第四話【兄弟】
短い休息の後。
闘技場の中央に、二人の人影が向かい合った。
リオン・グラディウス。
そして、次兄エルマー・グラディウス。
観客席はもう静まり返っていた。
つい一刻前まで、誰もが「決勝はヴィクトル様とエルマー様で決まり」と信じていた家門試験。
その予想は、もう跡形もない。
今、観衆の目はただ一点──末弟リオンの背中だけに釘付けになっていた。
「兄弟同士の準決勝……」
「いや、これはもう、ただの兄弟喧嘩じゃないぞ」
「あの末弟が、本物だとしたら……エルマー様にも、勝機はないのでは……」
ささやかれる声を、エルマーは聞かないようにしていた。
腰の魔剣をゆっくりと抜く。
土属性の魔力が薄茶色の刃に宿っていく。
家門の中でも、エルマーの土属性魔法は屈指の腕前と評価されていた。
固有の魔法陣を頭の中に組み上げ、いつでも展開できる準備を整える。
──四日前の夜、自分が連れた騎士三人が一瞬で沈められた光景が脳裏に蘇る。
そして、つい先ほど闘技場の石畳が放射状に砕けた光景も。
(……敵わないかもしれない)
しかし、エルマーは剣の柄を強く握り直した。
(それでも、確かめなくてはならない)
(兄として、目の前にいるこの男が、本当に「あの末弟」なのかどうかを)
リオンは自然体に構えた。
その瞳は、エルマーをまっすぐに見つめていた。
ただし、それは敵を見る目ではなかった。
兄を見る目──そして、救うべき者を見る目だった。
「兄上」
リオンが静かに告げた。
「四日前のことは、もう、お忘れください」
「あなたが今、ここに立っているのは、ヴィクトル兄上の命令ではない」
「あなた自身の意志で、ここにいる」
「……それで、十分です」
エルマーの手がわずかに震えた。
そのことを見透かされていた。
四日前のあの夜、自分は長兄に命じられて末弟を襲った。
しかし今、この準決勝の場には自分自身の意志で立っている。
長兄に従うためでも、家門の体面のためでもなく。
ただ、目の前のこの男を自分の目で確かめるために。
「……リオン」
エルマーが絞り出すように答えた。
「俺は──いや」
一度、言葉を呑み込む。
そして、剣を構え直した。
「私は、家門の次男として、ここに立っている。手を抜くつもりはない」
「リオン。お前も──全力で来い」
リオンは僅かに頷いた。
「承知しました」
* * *
「では──始め!」
老臣の合図が闘技場に響いた。
最初に動いたのは、エルマーだった。
魔法陣が足元に展開される。
「《ストーンウォール》!」
地面から複数の石壁が立ち上がり、リオンの視界を遮るように展開された。
そして、その壁の死角から──
「《ストーンスピア》!」
三本の石槍が、三方向からリオンへと撃ち込まれた。
──普通の魔法剣士なら、回避と防御で精一杯のはずだった。
しかし、リオンは動かなかった。
両手を腰に構えたまま、ただ首だけを僅かに傾けた。
ヒュッ、と一本目の石槍がリオンの頬を掠めて飛んでいった。
二本目は半歩だけ身を引いて、避ける。
三本目は──
リオンの右手がふっと持ち上がった。
掌が、石槍の先端にぽんと触れる。
ただ、それだけだった。
しかし、次の瞬間。
石槍は宙で砕け地面に落ちた。
「……は」
エルマーが息を呑む。
石壁の隙間からリオンの姿が見える。
リオンはまだ、構えを変えていなかった。
「兄上」
リオンの声が、石壁越しに静かに届いた。
「もっと、本気で」
エルマーの胸の奥に、何かが熱く湧き上がった。
それは、屈辱でもなく絶望でもなかった。
ただ、純粋な──戦士としての闘志。
「……っ!」
エルマーは両手を地面に押し付けた。
土属性の魔力が闘技場全体に流れる。
「《アースクエイク》!」
闘技場の地面が波打つように揺れた。
石畳が割れ、礫が舞い上がる。
足場が不安定に揺れる。
──いや。
リオンは揺れる地面の上で、それでも一切ふらつかなかった。
両足が、まるで地面に吸い付くように安定している。
足の裏から流れ込んだ魔力が揺れる地面を制御している。
地震を起こした当のエルマーですら、足元がふらつくほどの揺れの中でリオンだけが揺らがない。
「……どこまで」
エルマーは立ち上がった石壁の上に、跳び上がった。
そして、最大級の魔法陣を空中に展開する。
家門の中でエルマーが習得した中で、最も強力な攻撃魔法。
「《グランド・ジャベリン》!」
巨大な石の槍が空中に出現し、リオンへと真っ直ぐに撃ち込まれた。
その重さ、その速さ、その威力。
家門の若い騎士程度であれば、即死しかねない一撃。
エルマーがこれまで誰にも見せたことのない、本気の魔法。
リオンは──
その瞬間、初めて腰の練習用魔剣を抜いた。
刃こぼれの目立つ、安物の剣。
しかし、リオンの手に握られた瞬間、それは金色に輝き始めた。
しかし、今度は──輝きが違った。
刃の表面に宿った金色の魔力が層を成して、何重にも重なっていく。
ただの強化を、何段階も超えた別次元の輝き。
「《武具強化》──金剛・抜刀」
リオンは静かに告げた。
そして、刃を振り上げた。
ただ、それだけだった。
巨大な石の槍と、金色の刃がぶつかった。
ガキィッ、と音がした。
それは、金属と石のぶつかる音とは思えぬほど軽やかで、しかし重い不思議な響き。
次の瞬間。
エルマーの渾身の《グランド・ジャベリン》は──
縦に、真っ二つに斬り割られていた。
割れた石の槍が左右に分かれて、闘技場の地面に落ちる。
ドサッ、ドサッ、と重い音。
闘技場が静まり返った。
「……うそ、だろ」
エルマーが呆然と立ち尽くしていた。
家門の中で誰にも破られたことのなかった自分の最強魔法。
それを、たった一振りで真っ二つにされた。
しかも、相手は──刃こぼれだらけの安物の練習用の魔剣で。
「兄上」
リオンが剣を下げた。
そして、ゆっくりとエルマーへと歩み寄っていく。
石壁をするりと回り込み。
エルマーの目の前に立った。
そして──
剣を鞘に納めた。
「降参してください」
リオンの声には、命令ではなく優しさが滲んでいた。
「あなたは、もう、十分に戦った」
「私は、それを認める」
エルマーの手から力が抜けた。
魔法剣が、地面にからんと音を立てて落ちた。
「……負けだ」
エルマーが深く息を吐いた。
「俺の、負けだ」
老臣の声が震えながら告げる。
「……勝者、リオン・グラディウス」
闘技場が爆発した。
歓声──ではなかった。
それは、戸惑いと畏怖と興奮とが入り混じった、何とも形容しがたいざわめき。
「あの末弟が──!」
「エルマー様の《グランド・ジャベリン》を、たった一振りで──!」
「決勝戦が……決勝戦が、本当にリオン様とヴィクトル様の戦いになるのか──!」
観衆の予想はもう、完全に書き換わっていた。
* * *
闘技場の中央で。
リオンが敗れたエルマーに、そっと手を差し伸べていた。
エルマーはその手を、しばらく見つめていた。
そして、ゆっくりと──握り返した。
リオンに引き起こされながら、エルマーは小さく呟いた。
「……リオン」
「お前は、本当に──」
言葉が続かなかった。
リオンはただ、微笑むようにエルマーを見ていた。
「兄上」
「私は、今でもあなたの弟です」
エルマーの目に、何か熱いものが浮かんだ。
しかし、彼はそれを見せまいと顔を背けた。
「……ありがとう」
絞り出された、小さな言葉。
しかし、その一言には、四日前から積み重なったエルマー自身の葛藤と覚悟のすべてが込められていた。
リオンは深く頷いた。
そして、エルマーの背を軽く叩いた。
「エルマー兄上、ヴィクトル兄上のことは──」
リオンの声がほんの僅かに低くなった。
「私に、任せてください」
エルマーは答えなかった。
ただ、深く長く頷いた。
* * *
観客席最前列で。
オーガスト・グラディウスは無言のまま、闘技場の中央を見つめていた。
末弟リオンが、次男エルマーに手を差し伸べている。
エルマーがその手を握り返している。
兄弟が互いを認め合っている。
その光景は、これまでのグラディウス家には決して見られなかったものだった。
オーガストの胸の奥で、長年押し込めてきた何かが僅かに揺れた。
──家門の伝説。
──初代当主が、武と魔力を一つにして、家門の名を大陸に轟かせた、あの時代。
それが今、目の前で再現されようとしている。
しかも、よりにもよって、これまで「家門の恥」として扱ってきた末弟の手によって。
オーガストの胸の中に、複雑な感情が渦巻いていた。
しかし、それを彼は表情には出さなかった。
ただ、隣に座る長兄ヴィクトルへちらりと視線を向けた。
ヴィクトルは──
凍りついた表情で闘技場の中央を見つめていた。
その眼の奥には、もはやただの憎悪ではない、何か別のものが宿っていた。
──恐怖。
家門最強と謳われてきた長兄が、初めて末弟に対して恐れを抱いている。
オーガストは僅かに目を伏せた。
(……ヴィクトルよ)
(お前は、これからどう戦う)
* * *
エルマーが闘技場から退場する。
倒れた相手は、観客席へと戻っていく。
そして──老臣が次の言葉を告げた。
「準決勝、第二試合、終了」
「次は、決勝戦」
「ヴィクトル・グラディウスは、先の第一試合にて、ヒューマス家のヒューマス・エルロイド殿を破り、決勝戦進出を決めている」
「よって──」
老臣が息を整えた。
「決勝戦は、ヴィクトル・グラディウス 対──リオン・グラディウス」
「兄弟同士の、家門最強を懸けた、最後の戦いとなる」
闘技場が大きくざわめいた。
「兄弟同士の決勝──!」
「家門最強の長兄と、突如台頭した末弟──」
「これは、歴史的な試合になるぞ」
ノエルが観客席で、両手を胸の前で握りしめていた。
「お母様、リオンが……決勝に……」
「ええ。あなたの兄様は、ここまで来たわ」
エレナの声には、確信と──そして僅かな不安が滲んでいた。
──家門の中で、最も強い長兄。
──そして、その長兄が、今、末弟に対して抱いている、隠しきれない憎悪。
兄弟の最終決戦は、ただの試合では終わらない。
エレナには、それが分かっていた。
リオンは闘技場から退場し、控え室へと向かう途中で一度だけ、観客席のヴィクトルを見上げた。
兄の眼と視線が交わる。
ヴィクトルの眼には、はっきりと殺意が宿っていた。
リオンは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
(……兄上)
(あなたを救えるかどうかは、分かりません)
(しかし、あなたの傲慢を、打ち砕くことはできる)
(そして、それが──家門のためにも、なる)
控え室への通路を歩きながら、リオンはゆっくりと拳を握った。
体内の魔力が整然と巡る。
戦いを重ねるごとに、密度が増していくのを感じる。
地球で五十年、辿り着けなかった場所が、今確実に近づいてきている。
(武の極み──人間の限界を超えた先)
(その入り口は、もう、目の前にある)
闘技場に強い風が吹き抜けた。
家門試験の決勝戦──。
次の戦いは、グラディウス家の運命を決定的に変える戦いになる。
リオンはそう確信していた。




