第五話【決勝】
短い休息を挟んで。
闘技場の中央に、二人の人影が立っていた。
リオン・グラディウス。
そして、長兄ヴィクトル・グラディウス。
家門最強の魔法剣士と謳われる青年。
家門の希望と誰もが信じていた男。
その男が今、末弟と相対して立っている。
観客席は、これまでとは違う重苦しい静けさに包まれていた。
つい一刻前まで「決勝戦は兄弟同士で決まり」と信じられていた言葉が、別の意味で実現した今。
闘技場全体の空気は、まるで嵐の前のように張り詰めていた。
「兄弟同士の決勝──」
「家門最強の長兄と、突如台頭した末弟──」
「これは、本当に、歴史に残る試合になる」
観衆のささやきを、ヴィクトルは聞いていなかった。
ただ、目の前のリオンだけを睨みつけていた。
その眼に宿るのは、四日前から積み重なった隠しきれない憎悪。
そして、つい先ほどエルマーの最強魔法が真っ二つに斬り割られた瞬間に芽生えた、ある別の感情。
──恐怖。
しかし、ヴィクトルはその感情を認めなかった。
次期党首と謳われた自分が、末弟ごときに恐怖などありえない。
そう、自分に言い聞かせていた。
「……リオン」
ヴィクトルが低い声で告げた。
「お前が、ここまで来るとはな」
「だが、ここまでだ」
「お前の小細工が、この俺に通用するとは思うな」
リオンは何も答えなかった。
ただ、自然体に立ち、長兄をまっすぐに見つめていた。
その瞳には、もはや敵を見る目もなかった。
ただ、深い静けさだけが宿っていた。
「……兄上」
リオンが静かに告げた。
「私は、あなたを倒すためにここに立っているのではありません」
「家門の希望を奪うつもりもない」
「ただ──」
リオンの声が僅かに低くなった。
「あなたの傲慢を打ち砕くだけです」
ヴィクトルの眉がぴくりと動いた。
「ふざけるな……ッ!」
ヴィクトルは、腰の魔剣を勢いよく抜いた。
刃に青白い風属性の魔力が渦を巻いて宿る。
家門に代々伝わる最高級の魔剣。
末弟の安物の練習剣とは、比べ物にならない名剣。
「俺の本気を、お前ごときが受け止められるものか──!」
ヴィクトルの全身に、風属性の魔力が満ちていく。
それは、これまでヴィクトルが見せてきた魔法とは比較にならない密度。
秘めていた、本当の力。
「《エアロブレイド・グレイル》!」
無数の風の刃が、ヴィクトルを取り巻くように生み出された。
それぞれが、人間を真っ二つに切り裂ける鋭さを持つ刃。
合計、十数枚。
それが、リオンに向かって一斉に放たれた。
闘技場全体に、空気を切り裂く音が鳴り響く。
シャアアアッ、と無数の刃がリオンへと殺到する。
観衆の誰もが、その光景に息を呑んだ。
「ヴィクトル様の本気だ……!」
「あの数の風刃を、どう防ぐ──!?」
しかし、リオンは──
その瞬間、腰の練習用魔剣をすらりと抜いた。
《武具強化》──。
その輝きの密度が一段と増していた。
戦いの中で、リオンの体内魔力は確実に研ぎ澄まされている。
「《武具強化》──金剛」
リオンの呟きと共に、金色の刃が僅かに振るわれた。
ただ、それだけだった。
──しかし。
次の瞬間。
殺到していた十数枚の風刃が、すべて消えていた。
宙で散り、霧散していった。
何が起きたか、観衆には分からなかった。
ただ、リオンの剣が一瞬の閃光を残しただけ。
「な──」
ヴィクトルが息を呑んだ。
「俺の風刃を、一振りで……!?」
リオンは答えなかった。
ただ、剣を構え直し、静かにヴィクトルを見据えていた。
「兄上、もう一度言います」
闘技場に静かに響いた。
「私は、あなたを倒すために来たのではない」
「ですが、その本気を見せていただける限り──私も本気で応えます」
ヴィクトルの顔が屈辱に歪んだ。
「黙れ、リオン風情が──!」
ヴィクトルは両手で魔剣を握り直した。
そして、刃にこれまでの倍以上の風魔力を注ぎ込んでいく。
刃が青白く煌々と輝く。
風の渦が、ヴィクトルの周囲を回転しながら膨れ上がっていく。
家門の中で、ヴィクトルが習得した最強の奥義級魔法。
これまで誰にも見せたことのなかった彼の切り札。
「《グランド・テンペスト・ブレード》!」
巨大な竜巻が、ヴィクトルの剣から放たれた。
それは、人を巻き込めばばらばらに引き裂く威力。
闘技場の地面を抉り、観客席の手前まで暴風が及ぶ。
観衆が悲鳴を上げて身を伏せた。
「あれを、まともに受けたら──!」
しかし、リオンは──
竜巻に向かって、一歩踏み込んだ。
そして、また剣を振り下ろした。
次の瞬間。
ヴィクトルの放った巨大な竜巻は──
縦に、真っ二つに斬り裂かれていた。
裂け目から暴風が左右に散る。
闘技場の中央には、リオンが静かに立っていた。
何事もなかったかのように。
「……あ、ありえない……」
ヴィクトルが後ずさった。
「俺の……俺の奥義が……」
リオンがゆっくりと前へ進んだ。
歩法・縮地。
地球で五十年磨き上げた、間合いを瞬時に詰める技。
その動きに強化系の魔力が乗る。
──次の瞬間、リオンはもうヴィクトルの目の前に立っていた。
「……っ!」
ヴィクトルは咄嗟に魔剣を振り上げた。
しかし、剣は空を切った。目の前にはリオンはもういなかった。
一瞬にして背後に回り込んでいた。
首筋への手刀──。
ヴィクトルは地面に倒れたまま、動けなかった。
魔剣が彼の手から離れ、地面にからんと音を立てて落ちた。
闘技場全体が凍りついた。
家門最強と謳われた長兄が、たった一動作で地に伏した。
それも──末弟の手刀一振りで。
「……勝者、リオン・グラディウス」
老臣の声が震えながら告げた。
その声に、観衆はしばらく反応できなかった。
理解が追いついていなかった。
──次期党首の長兄が、敗れた。
──家門の希望が、末弟に打ち倒された。
──そして、新たな代表が、今、ここに立っている。
その事実が、観衆全員の頭の中でゆっくりと形を成していった。
そして──
闘技場が爆発した。
歓声と、どよめきと、驚愕の声が入り混じった大きなざわめき。
「リオン様が、勝った──!」
「家門最強の長兄を、たった一振りで──!」
「あれが、グラディウス家の、新たな最強……!」
ノエルが観客席で、立ち上がっていた。
「兄様……! 兄様、勝った……!」
涙がノエルの頬を伝っていた。
エレナが隣で、優しくその肩を抱き寄せた。
「ええ。リオンは、勝ったわ」
エレナの声にも、僅かな涙が滲んでいた。
四日前から、息子の変化を見守ってきた母。
そして、今──家門の伝説の再現を目の前にした母。
その胸の中には、複雑な感情が確かに渦巻いていた。
* * *
最前列で。
オーガスト・グラディウスは無言のまま、立ち上がっていた。
倒れたヴィクトル。
そして、闘技場の中央に静かに立つリオン。
その対比を、ただ見つめていた。
家門の長として、これまで「家門の恥」として扱ってきた末弟が、家門の希望と謳われた長兄を打ち倒した。
──家門の伝説。
──初代当主が、武と魔力を一つにして、家門の名を大陸に轟かせた、あの時代。
それが今、目の前で確かに再現されている。
オーガストはゆっくりと拳を握った。
長年押し込めてきた家門への執着が、新たな形を取り始めていた。
その時、リオンがゆっくりとオーガストの方を向いた。
そして、静かに告げた。
「父上」
闘技場全体に、その声が響いた。
「学園推薦枠は、私がいただきます」
五日前の、あの執務室での宣言と同じ言葉。
しかし、今度は──
それを否定する者は、誰もいなかった。
長い、長い沈黙の後。
オーガストはようやく口を開いた。
「……認めよう」
それは、家門の長としての公式な宣言だった。
「リオン・グラディウス。お前を王立魔法学院への推薦者とする」
闘技場が再びどよめいた。
「家門の長が、末弟を認めた──!」
「グラディウス家の新たな歴史が、始まる……」
リオンは深く頭を下げた。
「謹んで、お受けします」
* * *
試合が終わってから、半刻ほど経った頃。
闘技場の片隅で。
リオンの元に、一人の老人がゆっくりと近づいてきた。
白髪、質素な濃紺のローブ、深い皺を刻んだ顔。
学院から派遣されてきた、老教師。
「リオン殿」
老人が穏やかな声で告げた。
「素晴らしい試合でした」
リオンは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、リューゲン師」
「……ふむ」
老人はリオンの顔を、しばらく見つめていた。
その眼の奥には、ただの老教師ではない深い知識と洞察が宿っていた。
「あなたを、王立魔法学院で、見守らせていただきます」
「学院では、私が、あなたの担当教師となるでしょう」
リオンは、その言葉に僅かに頷いた。
老教師の眼の奥にあるものを、リオンも何となく感じ取っていた。
──この老人は、ただの教師ではない。
しかし、今はそれを問う時ではなかった。
「よろしくお願いいたします」
リオンは静かに礼をした。
老教師は微かに微笑むと、踵を返した。
その背中をリオンはしばらく見つめていた。
(あの老師──ただ者ではない)
(だが、悪意はない)
(学院で、答えが見えるかもしれない)
* * *
試験が終わったその日の夕方。
グラディウス領の屋敷では、リオンの旅立ちの準備が進められていた。
王立魔法学院の入学は、十日後。
それまでに、リオンは王都グランディアへと向かわなければならない。
リオンの自室で、母エレナが旅装の最終確認をしていた。
「忘れ物はない?」
「はい、母上」
「無理をしすぎないように」
「分かっています」
エレナは、リオンの肩にそっと手を置いた。
「あなたの旅は、ここから本当に始まるのね」
「……はい」
「お母様、わたしも王都に行きたかった……」
ノエルがぷくりと頬を膨らませていた。
「兄様と、離れるなんて……」
リオンは、ノエルの頭を優しく撫でた。
「ノエル。すぐに、また会える」
「学院の長期休暇には、必ず戻ってくる」
「約束ですよ?」
「ああ。約束しよう」
ノエルがようやく微笑んだ。
そして、リオンの背中にぎゅっと抱きついた。
「兄様、頑張ってね……!」
「ありがとう、ノエル」
リオンは、妹の頭をしばらく撫でていた。
* * *
夜。
リオンが屋敷の外の階段に座って、星空を見上げていた。
ふと、後ろから足音が近づいてきた。
振り返ると、エルマーが立っていた。
「……リオン」
エルマーがぎこちなく口を開いた。
「明日、出発するのだったな」
「はい、兄上」
「気をつけて行け」
「ありがとうございます」
エルマーはしばらく無言で、星空を見上げていた。
そして、ぽつりと告げた。
「お前のような弟がいて、誇りに思う」
リオンが静かに兄を見た。
エルマーはまだ星空を見上げたまま、続けた。
「四日前の夜、お前に騎士を差し向けた俺を許してくれ」
「……兄上」
リオンは首を横に振った。
「もう、過ぎたことです」
エルマーがようやく、リオンを見た。
その眼には、四日前にはなかった温かな光が宿っていた。
「……ああ、そうだな」
「ヴィクトル兄上のことは、私がしばらく見守る」
「あの人も、いつか変わるかもしれない」
リオンは深く頷いた。
「お願いします、兄上」
二人の兄弟は、しばらくただ星空を見上げていた。
家門の運命が、今、確かに新しい方向へと動き始めていた。
* * *
翌朝。
リオンは簡素な旅装で、屋敷の門の前に立っていた。
腰には、家門の練習用魔剣──。
ではなく、新しい魔剣が下げられていた。
父オーガストが自ら手渡したもの。
家門の歴代当主が若き日に佩いていた剣。
「……これを、お前に」
オーガストは僅かに照れたように、視線を逸らしていた。
「家門の象徴として、王都で恥ずかしくないものを持っていけ」
リオンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
それは、長年「家門の恥」として扱われてきた末弟と家門の長との間に、初めて生まれた確かな絆だった。
母エレナ。
妹ノエル。
そして、エルマー兄上。
家族の見送りを受けながら、リオンは馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す。
リオンは振り返って、家族に手を振った。
ノエルが両手を大きく振り返している。
その姿が徐々に小さくなっていく。
リオンは座席に深く座り、目を閉じた。
体内の魔力が整然と巡る。
戦いを重ねるごとに、密度が増していくのを感じる。
そして、家族との繋がりが──地球時代には知らなかった温かな何かが、確かに胸の奥に宿っていた。
馬車の中で、リオンはゆっくりと魔剣の柄を撫でた。
父から受け取った、家門の剣。
王都に着いたら、まず研ぎ師を探そう。
そんなことを考えていた。




