟のもの。
轟の声に、どうしたらいいかわからないあたしは、目に涙を浮かべていた。
「あんたなんか、皇はふさわしくないわ!
早く、行きましょう、あたしたちは忙しいのよ!」
「悠とは、キスしたんだよ!あたし」
「それがなんだっていうのよ!
あんた、ただ『破壊の皇帝』になすがままにされただけでしょ!」
あずさちゃんの、言うとおりであたしは返す言葉がなかった。
この時の悠は、ちょっと青白い顔をしていても、ただうつむいているだけ。
何も言ってくれない、何も答えてくれない。
「あんたは、何にも動いていない。彼が好きだという態度をちゃんと示していない。
そんなので、彼が好きだって言えるの?あたしのほうがよっぽど積極的よ!
ちゃんと皇のことを考えているし、あんたみたいに漠然としていないわ」
「ううっ」
あずさちゃんは言い切ったが、悠は突然あずさちゃんから手を放した。
そのまま、しゃがんで頭を押さえていた。うねり声と、震わせた体。
あたしは心配そうな顔で、悠を見守っているしかない。
「悠、どうしたの?」
「椿、ちゃんと聞きなさい、あたしの話……」
「それどころじゃないの、あずさちゃん邪魔!」
あたしは、轟の手を振り切り、彼女を押しのけてうずくまる悠に駆け寄った。
彼が、最近変な頭痛で悩まされていた。その時に決まって起きるのが、
「クサイ台詞だ」
「『破壊の皇帝』、なんでまた……」
頭痛の後に現れるのが、悠のもう一つの人格、『破壊の皇帝』。
最近誰もいない教室で、悠は一人でこの姿になっていた。
初めて見たのが、グラウンド。告白された、あの場所。
織香先生に聞かされたあとドラマのスタジオや、病院で彼を見ていた。
破壊的性格の彼は、跳ねた銀髪と赤い目をしていた。
「あ、あいつが……あの時の」
あたしの後ろにいた轟は、前に出た。
右手を強く握り、険しい顔で悠を『破壊の皇帝』をにらみつける。
「お前が椿を奪ったんだな、返せ!」
「違うな、すでにお前は椿に捨てられたんだ。わからないのは、愚か者だ」
「やめなさい、轟。こいつに、かなうわけないわ!」
あずさちゃんが、叫んだ。あずさちゃんも、『破壊の皇帝』を知っている。
しかし、興奮した轟は止まらない。大きな体の轟は、あたしのほうを見ていた。
「こんな悪そうな男と、今すぐ別れさせてやる、僕の拳で。
行くぞ、必殺『ホウホウ拳』!」
轟は素早いパンチを何発も悠に、『破壊の皇帝』に繰り出した。
しかし、悠はあわてることはなく、涼しい顔で次々と轟のパンチをかわしていく。
そのあと、口元に悪そうな笑みを浮かべていた。
「『破壊』、着物とシャツ」
すると、轟の着物が破壊され、白いシャツ姿に変わった轟。
意外とブヨブヨな、体の轟の肌が見えた。なんかものすごく、胸の毛が深いよぉ。
轟は悠に、パンチを繰り出すこともなく胸毛を両手で隠した。
同時に、轟の顔が瞬間湯沸かし器の様に赤くなっていく。
「み、見るな!」
「轟、ボウボウ」
「確かに、ボウボウね」
あたしとあずさちゃんは、同意しても唖然としていた。
轟の羞恥心が言葉でさらに刺激されて、その場にうずくまる。
あっという間に、轟は戦意を失っていた。
「次は、自慢のブリーフにするか?ここで変態を、お前はさらすことになるのだぞ」
「や、やめろ!」
「悠、もうやめて!」
だけど、轟の前にあたしが現れた。両手を広げ、立ちふさがっていた。
「じゃあ椿、俺とキスをしろ」
「えっ、何?」
「夜奈月さん、ごめんなさい。ボクは、取り返しのつかないことを」
『破壊の皇帝』の顔に、なぜか気弱な悠の顔が見えた。
その悠が、うっすらと語りかける。グラウンドと同じ、二つの悠が重なる。
「悠のこと、助けてあげる。やっぱり悠は、あたしの世話がないとダメなんだから」
思い出す、プリちゃんの言葉。普通じゃない、助けを求めている、そういうこと。
あたしは顔を硬直させ、赤くした。
赤くしても恥じらうことなく、前に、悠の目の前に進む。
彼と目と鼻の先の距離に近づいたとき、あたしは息を呑んだ。
『破壊の皇帝』の赤い目が、あたしを見下していた。それでもあたしはひるまない。
「迷わないよ、悠。あたしは悠のこと、好きだから」
あたしの言葉を聞いた瞬間、『破壊の皇帝』はにやりと笑っていた。
はっきりと固まった、自分の気持ち。浮ついた心に、まったく迷いはない。
あたしの気持ちに、四月のあの言葉に答えなければならない。
逃げても、隠れてもいけない、悠はあたしに言ってくれたんだから。
「悠が好きで、気が強いところも、気が弱いところも、全部、大好き」
あたしは、『破壊の皇帝』を、悠を抱きしめた。
「夜奈月……さん……」
「だから、悠、愛してくれて、ありがとう」
あたしは、にっこりと微笑んだ。
そのまま悠の頭をなでると、『破壊の皇帝』の跳ねた銀髪からいつものぼさぼさの髪へと変わっていく。黒くなった目、悠の目が涙でにじんでいた。
あたしの後ろでは、あずさちゃんと轟がそれを見ていた。
あたしは、人目を気にせず、悠をいつまでも抱きしめいていた。
穏やかなあたしは、気弱な少年と『破壊の皇帝』と両方が好きになった瞬間だった。