第六話【王都】
馬車が規則正しく揺れている。
リオンは座席に身を預けながら窓の外を眺めていた。
グラディウス領を出てからもう五日が経っていた。
緑の丘陵、点在する村、街道沿いに広がる小麦畑。
王都グランディアへの道は思いのほか長い。
馬車の御者は寡黙な中年の男で、ほとんど言葉を発さなかった。
リオンもそれで構わなかった。
一人の時間が思考を整理してくれる。
懐の中に手を入れる。
母エレナが出発前にこっそり手渡してきた小さな包み。
開いてみると、手作りの干し菓子と短い一筆。
『無理をしないこと』
リオンの口元がほんの僅かに緩んだ。
(母上らしい)
干し菓子を一つ口に含む。
ノエルが馬車を見送りながら、泣きそうな顔で手を振っていた光景が脳裏に蘇った。
──地球時代には知らなかった感覚だ。
家族との別れがこれほど心を重くするものだとは。
しかし、それを「悪い」とはもう思わなかった。
リオンはゆっくりと目を閉じた。
馬車の揺れに身を任せながら、体内魔力を静かに巡らせていく。
地球の数百倍の密度を持つ新たな力。
旅の間もリオンの修練は止まっていなかった。
* * *
七日目の午後。
街道は深い森の中へと差し掛かっていた。
王都グランディアまで、あと一日。
森を抜ければ見晴らしの良い平原に出る。
そこから先は、王都までほぼ一直線の道だった。
リオンの瞼がふっと開いた。
何かが変だった。
体内魔力が僅かに乱れる感覚。
研ぎ澄まされた武術家の勘が警告を発していた。
「……止まれ」
リオンが御者に声をかけた。
「は?」
「馬車を止めてください」
御者が戸惑いながらも手綱を引いた。
馬車がゆっくりと停止する。
リオンは馬車から降り立った。
腰には父オーガストから贈られた家門の剣。
森の中は静かだった。
──静かすぎる。
鳥の囀りも、虫の音も聞こえない。
森が息を潜めている。
「お客様、何か……?」
御者が不安げに尋ねた。
リオンは答えなかった。
ただ、街道の前方をじっと見据えていた。
その方向から何かが近づいている。
複数。
そして、一際大きな、何か。
「……御者殿」
リオンが静かに告げた。
「馬車を後方へ。森の道を逆に戻ってください」
「え? いや、しかし──」
「急いでください」
リオンの声に御者がはっとした。
何かが迫っている。
それを明確に察知した若い貴族の眼。
御者は慌てて馬の向きを変え始めた。
その時。
街道の前方の森がざわついた。
茂みが大きく揺れる。
──そして、姿を現したのは一匹のオーガ。
二メートルを超える灰色の巨体。
額から伸びた太く曲がった一本の角。
腰には人間の頭ほどもある棍棒を提げていた。
そして、その後ろから続々と──ゴブリンが十数匹。
オークが四匹。
森の魔物の群れが街道に溢れ出てきた。
「ひっ……!」
御者が悲鳴を上げた。
魔物たちがぎょろりとした目を馬車に向ける。
血走った目。
涎を垂らす口。
明らかな襲撃の意志。
しかし、リオンは動じなかった。
ただ家門の剣の柄に軽く手を添えた。
(この程度なら)
体内魔力を静かに、しかし確実に練り上げる。
その瞬間、街道の奥から別の馬車が現れた。
──豪奢な馬車だった。
白い装飾、金色の家紋。
護衛の騎士たちが八人ほどで周囲を固めている。
その馬車もまた、突然の魔物の群れに行手を阻まれていた。
「な、なんだこの数は……!」
「魔物の群れがこんなところに……!?」
「お嬢様を守れ!」
護衛の騎士たちが一斉に剣を構える。
魔物の群れは、二つの馬車を挟み込むような位置取りで殺到し始めた。
リオンの眼が向こうの馬車の窓をほんの一瞬捉えた。
窓越しにこちらを見つめる、輝くような金髪の少女。
その姿にリオンは──ほんの僅かに覚えがあった。
ヴァルディア王国の有力公爵家。屈指の名門貴族。
その家紋。
(公爵家の馬車か)
リオンはゆっくりと剣の柄を握り直した。
(放っておくわけにはいかないか。)
体内魔力を武の動きに乗せていく。
* * *
「《武具強化》──」
磨き上げた武の動き。
そして、この異世界の桁違いの魔力。
その融合が刃に宿る。
リオンは地を蹴った。
歩法・縮地。
次の瞬間、最前列のゴブリンの真横に立っていた。
刃が一閃。
ゴブリンの首が宙を舞った。
「──!?」
護衛の騎士たちが目を見開いた。
「な、なんだあの動きは──!?」
リオンは止まらなかった。
二匹目、三匹目──。
刃が翻るたびに、ゴブリンが次々と地に伏していく。
オークの一匹が、巨大な棍棒を振り下ろしてきた。
リオンは、半歩踏み込んだ。
棍棒の振り下ろしを潜り、オークの懐に入る。
そして、剣の柄頭でその鳩尾を軽く突いた。
オークの巨体はまるで紙のように吹き飛び、森の樹に叩きつけられた。
「あ、ありえない……」
護衛の騎士が呆然と呟いた。
リオンは振り返ることなく、次の魔物へと向かっていく。
オーガが太い咆哮を上げた。
最後の砦として、棍棒を振りかぶる。
その正面に静かに立っていた。
オーガの棍棒が空気を切り裂くように振り下ろされる。
リオンは避けなかった。
──魔剣を上段に構え、垂直に振り上げた。
金色の刃が棍棒を根元から斬り裂いた。
そして、その刃は勢いを止めることなく──
オーガの巨体を、肩から腰へと斜めに斬り裂いていた。
ドサッ。
巨体が二つに分かれ、地に倒れる。
街道に静寂が訪れた。
護衛の騎士たちは唖然と立ちつくしていた。
豪奢な馬車の中の少女も、誰もがただリオンを見ていた。
たった数瞬の間に、群れの魔物がすべて地に伏していた。
それを成し遂げた一人の少年が、刃を下げ静かに息を吐いた。
──と、その時。
リオンの背筋に冷たいものが走った。
体内魔力が激しく警告を発する。
前世に幾度も経験した、本物の「殺気」。
これは先ほどの魔物の群れとは次元が違う。
リオンは、ゆっくりと街道の奥に視線を向けた。
森の闇の中から──
ひとつの影が、ゆっくりと姿を現した。
* * *
長身。二メートルに届くほどの体格。
灰色の肌。
額に伸びる二本の鋭い角。
金色に光る瞳。
漆黒のローブを纏い、腰には湾曲した黒い短刀を提げている。
人間ではない。
しかし、姿は限りなく人に近い。
「……魔人」
初めてその名を口にした。
末弟の記憶の中にも神崎武の記憶の中にも、本物の魔人を見た経験はない。
しかし、本能で分かった。
これが、この世界で「魔人」と呼ばれる種族なのだと。
魔人はリオンと地に伏した魔物たちをゆっくりと見渡した。
そして、興味深そうに口角を上げた。
「……ほう」
低く響くような声。
「貴様、人間か」
リオンは答えなかった。
ただ、剣を構え直した。
体内魔力が緊張で締まる。
──強い。
ひと目で分かった。
これまで戦ったどの相手とも、格が違う。
ヴィクトルの本気でも、ここには届かない。
長兄も、エルマーも、家門の剣士たちも──
すべて、目の前の魔人の足元にも及ばない。
魔人がゆっくりと一歩踏み出した。
それだけで、街道の空気がずしりと重くなる。
護衛の騎士たちが思わず後ずさった。
「な、なんだ、あいつは……」
「魔力の質が、人間じゃない……!」
魔人はリオンにまっすぐ、歩み寄ってきた。
護衛の騎士は、まるで眼中にないかのように。
ただ一点、リオンだけを見ていた。
「魔物を倒したのは貴様か?」
魔人が問う。
「……そうだ」
「ふむ」
魔人は、リオンの全身を舐めるように見た。
「人間にしては──興味深い動きだ」
魔人の眼がすうっと細まった。
「少し、試させてもらおう」
その瞬間。
魔人の姿が消えた。
リオンの目には、捉えきれなかった。
咄嗟に剣を上段に構えた。
ガキィッ。
金属が衝突する音。
間一髪で魔人の黒い短刀を押し止めていた。
二人の距離は、ほんの数センチ。
魔人の金色の瞳が、すぐ目の前にあった。
「ほう──受けたか」
魔人が笑った。
リオンは答える余裕がなかった。
腕に、これまでにない圧がかかっている。
武を磨いてきた身体が軋む。
これは──ヴィクトルの奥義級魔法を斬り裂いた時よりも遥かに重い。
「貴様、面白いな」
魔人が囁いた。
「人間の中に、まれにいる。器の違う者が」
ぐっ、と短刀にさらに力が籠る。
リオンの足元の石畳に亀裂が走った。
しかし、リオンは引かなかった。
体内の魔力を両腕に極限まで集中させる。
「《武具強化》──金剛」
刃の輝きが増した。
魔人の短刀をほんの僅かに押し返す。
それを見て、魔人は嬉しそうに笑った。
「ほう、ほう──」
しかし、次の瞬間。
魔人はふっと力を抜き、後方へと跳び下がった。
リオンも思わず身構えながら、息を整える。
額に薄く汗が浮いていた。
「気に入った」
魔人がゆっくりと告げた。
「だが、今日の役目は済んだ」
「戦いはここまでだ」
魔人は漆黒のローブを翻した。
「貴様、名は」
問われて、リオンはしばし沈黙した。
そして、静かに答えた。
「リオン・グラディウス」
「リオン・グラディウス──覚えておこう」
魔人の口元が僅かに歪んだ。
「魔王軍、序列六位。私の名は、ナイア」
その言葉に、リオンは僅かに眉を上げた。
──魔王軍。
数百年、姿を見せていない大陸の脅威。
それが、なぜ──こんな王都の手前の街道に現れる。
「この世界が、また動き始めている」
ナイアと名乗った魔人が、空を仰いだ。
「貴様のような者が現れたのも、その兆しだろう」
「いずれ、また会うことになる」
そう告げるとナイアの姿は森の影に溶けていった。
そして、静寂が戻った。
リオンはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
魔人の残した気配が、まだ肌に纏わりついている。
体内魔力が未だに警鐘を鳴らしていた。
(魔王軍、序列六位──)
剣をゆっくりと鞘に納めた。
(今の俺では押し切れない)
(あの男を本気で倒すには、まだ足りない)
五十年、ひたすらに武を磨いてきた。
その中で初めて「届かない」という感覚を与えた相手。
それが、人間ではない──魔人だった。
リオンの口元に微かな笑みが浮かんだ。
しかし、それは絶望ではなかった。
──新たな目標を見出した者の笑み。
(武の極み──人間の限界を超えた先)
(その先には、こういう世界が広がっているのか)
静かに息を吐いた。
「……あ、あの!」
背後から声がかけられた。
リオンが振り返ると、豪奢な馬車から一人の少女が降り立っていた。
輝くような金髪。
上品な貴族の衣装。
そして──大きな碧の瞳。
少女は護衛騎士たちが慌てて止めるのも構わず、リオンに駆け寄ってきた。
「助けてくれて、ありがとう!」
少女が息を切らせながら告げた。
そして、満面の笑顔を浮かべた。
「わたしはリーゼロッテ・アスカルディア。リズって呼んで!」
「……アスカルディア」
リオンはその名を口の中で繰り返した。
末弟の記憶が告げる通り、王国屈指の名門公爵家。
その公爵令嬢が自分の眼の前に立っていた。
「あなた、お名前は?」
リズが首を傾げて尋ねてきた。
「……リオン・グラディウスです」
「リオン!」
リズの瞳がぱっと輝いた。
「あの動き、すごかった!」
「魔物の群れも、それから──あの魔人と互角に渡り合うなんて」
「あなた、何者なの?」
リオンはしばらく、リズを見つめていた。
このお嬢さんは、先ほどの魔人の脅威をまったく理解していないわけではなさそうだった。
ただ、それでも──
護衛も含めた誰もが震えていた中で、彼女だけがこうして駆け寄ってきている。
「ただの、王立魔法学院の新入生です」
リオンが簡潔に答えた。
「えっ?」
リズの目が丸くなった。
「学院に──入学するの?」
「……はい」
「ふふ……ふふっ」
リズは口元を押さえた。
そして、堪えきれないように笑い出した。
「わたしも、学院の新入生なの!」
「これからよろしくね!リオン!」
リオンは思わず、首を傾げた。
──変わったお嬢さんだ。
つい先ほどまで、命の危機にあったはずなのに。
魔物の群れ、そして魔人。
その恐怖をもう振り払ったかのように、笑っている。
「リズ様、まずは王都へ──」
護衛騎士たちが、後ろから慌てて声をかけた。
リズは軽く手を振って、彼らを制した。
「分かってる、分かってる」
そして、リオンの方をもう一度見上げた。
「リオン。あなた、馬車は無事?」
「ええ、こちらの馬車は無傷です」
「じゃあ、一緒に王都まで行きましょう」
「魔物がまた出るかもしれないし、二台で行ったほうが安全だわ」
リオンは軽く頷き答えた。
「確かにまだ安全とも限りませんね。」
「では、お言葉に甘えて」
「ふふ、よかった!」
リズが嬉しそうに微笑んだ。
* * *
王都グランディアの城門前。
二台の馬車がようやく辿り着いた頃には、夕方になっていた。
巨大な石造りの城門。
ヴァルディア王国の紋章入りの旗が、夕風に揺れている。
白銀の鎧を纏った騎士たちが、整然と門前を固めていた。
「うわぁ……何度見てもすごい門ね」
隣の馬車から降り立ったリズが、空を仰ぐようにして呟いた。
「リオン、王都は初めて?」
「ええ」
リオンは短く答えた。
「わたしは何度も来てるけど、いつもこの城門で気持ちが引き締まるの」
リズはリオンの顔を、ちらりと覗き込んだ。
「あなたは──あんまり驚かないのね」
「……それなりに見惚れていますよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに、です」
リズがくすくすと笑った。
「リオンって、顔にあまり出ないから分かりにくいの」
「努力します」
「ふふ、努力しなくていいわ。そのままで」
* * *
馬車が王都の大通りに入っていく。
煉瓦造りの建物。
魔石の街灯が、夕闇の中で淡く灯り始めていた。
露店に並ぶ見たことのない魔道具。
行き交う人々の装いも、グラディウス領とはまるで違う。
「ここ、目抜き通り。商人街よ」
リズが車窓を指差した。
「右側がアスカルディア家御用達の店。左側が、最近王都で流行ってる魔道具屋さん」
「……詳しいですね」
「王都には親戚が多いの」
リズの言葉に、護衛騎士の一人が思わず口を挟んだ。
「リズ様、お店を片っ端から覗いて回るのがご趣味でして……」
「もう、ハンス! 余計なこと言わないで!」
「は、申し訳ありません」
リズがぷくりと頬を膨らませる。
リオンの口元がほんのわずかに緩んだ。
──公爵令嬢がこんな顔をするとは。
「あ、リオン、今、笑った?」
「……いえ」
「絶対、笑ったわ!」
「気のせいです」
「もう、リオンは素直じゃない」
リズがちょっと拗ねたように腕を組む。
しかし、その目は楽しそうに輝いていた。
馬車がしばらく進む。
「ねえ、リオン」
リズがふと声音を落とした。
「……さっきの魔人。あれって、本当にまた会うことになると思う?」
リオンはしばし、窓の外を見つめた。
夕日が王都の屋根を、橙色に染めている。
「ええ」
「……そっか」
「ナイアは気まぐれで現れたわけじゃない」
リオンが静かに続けた。
「あの魔人は何かを確かめに来たんだと思う」
「何を……?」
「それは分かりません...」
リズはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「ねえ、リオン」
「はい」
「わたしね、ずっと思ってたの。お姫様って守られるばっかりで、つまらないなって」
「……」
「絵本のお姫様は塔の上で王子様を待つだけ。歴史書のお姫様は、政治の道具」
リズの声に、僅かな熱がこもる。
「でも、わたしはそれじゃ嫌なの」
「……」
「だから、学院に来たの。魔法をちゃんと使えるようになるために」
リオンは思わず、リズの顔をまっすぐに見た。
その瞳の奥に、確かな意志が宿っていた。
「……あなたは」
「うん?」
「変わった方ですね」
「ふふ、二度目よ、それ」
リズが嬉しそうに笑った。
「でも、悪い意味じゃないのよね?」
「……ええ。むしろ──」
「むしろ?」
「──頼もしい、と思いました」
リズの頬がふわっと赤くなる。
「もうっ、リオンっていきなりそういうこと言うんだから」
「失礼しました」
「謝らなくていいわよ!」
リズは慌てて手を振った。
「もう、本当に変な子……」
そう呟きながらも、その口元はずっと緩んだままだった。
* * *
セルヴァティオ王立魔法学院。
ヴァルディア王国最高峰のエリート魔法使い育成機関。
その校舎は王都の北側、丘の上に建てられていた。
リオンは入学手続きを済ませ、寮舎へと案内された。
質素なベッド、机、椅子だけの自室。
しかし、リオンには十分だった。
窓辺に立ち、外の中庭を眺める。
放課後の生徒たちが楽しそうに行き交っている。
──と、ふと遠くの校舎の窓辺に、見覚えのある姿を見つけた。
白髪、質素な濃紺のローブ。
家門の試験で出会った、リューゲン師。
老人はこちらを見ていた。
二人の視線がしばらく交わった。
リューゲンが僅かに頭を下げた。
リオンも深く頷き返した。
リオンは窓辺から離れ、ベッドに腰を下ろした。
懐から家門の剣を取り出す。
ナイアと打ち合った刃には、わずかな刃こぼれが残っていた。
魔人の力が、それだけ凄まじかったということ。
リオンは刃をゆっくりと撫でた。
明日からは、いよいよ学院での生活が始まる。
入学初日の実技試験。
新たな同期生たちとの出会い。
そして──
(魔王軍、か)
胸の奥に前世では知らなかった、新たな感情が宿っていた。
それは焦りではない。
恐怖でもない。
ただ、純粋な──探究心。
「強くならなければならない」
リオンは小さく呟いた。
魔人を倒せるほどに。
そして、その先にいるであろう、もっと強大な何かを見定めるためにも。
剣を再び鞘に納める。
明日から王都での日々が始まる。




