第6章 破滅の箱と儀式 ~ナシアの記憶~
ー2024年ー 埼玉県 桶川市 とある民家
『しかしこの辺り本当に何も無いな!
街灯もないから、こういう夜の時間帯は
周りが何も見えなくて歩きづらいだろ?』
「でも神さま、自然豊かでいいじゃないですか
住めば都ですよ
それに人も少なくて色々と都合が良いので」
ダークマターの影を集める任務も佳境に入り、10個目のダークマター製造分の影が全て集まった頃、あたしからも朗報があった。
念願の出産が終わり、あたしの乗り移りがついに実行されるのだ。
「神さま!あたし新しい体!楽しみです!」
『おいおい、お主一応母親だろ、
こういう時、人間っていうのは
もう少し自分の子供を可愛がるものじゃないのか?』
「世間一般ではそうかもしれませんね
でもあたしの気持ちは変わりません!
あたしの1番は神さまで
2番はあたしなんです!」
『前も言っていたな⋯⋯⋯
だから子供には興味が無いと⋯⋯
(さすがの我輩でも子供を不憫に感じるな)』
「さぁ!神さま!
乗り移りの方法をあたくしめに
どうかお教えくださいませ!」
『テンションたっけー!じゃははは!
よし、これから魂を移す事ができる特別な方法
換魂の秘儀を伝授するからな、
一つ一つ丁寧に行うようにするんだぞ』
「はい!神さま!」
『まずは部屋の中央に鏡台を用意する
鏡台では無くてもいいが机と鏡が必要になる
鏡の大きさはある程度大きい方がいいな
机の前に座って上半身が映る程度、
姿鏡くらいのサイズはほしいな』
「そういえばこの家の一階和室に大きめの鏡が⋯⋯
そうそうこれこれ、
ここに置いてと⋯⋯こんな感じでいいですかね」
時間は深夜、外は暗く近隣に民家も街灯も無い地域の為、闇夜の中、この部屋だけが明るく息づいている。
『よし⋯⋯そうしたら⋯⋯この箱を渡すぞ』
ところどころ文字の書かれた包帯のような帯の巻かれた箱が空中から這い出てくる。
机の中央に禍々しい箱が置かれた。
「なんか凄い古い箱ですね⋯⋯」
触れようと手を伸ばすと神さまに静止される。
『いいか!この箱にはまだ触れるなよ!』
「あ、はい!」
咄嗟に手を引く。
『真面目に聞くんだぞ
この箱は少し厄介な代物だが
お主のように魂を移す力を持った者には
都合のいいアーティファクトだ
細心の注意を払って扱うんだ
それと換魂の儀式は少し手順が多めだ⋯⋯
一つずつ進めていくから決して焦るなよ
他の団員もこの部屋には近づけるな
おい鵺、ナシアのサポートに入ってくれ』
「はい、神さま
ナシア様、サポートに入らせて頂きます」
シェルフドッグの頼れる大黒柱である鵺が助手に入る事で場の空気も安定するから不思議なものだ。
『よし、これから換魂の儀式を始めるぞ
まず鵺は事前に用意してもらった
ろうそくとライターを机の上に置いてくれ
それと鏡の裏側に立って箱の両脇を押さえるんだ』
鵺はろうそくとライターを机の上に置くと鏡の裏側に立ち恐る恐る箱を抑えた。
「触れて大丈夫でしょうか?」
『ああ、おそらくな
ゆっくりだぞ、ゆっくり触れるんだ』
冷静沈着な鵺が汗をかいている。
鵺はゆっくりと焦らず、優しく箱に触れた。
暫し無言が続く。
「おそらく、大丈夫なようです
体調に変化はありません」
『そうか、鵺、そのまま押さえていてくれ』
「はい、わかりました」
『これからナシアが箱の蓋を開ける
箱が開いている間は、絶対に呼吸をするな⋯⋯
ナシアも鵺も呼吸をするなよ
そして開けた箱の中に赤子を入れすぐに蓋を閉じるんだ』
あたしは誰しもが気になるであろう事を聞く。
「あの、神さま、蓋を開けている間に呼吸をすると⋯⋯
何があるのでしょうか」
『それは吾輩にもわからん⋯⋯
ただ、期待通り良い事は起きないから安心してくれ
あー、それと箱に入れる赤子は呼吸をしていても大丈夫だ
ようは生きて帰りたいなら呼吸をするな』
「ははは⋯⋯」
2人で苦笑するも、緊張感の余りすぐに真剣な眼差しとなった。
「では⋯⋯神さま⋯⋯鵺⋯⋯
箱を開けるわ、鵺は息をとめて」
あたしも息を止めながらいよいよ箱の蓋をあける。
蓋を開けた瞬間、箱の中からは尋常でない冷気が漂ってくる。
それとなんだろう⋯⋯息を止めているのに紙?本のような、それでいて古い建物のような香りがする。
箱の中は真っ暗で光が見えない。
ここは明るい部屋なのに箱の中が何一つ見えず、とても不思議だ。
あたしは泣きわめく我が子を箱の中にそっと入れる。
「あぎゃぁ!おぎゃぁ!おぎゃあ!」
部屋に響く我が子の泣き声。
あたしは無表情で箱の蓋を閉めた。
閉めると同時に赤子の声が微塵も聞こえなくなった。
『よし、ここまでは順調だな』
鵺もあたしも冷や汗が滴り落ちる。
『次いくぞ、今から5分以上、赤子を入れたまま放置する
5分後に蓋を開けて赤子を確認し
赤子がいなくなるまで開閉を続ける、何度もな
もちろん呼吸は止めておくんだぞ
ただし、赤子が消えていない時
明らかに異質な状態の赤子になっている事がある
その赤子に出会ってしまったら目を合わせず
とにかく素早く蓋を閉めるんだ』
無言で箱を見つめるあたしと鵺。
『分かったな!ナシア!鵺!』
神さまの呼びかけで我に返る。
「はい!神さま!大丈夫です!」
5分経過し、あたしと鵺はお互い見つめ合い無言でうなずく。
改めて箱に集中し、息を止め蓋を開ける。
「おぎゃあ!あぎゃぁぁ!おぎゃあ!」
部屋中に生に満ちた赤子の声が反射する。
あたしは目の前で泣きじゃくる赤子を意にも介さず箱の中を観察する。
この箱の中身は改めて見ても奇妙だ。
一体どういう構造をしているのだろう。
見た感じ闇に包まれており底が見えない。
箱の中はとても広い空間のように感じる。
しかし、赤子を置くと相応の底があり赤子を箱の中に収める事ができる。
息を止められる限り観察したいところだが一度蓋を閉め、呼吸をした。
再度呼吸を止め、蓋を開ける。
蓋を開けると赤子が大泣きしている。
蓋を閉め、再度開ける。
赤子があいも変わらず大泣きしている。
蓋を閉め、三度開ける。
赤子が鼻水を垂らしながらぐずっている。
蓋を閉め、また開ける。
蓋を開けた瞬間、妙な静けさに包まれた。
先程まで泣きじゃくっていた赤子が箱の中で静かに寝転がり、黒い目を見開き無表情であたしを凝視する。
『蓋を閉めろ!ナシア!鵺!』
神さまの声よりも少し遅く蓋を閉め始める。
蓋が閉まりゆく中、赤子は憎悪に染まったかのような視線であたしを睨む。
蓋が閉まり切る時、隙間の暗闇から赤子の凝視する目だけが見え、暗闇の中からは二筋の赤い光が放たれたように感じた。
その途端、バツン!という音と共にあたしは血まみれになる。
気付いた時にはあたしの両腕は肘から先が無くなっていて
腕の断面は爆発したように乱雑で爆ぜた状態になっていた。
「あああああ⋯⋯」
強まってくる痛みの波に怯えつつ
いずれ訪れるであろう激痛に備えるかのように、体中に力が入る。
神さまからも焦りの様子が伺える。
『くそ、やはり現れたか⋯⋯これだから破滅の箱は⋯⋯
おい!止まるな!何があっても儀式を続けるんだ!
おい!鵺!ナシアの腕を止血するん⋯⋯だ⋯⋯!
ぬぁぁぁああああああ!』
あたしは朦朧としながら次の工程に進めなければと思い鵺のほうを見つめると、本来、鵺がいた位置には誰もいなくなっている。
少し呆然とした後、鵺を探す。
「ぬ⋯⋯え⋯⋯?い⋯⋯るの?」
鏡の裏にしゃがんでいるのかと考え鏡の裏を確認すると、そこには体の大部分が消えた鵺の両足だけが残っていた。
膝から上が無くなって足だけがオブジェクトのように置いてある。
「鵺⋯⋯そんな⋯⋯神さま⋯⋯鵺が⋯⋯」
『ああ!分かってる!
(鏡台の裏にいた鵺まで巻き込まれるなんて、あり得ない!
もし災いが起きたとしても箱の前面にいる者だけに起きるはずだ)』
神さまの話を聞いていると少しずつ朦朧とし、体中の痺れと共に冷たくなってくるのを感じる。
「神さま⋯⋯血が⋯⋯止まりません⋯⋯」
『くそ、止血できないか!おい!ナシア!
目の前の黒い空間に両腕を入れろ!』
あたしの眼前に渦巻いた黒い空間が現れる。
『早く両腕を入れろ!』
あたしは倒れそうな体を踏ん張りながらも黒い空間になんとか両腕を入れる。
『入れたな!』
「はい⋯⋯か⋯⋯みさま⋯⋯⋯⋯」
『今から切断面を燃やして止血する!
死ぬほど熱いぞ!耐えろよ!』
黒い空間に入れた腕が、突然業火に焼かれる。
「うぁぁぁあああああああ!
あがあああああぁぁぁぁぁあああああ!」
生きたまま焼かれたのは初めての経験だ。
痛く熱く辛い時間をこれほど長く感じた事は無かった。
そして熱すぎる状態を過ぎると一気に冷たく感じ、途中からは痛みが薄れ気持ち楽になったように感じる。
痛みを感じなくなった事が心底恐ろしかった。
『よし、腕を抜いていいぞ!』
あたしは倒れ込むように腕を抜く。
意識が薄れゆく中、黒焦げの両腕から骨が飛び出ているのを見て「食べかけのスペアリブみたい」なんて考えてしまったのはおかしな事だろうか。
直後、あたしが気を失いかけた時、急かすような大きな声があたしに呼びかける。
『今は気を失うな!ナシア!
休むのは魂を移してからだ!』
神さまの声を聞きながらあたしは気を失ってしまった。
◇◇◇
どれほど経ったのだろう。
眠りから覚めて意識が戻りつつも、体は動かせず瞼が重くて開かない。
あれこれ考えている間にまた寝てしまった。
体が高熱になったのだろう。
何度も目覚め、失神し、目覚めを繰り返した。
ある日目覚めると、1人の団員があたしを不安そうな顔で覗き込んでいる。
「あたし、どれくらい寝ていた?」
うまく声が出ず掠れ声で語りかけると団員が涙を浮かべ応える。
「ナシア様、あれから1ヶ月経っています」
1ヶ月、想定外だ。時間を無駄にした。
「まて、1ヶ月?
腕を失っただけであたしは1ヶ月も寝ていたのか?」
「いえ、腕を失った上に止血の為に腕を焼かれましたので
肉体的にも精神的にも疲弊されてましたし
特に産後すぐでございましたので⋯⋯
一時は危篤状態でした
ナシア様は必死に耐えられまして一命を取り留められました
おかえりなさいませ、ナシア様」
危篤?そこまで危険な状態だったと?
「身の回りの世話をしてくれてありがとう
なあ、鵺の遺体はどうした?」
あたしは腕の欠損だけで済んだが⋯⋯あたしの腕も鵺の体も行方が分からない。
「現場に残っていた鵺様の足は埋葬しようとも思ったのですが
ナシア様が目覚めてから指示を頂こうと思い冷凍保存しております」
「そうか、ありがとう 引き続き冷凍保存を続けてくれ」
「畏まりました」
鵺の足は、あとで欠損部位を調べれば何か分かってくるかもしれない。
それまで保存をしておかなくては。
あたしは横になったまま神さまに語りかける。
「神さま⋯⋯いらっしゃいますか?」
珍しく静寂が続く。
「神さま?」
あたしは、何度も何度も神さまに呼びかけその日が駄目なら翌日、翌々日と、毎日1時間に一度は話しかけたが神さまからの返答は無く、あたしの腕と鵺を奪った忌々しくも恐ろしい箱はあたしの横で不気味に佇んでいた。
あの箱が恐ろしい。
あの時の赤子の凝視する視線。
捕食者の目、そう、鮫のように冷酷な目。
感情の見えない目ほど恐ろしいものは無い。
そして何より赤子の周りの空間。
あの箱の中身に少し見えた気がする。
あたしの腕が吹き飛ぶ直前、赤子の周りの暗い空間には複数の手があった。
そしてこれは憶測だが、箱が閉まりきっていない時、赤い光が飛んできた気がする。
あの手や赤い光は一体なんだったのか。
できればこの箱にはもう関わりたくない。
しかし、あたしの魂を我が子へ移す為には絶対に必須の道具なので心底困っている。
さて、神さまとこれだけ連絡が取れない事は今までに一度も無かったので
一つの不安がよぎる。
あたしが間抜けにも換魂の儀式を失敗したので
神さまはあたしに失望して去ってしまったのではないかと。
いやいや、それは絶対に無い。
神さまがあたしを見捨てる理由が無い。
「魂の乗り移り⋯⋯中々に大変だな⋯⋯はぁ⋯⋯
早く成功させなければならないが⋯⋯
神さま、どこにいらっしゃるのか⋯⋯」
ふと呟いていると側近の一人が疑問を口にする。
「あの、ナシア様⋯⋯魂の乗り移りですが
あの恐ろしい箱を使わなければいけないのでしょうか?
話を伺っている限り、その箱を使わなくても
おそらく蘇生可能な状態の遺体であれば
乗り移れそうな気がするのですが⋯⋯
例えば溺死から5分以内の遺体など⋯⋯」
「うん、神さまに聞いた感じだと
その辺りに歩いている人間に
強制的に乗り移る事もできるらしい
でもどうしても雑味が出るらしくてね」
「雑味⋯⋯ですか⋯⋯」
「例えば溺死後すぐのAさんに入る
でも溺死後ってまだ電気信号が残っているんだよ
つまりまだAさんの魂が体と結びついている状態らしい
そのAさんの魂が少しでも残っている状態で
あたしが無理やり乗り移ったとするでしょ?
そうすると、あたしとAさんが「どちらが主人格か」みたいに争い
多重人格みたいになる⋯⋯これを乗り移り成功と捕らえるべきなのか?
っていうところだよね」
「なるほど⋯⋯でも完全に遺体となるまで⋯⋯
魂が離れるまで待ってしまうと⋯⋯」
「そう、神さまが言っていたでしょ?
遺体に乗り移ると生き返った瞬間に死ぬ、って」
「はい」
「そこでこの箱らしい
この箱の中に人間を入れたら
元の持ち主の記憶や魂をリセットして空っぽ⋯⋯
いや、初期化してくれるみたい」
「それなら成人女性を入れたら初期化されるので、
ナシア様が乗り移りできるのでは⋯⋯
ナシア様がわざわざお子様を出産されて
ご自分の子を初期化して入る必要など⋯⋯」
「そこもね体の相性があるらしくてね
同じ遺伝子を分け合った肉体のほうが魂も馴染むとか」
「そうなんですね⋯⋯
あの、ナシア様、このような事失礼かとは思うのですが
この乗り移りの儀式⋯⋯大丈夫なのでしょうか?
危なくないですか?」
「ふふふ、心配かけるわね
こんな姿になっちゃったけど大丈夫よ
あたしには神さまがついているのよ?」
「いえ、余計な心配でした
でもご無理はなさらないで⋯⋯
いえ、野暮なことを申しました」
「ふふふ、ありがとう」
◇◇◇
あたしは日々不安の中、体調を整え、少しずつ以前の体調に戻していった。
毎日見守るあの恐ろしい箱。
あの中にいる我が子はおそらく既に亡くなっているだろう。
あたしが気を失っていた期間は約1ヶ月。
その時点で赤子の命の行方など安易に想像できる。
更に神さまの返答を待ち続けて既に1ヶ月以上経過している。
どうやってあの箱の中の赤子に生きている可能性を見いだせというのか。
また魂を移す為の赤子を作らなくては。
神さまがいなくては儀式も進められないし待っている間に種を植え付けておくか⋯⋯。
そう考えていると懐かしい声がどこからとも無く聞こえてくる。
『おおお!ナシア!目を覚ましたか!』
「神さま!ああ!神さま!お久しぶりでございます!」
ほら、神さまはあたしを見捨てたりしない。
これだけは絶対の絶対だ。
絶対という言葉は嫌いだが、神さまを対象にした場合は別だ。
神さまには絶対がある。
これだけは間違いない。
「神さま!心配しておりました!
ご無事なようで安心しております!」
『ああ、悪いな
ちょっと野暮用で出かけていたんだが手こずってな』
「特に問題は無いのですか?お体は大丈夫ですか?」
『じゃーはははは!
お体か⋯⋯体を心配されたのは初めてかもしれないな
なんだかこそばゆいな!
まあ大丈夫だ、ちょっと厄介な存在がいてな』
「まさか、その恐ろしい箱と関係が?」
『ん?箱?違う違う、箱は全く関係ない
吾輩を敵視するコバエがいてな』
「なっ⋯⋯!どこの誰でしょうか!
我が主に牙を向けるとは⋯⋯!
すぐにでも対処いたします!」
『焦るな焦るな、気持ちは嬉しいが問題ない
カヤという名の人間がしぶとくてな』
「カヤ⋯⋯名前からして女ですね」
『ああ、色々と干渉してきて鬱陶しいから
仲間の一人を滅茶苦茶に改造して化物にしてやった』
「おおお!さすが我が主!
その女はさぞかし悔しい思いをされた事でしょう!」
『じゃーはははは!そうだなー
あたしの友達に!なんて事を!許せない!
ってグチグチと文句を垂れていたな』
「気分爽快ですね!」
『ああ、それはさておき、ナシア
まだ換魂の儀式を続けられるか?』
あたしは神さまへ意気揚々と言葉を返す。
「もちろんでございます!
あたしは必ず赤子に魂を移して
神さまの顕現達成まで見届けますわ」
『あれだけの目にあっても、なお協力してくれるのか』
「もちろんでございます」
『吾輩は信徒に恵まれておるな』
「神さま、我々が恵まれておるのです
貴方様というお方に出会えた事が幸運であり
人生が万華鏡のように華やかになりました」
『そりゃ良かったよ ふん、ふふん、ふぅぅぅぅん♪』
神さまは嬉しい事があったりすると鼻歌を歌うけど、特に褒めた時には良く鼻歌が聴こえてくる。
神さまを褒めたり感謝するだけで鼻歌を歌ってくれるのであればいくらでも褒め称えて感謝するので、もっと鼻歌を聴かせて頂きたいものだ。
ただ、いつも何を歌っているのか気になって神さまに聞くことにした。
「神さま、たまに歌われる鼻歌ですが
あれは何を歌われているんですか?」
『んー?気になるか?
あれはなー、人間の断末魔を鼻歌にして歌っているんだよ』
「はっ、そうなんですね
てっきり何かの歌を歌われているかと思っていたのですが⋯⋯
だからいつも曲調が違うのですね」
『そうそう、人間の断末魔だから同じ曲は存在しないのさ
我々にとって、人間の断末魔は心地よく、
同時に腹を満たす糧でもあるからな』
「さすがでございます、神さま」
『じゃはははは!
ところで、今から換魂の儀式⋯⋯やれるかい?』
余りにも唐突な提案を耳にする。
今すぐに行うとは思っていなかったので心の準備ができていなかった。
しかし否応でもあの儀式を行わなければならない。
神さまの顕現だけは必ず達成しなくてはならないのだ。
この世界の導き手が我ら人間には必要だ。
「もちろんです!すぐにでも始められます!」
『よし、両腕が無くなったからやりづらいだろうし、
鵺のようにサポートを1人つける
おい、エイティ、頼んだぞ』
「くふふふ、神たま、分かったわよ!
ナシアちゃん、おひさねー!
エィティ!スナミン!華麗に降臨!
あら!ナシアちゃんったらお肌きれー!
やだー!うらやまー!」
少し特殊な人だ。
昔から変わった言動で周りからも珍しがられ悪目立ちしていた。
だが評判は上々でやる時はやる。
見た目や言動に騙されてはいけない。
こういう人間こそ、本音を隠しているものだ。
さて、引き続き換魂の儀式を進めなくては。
「エイティ、改めて宜しくお願いしますね」
「なによー!他人行儀なんてひどいわー!」
「いえ、過酷な状況に付き合わせてるから⋯⋯」
「いいのよいいのよ!そんなの気にしないで!
問題ナッシングよ!
ねぇ、神たま、あたいさ
鵺っちと同じ立ち位置でいいかしら?」
『ああ、そう、その鏡の裏側だ、
普通は鵺のような事にはならない
あれは異常事態だから安心してほしいが
そのような言葉に信を置けぬよな』
エイティが続けて言葉を発する。
「確かに安全性については懐疑的だけど、
それよりもワクワクしてるのよ
ロシアンルーレットみたいな?
スリル満点じゃなーい!
もしかしたら鵺っちみたいになっちゃうかもなんでしょー!
やばみがふかみー!」
ーーエイティ・スナミン。
彼はこういう人だ。どのような場においても人生を楽しむ。
この人は拷問や処刑をされる身であったとしてもこのスタンスだろう。
このシェルフドッグという団体に集まってくる人達のマミークラスにいる者は
ほとんどが特殊な性格や特技を持っている。
だが神さまの信頼を得ているお墨付きのメンバーだ。
神さま曰く
『団員の多くは忠義というよりも
吾輩の存在を研究対象として見ており興味が尽きないようだ
その影響もあって吾輩を対象にした観察や研究は
自身最大の秘密であり、
この組織は他の誰にも奪われず
研究を継続できるベストな環境であるがゆえ
吾輩の事を他に漏らしたくないから口も堅い
あわよくば吾輩から神託や褒美が来ぬものかと、
その折には吾輩の体や力の一端でも
目にする事ができればと、常に吾輩のことを考えておる
したたかな連中だが、それ故に信頼できる
彼らのように信念があるのは良い
だが、吾輩を性的対象として見ている者もいてな
全く、そこだけは御免被りたいものだ』
「な!そのような恐れ多い事を考えている者が!?
神さま!一体どの者ですか!」
『ナシア、お主の目の前におるぞ』
「⋯⋯え?
⋯⋯エイティィィイイイイ!!!
お前!そこになおれ!」
「やだー!なによー!
別にいいじゃなーい!
あたいが誰をどう好きになろうと
あたいの勝手よ!
そこまでナシアちゃんに介入されたくないわよー!」
「神さまに!
そのような感情を寄せるのが!
失礼だと!言っているのだ!」
「ならナシアちゃんは神たまに
そういう性的な気持ちはないのかしら?」
「無いわよ!
あたしの感情は純粋に愛と敬意!
これに限るわ!」
「とか言って~
本当は神たまの触手でぇ
あーん!神たまぁ!
だめーん!いやーん!ばかーん!
とか、いじられたい癖にぃ!
痩せ我慢するんじゃないわよ!」
「エ・イ・ティィィィイ⋯⋯!」
「あらっ、ふざけすぎたかしら!」
「お前には!
神さまへの!
忠誠心と!
敬意が!
足りない!」
「ちょっとちょっとー!
あたいの事追ってる暇があったら
儀式の続きしましょーよー!」
「お前が始めた侮辱だ!
待て!止まれ!
か⋯⋯神さま!
こんな奴を信頼しても宜しいのでしょうか!」
『じゃはははははー!
信頼しても良いと思うぞ
それに楽しいでは無いか
吾輩はナシアの新しい一面が見れてすこぶる愉快だ』
「か⋯⋯神さま⋯⋯」
あたしは少々照れくさくなってしまった。
神さまが信頼できるというのだからあたしはただただ神さまを信頼していれば良いのだ。
「ねぇ!ちょっと!ナシアちゃん!
今の今まであたいの事追いかけてたのに
急に立ち止まってどうしたのよ!
なに突然ぼーっとしてるのよ!
あたいに惚れた?
やだぁっ!あとにしてよ!
それにごめんだけど
あ・た・い!オスにしか興味ないのよ!
あんたみたいなメスのボインにはごめんなさいだわ!
許してちょっ!」
「くっ⋯⋯こいつは⋯⋯
病み上がりだから疲れただけよ
少したちくらみしたの」
エイティは腹が立つが面白い、知り合った頃は別の名を語っていた。
神さまに拝命されてからはエイティを名乗っているので以前の名前はもう忘れてしまった。
いや、思い出しそうだ⋯⋯そうだ、ドラクロワ、これがエイティの苗字だ。
フランス人らしい。
そういえば神さまからの拝命で思い出した。
鵺は拝命を最後まで断っていた。
神から授かる名など恐れ多いと遠慮して最後まで本名の斑鳩鵺を名乗っていた。
鵺が拝命されていたらどのような名前になっていたのだろうか。
「儀式前に⋯⋯少し疲れたわね⋯⋯
余計な体力を使った⋯⋯
神さま、儀式の続きを開始したいので
よろしければまたご助言をお願い致します」
『もういいのか?
吾輩はもう少し見ていたいが⋯⋯
「か⋯⋯神さま、どうかお許しを⋯⋯」
『じゃははははは
分かった分かった、では始めるか』
「あ、その前に神さま、あたしが倒れてから随分経ちます
すぐ儀式の続きと申しましても
また赤子を作らなければならないのでしょうか?」
『ん?赤子なら足りているぞ?箱の中にいるでは無いか』
「え、あれから約2ケ月ほど
放置したままにしておりますが赤子は⋯⋯まさか!」
『ああ、生きている、間違いない』
「生きている確証があるのですね
もしかして前例でもあるのですか?」
『あるぞ、少し昔の話なのだが
この箱に入った30代の男がいたのさ
興味本位だったんだろう
当時から破滅の箱やら厄災の箱やら云われてきたこの箱に
バカな事をして目立とうとする輩がいてな
その男が箱に入った後、待てど暮らせど何も起きない
箱や付近に異常が起きる訳でも無く
男が箱から出てくる訳でも無く
開けるのも不吉だしいかがなものかという事で
この箱は放置される事になった
結局箱はアテネという場所の
んーーーなんたらポリス博物館に展示される事になったんだよ
するとな、数年経った時に泥棒が入ってな
なんとその泥棒はあろう事か破滅の箱を盗む計画だった!』
「盗むならあたいのハートを盗みなさいよ!
なんて臆病な泥棒かしら!」
「愚かな人間ですね」
『愚かだ愚か!
だが愉快でもある
泥棒は破滅の箱を盗む前に
どうしても中身を見たかったんだろう
博物館の中で破滅の箱を開けたのさ
すると何が起きたと思う?』
「⋯⋯箱に吸い込まれた?⋯⋯死んだ?
⋯⋯まさか昔、箱に入った男がいた?」
『そうだ、男が出てきたんだ
男が箱に入ったのは1800年初頭だぞ!
箱が博物館に展示されたのは1860年頃で、
泥棒が箱を開けたのは1970年代のはずだ!』
「えっと⋯⋯つまり男が箱に入って再び出てくるまで百⋯⋯」
『約170年だ!その男は170年も箱の中にいたんだよ!』
「そんなに長期間⋯⋯」
『当時はな泥棒が大騒ぎしてパニックになったんだよ
そこで警備員が駆けつけ警察に通報』
あたしとエイティは話に釘付けになる。
『箱!箱から人間が出てきた!
慌てふためく泥棒は
いつの時代かも分からないような格好をした
男の出現に驚いたんだろう
警察が泥棒から事情を聞くと
”箱から突然男が出てきた” と説明を受け
警察の興味は箱から出てきた男に向いてな
そこで箱の男に名を尋ね、
男の名前で照会をかけると
170年も前に行方不明扱いになった男である事が
判明して当時は大騒ぎになったな
しかも箱の男は
今さっき箱に入ったばかりだと主張していたそうだ』
「え⋯⋯100年以上も前の人のデータが残っていたのですか?」
『ああ、詳細は知らないが何故か残っていたみたいだな
おそらく行方不明者リストのような
身元特定が必要な者用にでも残っていたんではないか?』
「破滅の箱!危なっかしいわねぇ!
エイティこわいー!きゃー!」
「しかし⋯⋯この箱は⋯⋯一体なんなんでしょうか」
『人間に災いを振り撒く呪いの箱だな』
「災い⋯⋯」
『だが災いだけでは無いぞ、腐ってもアーティファクトだ
危険なだけでいくらでも使い道がある
ただ、吾輩の所有物ではあるが
扱いに苦労する品であるのは確かだ』
「そうなのですね⋯⋯
その箱に入った男はその後どうなったのですか?」
『泥棒は謎の死を遂げたが⋯⋯
箱の男は突然老化して塵になって消滅したよ』
「やはり亡くなったんですね」
「やだ!やっぱり箱が開いてる時に呼吸したから?
死に方は違うのねぇ」
『呪いの類いだろうな
だから必ず箱を開ける時は
息を止めて明らかに異質な存在がいたらすぐ閉める
これだけは注意して、とりかかるぞ』
「はい、神さま!」
「いいわよいいわよ!ドギマギよ!
尻から汗が噴射して夜空を飛んで星になるわよー!」
『お⋯⋯おぅ⋯⋯
それじゃ続きを始めるからな
エイティは鏡の裏に立ち箱の両端を押さえろ
ナシアは箱を開け⋯⋯その腕で開けられるか?』
「はい、問題無く開けられます」
「ナシアちゃん
何かあったらあたいがサポートするわ!
冗談は抜きよ!」
「サポート助かります
間違っても呼吸だけはしないように
お互いに気をつけましょう」
『よし、ナシアは箱を開けて
赤子がいなくなるまで何度も開閉を試みてくれ
もしいなくなっていたら蓋をあけたままにして
エイティは箱と鏡の間にろうそくを立て火を付けるんだ
火が灯ったら蓋を閉めていい、手順は大丈夫か?』
あたしは小さな声で復唱する。
「いなくなるまで蓋を開閉⋯⋯
いなくなっていたら蓋をあけたまま⋯⋯
エイティが箱と鏡の間にろうそく置く⋯⋯
ろうそくに火が付いたら箱の蓋を閉める⋯⋯
ここでやっと呼吸可能⋯⋯
はい!大丈夫です!神さま!」
「あたいもおっけーよ!かみたま!」
『よし、それなら始めようか』
あたしもエイティも深く息を吸い、呼吸を止めながら蓋を慎重に開ける。
蓋を開けてすぐ、呆気にとられた。
つい声を出しそうになってしまった。
ーー赤子がいない。
エイティも驚いている。
エイティが焦らず素早く箱と鏡の間にろうそくを置きライターで火を付けようとする。
ジャッ、ジャッ、ジャッ
ライターの火打ち石が火花を散らしあっさりとろうそくに火が灯される。
あたしとエイティは目を合わせお互いに頷く中、そっと箱の蓋を閉じる。
「ぷはっ!緊張するわね!」
「ええ、でもおかげでうまくいったわ」
『二人とも上出来だ!』
「ありがとうございます、神さま」
『この後だが、少し急ぐぞ
そのろうそくの火が灯された状態で
この部屋のライトを消して暗くする
部屋の光源をろうそくの火だけの状態にするんだ』
「じゃあ、ナシアちゃん
さっそく部屋の明かり消すわよ?いいかしら?」
エイティを見つめながら無言で頷く。
パチッ
部屋のライトが消えると目が慣れようと瞳孔が大きくなっている感じがした。
部屋の真ん中にろうそくの火がほのかに灯されている。
『ここからは共同作業だ
ナシアは息を吹きかけ火を消す
エイティは消えた火を灯す
この工程を繰り返すとある現象が起きる』
「ある現象⋯⋯」
『今、目の前にろうそくが1本あるな?
だが、エイティが灯したろうそくと
鏡に反射したろうそくも含めれば2本見えているはずだ』
「はい、あります」
「うん、あるわね」
『ろうそくの火を何度も灯すと
2本あるろうそくが1本になる時がある』
「つまりろうそくが反射しなく⋯⋯なる?」
『ああ、反射しないどころか
その鏡を境界にして周りに何もなくなる
吾輩が虚無の空間と呼んでいる場所に繋がった状態だ
つまりそのテーブルとろうそく、破滅の箱、
そしてナシアが別空間に行く事になる』
その状態になるとあたしはこの世からいなくなるらしい。
だからあたしからすれば目の前からエイティも消えるそうだ。
「なんか怖いわね!ゾクゾクするわ!」
『必要な手順だから我慢してくれ』
「わかりました神さま、さっそくやりましょう」
「やだー!ナシアちゃん、鬼メンタルゥ!」
あたしはろうそくの前に口を運び息を吹きかけると暗闇が訪れる。
すかさずエイティが火を灯す。
鏡にはろうそくと破滅の箱とあたしが映っている。
少しだけ緊張する中、同じ工程を続ける。
ふぅ⋯⋯
しゅぼっ
ふぅ⋯⋯
しゅぼっ
何度も鏡にはろうそくと箱とあたしが映る。
「暗い空間って、より静かに感じるわねぇ⋯⋯」
エイティの声が響く。
ふぅ⋯⋯
しゅぼっ
「きゃあ!ナシアちゃん後ろ!」
エイティの声に釣られて咄嗟に後ろを振り返るも何も無い。
「ちょっと、エイティ、冗談で驚かせないで」
「本当にいたのよ!おかしいわよ!
今いたもの!小さい女の子!」
やはり周りを見回しても何も見当たらない。
「エイティ、続けるわよ」
「本当なのよ!いたわよー!え?あたいの見間違い?
そんな事無いわよ、確かに見たもの!」
「エイティ、集中して儀式続けるわよ」
「だってぇ⋯⋯」
あたしはろうそくに顔を近づけ
息をふきかけようと机に手を置くとあたしの半分欠損した右手を干からびた手が掴んでいた。
「んっ!なに!」
突然の事で驚いた。
今、確かにミイラのような手があたしに触れていた。
「ほらっ!やっぱりおかしいわよ!」
確かにおかしいかもしれない。
でもだからなんだ。
換魂の秘儀と云われる儀式なのだから何が起きてもおかしくない。
あたしはまたろうそくの火を消す。
エイティが恐る恐る火を灯す。
シュボッ
ーー目の前には1本の灯されたろうそくが現れた。
目の前の鏡にはろうそくもあたしも反射していない。
いや、鏡が無い。
それどころかここは部屋の中心に鏡と机を置いているはずなのに、机とろうそくと箱とあたし以外、周り全てが暗い世界に変貌している。
エイティもいつの間にか消えてしまった。
部屋の壁や天井、シーリングライトや庭へ続くガラス戸も無くなっていて何もかもが無く、どこまで続くのか分からないような闇の空間が辺り一面に広がる。
地面は黒い岩肌のようにゴツゴツとし乾ききった表面をしている。
どこまでも続いていそうな暗闇が静かに蠢く事がある。
分からない、奥を見つめても真っ暗で何も見えないはずなのに、暗闇の中を何かが蠢いているように見える。
感覚的に分かる、と言えば良いのだろうか?
そして暗闇の奥を、誰かが走る音が聞こえてくる。
ヒタッヒタッヒタッヒタッ
あたしの前や左側を走ったと思ったら後方から足音が聞こえる。
タッタッタッタッ
足音がピタリと止まった。
今、後ろに何かがいる気がする。
「ドウカ ワタシ ノ ムスコ ダケ ハ
タスケテクダサイ
ドウカ オネガイ シマス
ワタシ ハ ドウナッテモ イイカラ
⋯⋯イイエ ダメデス
⋯⋯ワルイ ケド ミンナ ササナイト
ヤメテ ヤメテ ヤメテ ヤメテ」
あたしの後ろから禍々しい声が聞こえてくる。
ぴちゃり
あたしの肩に何か液体が落ちた。
あたしの生唾を飲む音が響く。
勇気を振り絞ってゆっくりと振り返る。
『振り返るなよ!』
途端に神さまの声が脳内に響きわたる。
「神さま!
嗚呼、神さまとは会話ができるのですね!」
『ああ、神だからな』
「良かったです!安心しました!」
『今、ナシアがいる空間では極力周りの何かと干渉するなよ』
「何かいますよね⋯⋯
あたしの幻聴とかでは無いですよね」
『ああ、後ろにいるし、前方の暗闇の中にも潜んでいるな』
あたしは呼吸を整え神さまへ問う。
「⋯⋯後ろにいる何かは、見えていますか?」
『いるが、見えている訳では無い
こいつら、姿を隠すのがうまくて吾輩でも見えにくいわ
とにかくその空間に長居するのはおすすめしない
すぐ次の工程に入るべきだろう』
「はい、わかりました」
「はい、ワかりマシタ」
「ハい、わカリマした」
この空間にはあたししかいないはずなのに
あたしの声に重ねるように複数人の声が聞こえてきた。
さっきあたしの後ろにいた何かとかだろう。
ーーと同時にふいに呼吸ができなくなった。
いくら息を吸っても真空パックにでも詰め込まれたように呼吸ができない。
そもそもこの空間に酸素という概念が存在するのかさえも怪しいところだ。
「くかっ!あっ!かっ!」
まずい、声も出せないから神さまに状況を伝えられない。
神さま⋯⋯次の⋯⋯ご指示を⋯⋯。
『ん?どうしたナシア
⋯⋯息ができないのか!おい!
次の工程を終わらせればこの空間を出られる!
すぐに箱の蓋を開けろ!
蓋を開けたら意識の無い赤子が入っているはずだ!
その赤子に触れるんだ!』
あたしは息ができない中、目を見開き箱に近づく。
息をしようとしても酸素が1ミリも入ってこない。
突然呼吸ができなくなり、肺に十分な酸素を満たす時間も無かったから、今すぐにでも倒れそうだ。
極限まで呼吸ができなくなると意識を失ってしまう。
倒れる前に⋯⋯早く⋯⋯箱を開けなくては⋯⋯。
決死の思いで箱を開けるとそこには意識の無い赤子がいた。
「もう⋯⋯だめ⋯⋯意識⋯⋯が⋯⋯」
あたしは箱に倒れ込んだ。
もう駄目だ。
体がもたない、これ以上は動かない。
しかし不幸中の幸いか、倒れ込んだ拍子に体の一部が赤子に触れたのだろう。
「かひゅ!かはー!かはー!」
気がつくと箱の中で呼吸ができている。
「これは⋯⋯箱の中?」
声がうまく出せない。
あたしは赤子に入る事ができたのだ。
『魂を移せたな!ナシア!仕上げだ!
箱の蓋を閉めて頭の中でこう唱えろ!
ニ ミッツトラ トラ!』
あたしは神さまの言う通りに赤子の体でなんとか箱の蓋を閉め、心で復唱した。
ニ ミッツトラ トラ(あなたに捧げます)
『よし、唱えたな!
そのまま物音を立てずに待つんだ!
合図を出すまで動くなよ!』
スプラッターホラーで殺人鬼が追ってくる最中、ベッドの下に逃げ込み、息を潜めるヒロインのように静かにひっそりと箱の中で待機し聞き耳を立てる。
暫く待つと箱の外でボソボソと話し声が聞こえてきた。
すると何かを引き摺っていく音が聞こえ話し声も聞こえなくなり静かになる。
遠くから悲鳴のような声が聞こえる。
悲鳴とは別に男の声が聞こえてきた。
「待って、待って待って待って!やめっ!
ああああああああ!ちょっ!あ⋯⋯」
また静けさが戻った。
神さまからの合図はまだ無い。
5分ほど経過しただろうか、箱の上部から優しい音が鳴る。
コン コン コン
この箱を外からノックする音だ。
あたしが困惑する中、神さまが合図を出す。
『エイティ、もう箱を開けていいぞ』
箱の蓋が開き眩しいシーリングライトの光が箱の中に降り注ぐ。
『成功だな』
あたしは力強く抱きかかえられる。
「やったわよー!ナシアちゃん!
急に机ごと消えてびっくりよー!
それに魂移せたじゃないー!ナシアちゃんよね?
ナシアちゃんなら首を縦に振ってちょうだい!」
あたしは頷く。
「凄いじゃないー!きゃーー!神たま、ありがと!
ナシアちゃん守ってくれて!」
『吾輩にとってもナシアの換魂は重要な一大イベントだからな
協力して当たり前だ』
「やだー!神たまったらイケメーン!
どこにいるか分からないけど、えい!
悩殺ウィンク!悶絶キッス!
んーーーーーーまっ!」
『おい⋯⋯悶絶するからやめろ⋯⋯』
あたしはなんとか魂を移す事ができた。
それにしても部屋を見回すとあたしの元の体が綺麗に無くなっている。
きっとあの空間に置いてきた⋯⋯いや、何かに持っていかれたのだろう。
それにしても大人だった体から赤子の体に入るというのはとても奇妙な体験だ。
四肢の長さや可動域が違うので体の操作感覚が全く違う。
関節が柔らかい。
それと頭が異常に重たい。
この不便な体に慣れていかなければ。
しかし⋯⋯この魂を移す儀式を30~40年に一度は行わなければならないのは中々スリリングな人生だ。
今回はなんとか換魂が成功したが神さまの顕現のその時まで
しっかりと魂を繋いでいけるだろうか。
少々不安な部分もあるが、やるしかない。
神さまも協力してくれているのだからなんとかなるだろう。
ただ、鵺は既に亡くなってしまいエイティだっていつかは亡くなる。
信頼できる友がこれからも現れる保証は無い。
なんとかしなければいけない。
課題は多いが一旦は今の成功を噛み締めて次の課題や目標を一つ一つこなしていこう。
「んふふー、ナシアちゃん、安心してぇ!
あたいみたいな素敵なレディーに育ててあげるわよーっ!
まずレディーは青ひげが命よ!
アゴと口周りに毎日育毛剤塗ってあげるわよ!
楽しみにしてらっしゃい!
んーーーーーーーーまっ!」
⋯⋯別の意味で不安だ。
読んで頂きありがとうございました。




