第三話【試験】
五日後の朝が来た。
グラディウス領、屋敷の中庭。
普段は静かなその場所が、今日は別の表情を見せていた。
簡易な石造りの闘技場が中央に設けられ、周囲には観覧用の席が並べられている。
朝の冷たい空気の中に、馬車の音、騎士の鎧の音、そして人々のざわめきが入り混じる。
近隣の家門の主たち、領内の有力者、そして家中の使用人たちが、徐々に集まっていた。
グラディウス家は、かつて剣術名家として大陸に名を轟かせた家。
しかし、数世代前から才能が枯れ、領地は縮小し、財政は逼迫している。
そんな家門にとって、この試験──王立魔法学院への推薦枠を決める一日は、起死回生の意味を持っていた。
推薦枠を取った者は、王都の学院へと送り出され、そこで魔導士としての地位を築く。
そして、家門の名を再び大陸に轟かせる──そう、誰もが期待していた。
無論、その期待を背負うのは長兄ヴィクトルか、次兄エルマー。
それ以外の者など、誰の頭にもなかった。
「あれが、グラディウス家の家門試験か」
「学園推薦枠を誰が取るのか──やはり、ヴィクトル様だろう」
「いや、次男のエルマー様も近頃は実力を伸ばしてきているらしい」
「決勝戦は、ヴィクトル様とエルマー様で決まり──というのが大方の予想だな」
「ああ、結局は兄弟同士の争いになるだろう」
「ふん、家門の体面のための茶番だな。だが、観るには値する」
ざわめく観衆の中、リオンは静かに闘技場の脇に立っていた。
簡素な修練着。
腰には家門の古い練習用魔剣。
出来損ないと呼ばれていた頃から使っている、刃こぼれの目立つ安物の品。
しかし、リオンには十分だった。
(剣もまた、武の延長に過ぎない)
地球で五十年、剣術もまた、極めた道のひとつ。
素手であれ、剣であれ──武の本質は、変わらない。
「……あれは、リオンか?」
観客の一人が、リオンに気づいた。
「まともな魔法も使えないと聞くが? まさか、参加するつもりなのか?」
「家門の体面だろう。父上が、形だけでも出ろとお命じになったらしいぞ」
「冗談だろう? すぐに棄権するに決まっている」
「あの剣を見ろ。刃こぼれだらけだ。あんな安物で何ができる」
嘲笑がリオンの周囲に広がった。
リオンは顔色一つ変えなかった。
ただ、闘技場の中央を静かに見つめている。
朝の風が、リオンの黒髪を僅かに揺らした。
その瞳の奥には、嘲笑の声など届かない深い静けさが宿っていた。
──地球で生涯求め続けた、武の極み。
──そして、この身体で、辿り着くべき場所。
リオンの内側には、五日前の朝から揺るぎない決意が燃え続けていた。
* * *
定刻になり、家門当主、オーガスト・グラディウスが入場した。
威厳のある足取りで観客席最前列の中央に着席する。
その横に、長兄ヴィクトル。
反対側に、次兄エルマー。
エルマーはリオンを一瞥した。
その目には、戸惑いと僅かな怯えが滲んでいた。
──四日前、あの中庭での出来事。
末弟だったはずの少年が、自分の連れた騎士三人を一瞬で沈めた。
あれは夢ではない。
エルマーは、唇を引き結んで視線を逸らした。
ヴィクトルもまた、リオンを睨んでいた。
その目には、隠しきれない敵意とそれを上回る、苛立ちが宿っている。
「……何が、変わったか知らんが」
「決勝で必ず、お前を叩き潰す」
低い呟きは、隣のエルマー以外には聞こえなかった。
司会役の家門の老臣が進み出る。
「これより、グラディウス家、家門試験を執り行う」
「試験は、三段階。第一に筆記試験──魔法理論を問う」
「第二に魔法実技──各自の属性魔法を披露する」
「第三に模擬戦──総合的な実力を競う」
「総合得点が最も高い者に、王立魔法学院への推薦枠を授ける」
観客がざわめく。
「参加者は、十二名──」
老臣が参加者の名を読み上げていく。
家門の若い騎士、近隣家門から呼ばれた剣士、エルマー、ヴィクトル──。
最後に、リオンの名がぽつりと告げられた。
「……リオン・グラディウス」
観客の中から、忍び笑いが漏れる。
リオンは無言で前に進み出た。
──と、その時。
観衆席の片隅から、小さな視線を感じた。
ふと、そちらに目を向けた。
母エレナの隣に、十二歳ほどの少女が座っている。
リオンの妹、ノエル・グラディウス。
家門で唯一、長兄にも父にも追従せず、末弟であるリオンを兄として慕い続けてきた少女。
ノエルは両手を胸の前で握りしめ、闘技場のリオンをまっすぐに見つめていた。
その瞳には、不安と、それを上回る期待。
リオンはノエルに、ほんの僅かに頷いた。
ノエルの瞳がぱっと輝いた。
エレナが隣で微笑む。
それで、十分だった。
リオンは視線を闘技場の中央に戻した。
* * *
筆記試験は、長机の前に並んだ参加者たちに、一斉に問題用紙が配られる形で行われた。
魔法理論、魔力の構成式、属性反応の演算──。
並んだ問題を見て、ある者は唸り、ある者は冷や汗を流し、ある者は持参した手帳を必死にめくる。
ヴィクトルでさえ、額に汗を浮かべながらペンを進めていた。
エルマーは眉間に皺を寄せ、何度か計算式を消しては書き直している。
その中で、リオンは最初から最後までただ静かにペンを走らせていた。
地球で五十年、武の理を追い続けた男にとって、この世界の魔法理論は洗練された数学に過ぎなかった。
体内の魔力は、地球で言うところの気と本質的に変わらない。
ならば、その挙動を記述する数式もまた武の力学と同じ法則の上にある。
リオンには、それが透けて見えていた。
理解するのに半刻もかからなかった。
リオンの答案は、最初に提出された。
近くにいた他の参加者が、信じられないものを見るような目を向ける。
「あいつ……早々と諦めたか」
「無理もない。あの問題を、落ちこぼれのあいつが解けるはずがない」
しかし、リオンは何も言わず、ただ静かに自席へ戻った。
その背中を、ヴィクトルが苛立たしげに睨みつけていた。
* * *
一刻ほどして、採点が終わった。
老臣が各参加者の答案を読み上げていく。
下位から順に。
家門の若い騎士たち、近隣家門の参加者──。
「エルマー様、八十五点」
エルマーが少しほっとした表情を見せる。
そして──
「ヴィクトル様、九十二点」
観客から拍手が起こりかけた。
ヴィクトルの満足げな表情。
「お見事です、ヴィクトル様」「さすが、家門の希望」
しかし、老臣はもう一枚、答案を手に持っていた。
「……お待ちください」
「最後に、もう一名──」
観客が首を傾げる。
老臣の声が闘技場の隅々まで、はっきりと響いた。
「リオン様、九十五点。本試験、第一位」
闘技場が凍りついた。
「……は?」
「いま、なんと──?」
「リオン様が、第一位だと──!?」
観客の声が波のように広がっていく。
「ヴィクトル様を、上回る点数──!?」
「魔力ゼロ同然のはずの末弟が──!?」
「何かの間違いだろう。代筆でもしたんじゃないのか」
「いや、答案は確かに本人のものだ。さっき提出するところを、私も見た」
「ば、馬鹿な……あの末弟が、家門の二人を、上回るだと……」
リオンは答案用紙を見つめながら、僅かに息を吐いた。
(魔法理論──ただの数式と論理だ)
オーガストが書記から答案を受け取り、目を通している。
その表情は読めなかった。
ただ、書類を持つ指先に僅かな力が籠っているように見えた。
長年、末弟を「家門の恥」として扱い続けてきた家長の眼に──
初めて別の色が宿った。
驚き。
困惑。
そして、僅かに──興味。
ヴィクトルが隣で唇を噛んでいる。
「……たかが筆記だ」
「実技と模擬戦ですべて決まる」
そう、自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし、その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
エルマーは何も言わなかった。
ただ、こっそりと──リオンの方を見ていた。
その目に宿っていたのは、もはや怯えだけではなかった。
* * *
続いて、魔法実技。
参加者が順に自分の属性魔法を披露していく。
ヴィクトルが最初に進み出た。
腰の魔剣を抜き、刃に風属性の魔力を込める。
「《エアスラッシュ》!」
青白い斬撃が、闘技場の標的を真っ二つに切断した。
観客から、惜しみない拍手。
「これぞ、グラディウスの剣だ!」
「家門の希望に、相応しい!」
ヴィクトルは満足げに礼を返し、所定の位置に戻る。
続いてエルマー。
土属性の魔法陣を展開し、地面から石の槍を立ち上げる。
「《ストーンスピア》!」
三本の石槍が別の標的を貫いた。
観客からこれも拍手。
次々と参加者が、火、水、雷──色とりどりの属性魔法を披露していく。
派手な光、爆ぜる音、舞い上がる土埃。
闘技場は属性魔法の見本市の様相を呈していた。
そして、リオンの番が来た。
「では、リオン様、どうぞ」
老臣の声に、観客から失笑が漏れる。
「強化系しか扱えないのだろう? 何ができる?」
「派手な見せ方なんて、できやしないさ」
「棄権でいいんじゃないか? 今からでも遅くないぞ」
リオンは闘技場の中央に進んだ。
標的の前に立つ。
腰の練習用魔法剣には、まだ触れない。
詠唱もしない。
魔法陣も描かない。
ただ、右の拳を軽く握っただけだった。
「……?」
観客が首を傾げる。
「何をしている? 早く魔法を見せろ」
リオンは何も答えなかった。
代わりに、左の足を一歩踏み込んだ。
それだけだった。
しかし──
ドンッ。
リオンの足元、闘技場の石畳が放射状に砕けた。
亀裂が十メートル先の標的まで一直線に走り、標的の足元の地面が深く陥没する。
標的そのものは衝撃で吹き飛び、闘技場の壁に叩きつけられた。
闘技場全体が静まり返った。
「……は?」
「な、なにが、起きた……?」
リオンは振り返ることなく、淡々と告げた。
「《身体強化》──歩法・踏み込み」
「以上です」
観客が息を呑む。
魔法剣も詠唱も魔法陣もなく、ただ「歩いた」だけで、これだけの破壊が起きた。
「……ありえない」
「強化系で、これほどの威力が、出せるのか?」
「無詠唱で、無魔法陣で、あの威力──そんなものは、聞いたこともない」
「そもそも、強化系で標的を破壊するなんて、本来あり得ないはずだ」
観衆席のノエルが目を輝かせて、小さな手で拍手をしていた。
「兄様……すごい……」
その隣で、エレナが静かに頷いている。
「ノエル、あなたの兄様は、特別なのよ」
「……はい、お母様」
最前列のオーガストがわずかに目を細めた。
その表情は相変わらず読めない。
しかし、隣のヴィクトルはぐっと拳を握りしめていた。
「あんなもの、ただの──ただの、見せ物だ」
その声は誰にも届かなかった。
そして、エルマーは──ただ、無言でリオンを見つめていた。
その瞳の奥にあるのは、もはやただの怯えではない。
四日前、自分が体験したあの瞬間が、今、闘技場の真ん中で再現されている。
(ああ、やはり、あれは夢ではなかった)
エルマーの胸の中で、何かが静かに変わり始めていた。
* * *
ざわめく観客席の片隅に、一人の老人が座っていた。
白髪。
質素な濃紺のローブ。
顔に深く刻まれた皺。
「学院の老教師」として紹介された人物──リューゲン・ヴァインホルツ。
学院推薦枠の選定に立ち会うため、王都から派遣されてきた。
しかし、その目は、ただの老教師のものではなかった。
リューゲンの視線は、闘技場の中央のリオンに釘付けになっていた。
(……ほう)
老人の口元がほんの僅かに動いた。
(魔力量が、規格外だ)
(しかも、無詠唱、無魔法陣──完全な武と魔法の融合)
(あの少年、何者だ)
リューゲンは懐から、一枚の鑑定札を取り出した。
家門備え付けの大きな鑑定の魔道具とは別の、携帯用の鑑定具。
それで、リオンの数値を密かに測る。
──リオン・グラディウス Lv.5
──スキル:《身体強化》Lv.3、《魔力集中》Lv.2、《観察眼》Lv.2
リューゲンの皺が僅かに動いた。
(固有スキル──《観察眼》。初めて見るスキルだ)
(魔力の流れを、視覚で捉えるスキル……いや、それ以上か)
(あの少年は、戦いの最中、相手の動きと魔力の流れを、同時に読み切っている)
(このレベルで、あの威力……いや、それ以上の何かが、この少年には宿っている)
リューゲンは長い人生で、数え切れぬほどの剣士、魔導士を見てきた。
国宝級の英雄も。
伝説の魔導師も。
しかし──こんな少年は、初めてだった。
魔力の組成も、動きの本質も、まるで「この世界の外側」から来たかのような──
(まるで、別の理の上に立っているかのようだ)
(七賢者会議に、報告せねばならんな)
老人は鑑定札を、ゆっくりと懐に戻した。
その視線はまだリオンから離れない。
(あの少年が、これから何を見せるか──しかと、見届けさせてもらおう)
* * *
模擬戦予選が、始まった。
十二人の参加者が抽選で組み合わされ、勝ち上がっていく。
リオンの初戦の相手は、家門の若い騎士だった。
水属性の魔法剣使い。
実戦経験はそこそこあり、近隣の小競り合いでは何度か武功を立てた、自負のある男だった。
「魔法も使えない相手では退屈だな」
そう呟いて、彼は闘技場に進み出た。
リオンが無言で構える。
両手を腰に。
足は肩幅。
地球の古武道の、基本の構え。
「では──始め!」
開始の合図と共に騎士が踏み込んだ。
青い水の刃をリオンに振り下ろす。
しかし──
剣が届くより先に、リオンの拳が騎士の腹を捉えていた。
青白い衝撃波と共に、騎士の身体が宙を舞う。
そのまま、闘技場の壁際まで数十メートルを吹き飛んでいった。
ドンッ、と壁にぶつかる音。
ずるずると崩れ落ちる騎士の身体。
一瞬の出来事だった。
観衆の誰もが、何が起きたかすぐには理解できなかった。
「……勝者、リオン・グラディウス」
老臣の声が震えていた。
観客はもう、笑っていなかった。
ただ、信じられないものを見るような目で闘技場の中央に立つリオンを見つめていた。
観衆席のノエルが握った両手を、嬉しげに胸の前で振っていた。
「兄様、勝った……勝ったわ、お母様!」
「ええ。でも、まだまだよ。あなたの兄様は、これから本当の力を見せていくの」
エレナの声は確信に満ちていた。
* * *
二戦目。
相手は、家門の中堅の魔法剣士。
火属性の魔法剣を高位まで習得している、ベテランの兵だった。
歳は三十代前半。
実戦で多くの魔獣を屠り、家門の中でも一目置かれる存在。
普段は剣の腕で家門の警備を任されている男であり、年若いヴィクトルやエルマーよりも、純粋な剣技においては上回ると噂されている。
「ナメられたものだな──こちらも、本気で行くぞ」
赤く燃える刃がリオンに襲い掛かる。
刃そのものから熱気が立ち上り、闘技場の空気を震わせる。
しかし、リオンは──腰の練習用魔法剣をすらりと抜いた。
「……? あの安物の剣で?」
観衆が首を傾げる。
刃こぼれの目立つ、家門の練習用魔法剣。
末弟がずっと侮蔑と共に持たされ続けてきた、誰もが見向きもしなかった刃。
切れ味も悪く、もはや武器とも呼べないような代物。
子供たちが遊びで振り回すような、そんな剣だった。
しかし、リオンの手に握られた瞬間──
その刃が、静かに金色の光を帯びた。
刃こぼれだらけの表面に、滑らかな金色の輝きが層を成して纏わりついていく。
朝の陽光を受けて、その光はまるで鋳直されたばかりの聖剣のように、美しく輝いた。
「あれは──強化系の魔力か──!?」
「武器そのものに、強化を施しているのか……!?」
詠唱なし。
魔法陣なし。
ただ、リオンが「持った」だけで、剣そのものが強化されていた。
赤い刃と金色の刃が、ぶつかり合った。
ガキィッ、と乾いた音。
金属同士のぶつかる音とは思えぬほど、軽やかでしかし重い、不思議な響き。
たった一合。
それで、相手の魔法剣は根元からぽきりと折れていた。
折れた刃が宙を舞い、闘技場の地面に転がる。
中堅の兵の手には、柄だけが残されていた。
そして、彼の喉元には──
リオンの金色の剣がぴたりと添えられている。
中堅の兵はぽかんと口を開けて、自分の手元を見つめていた。
何が起きたか、理解できていない。
理解できないまま、敗北だけが確定していた。
「……参った」
両手をゆっくりと上げる。
観衆が静まり返った。
「何という──強さ──」
「剣まで、扱えるのか……」
「強化系で、武器そのものを強化する……? そんなこと、聞いたこともないぞ」
「あの安物の刃で、ヴェルガス殿の魔法剣を、たった一合で……」
ヴィクトルの表情が強張った。
最前列のオーガストがようやく姿勢を変えた。
書類から目を上げ、リオンをまっすぐに見つめている。
その眼に宿るのは、もはや侮蔑ではなかった。
──遠い昔、まだオーガスト自身が幼かった頃。
祖父が語って聞かせた、家門の伝説。
剣そのものを意志で纏い、無詠唱で武と魔を融合させたという初代当主の剣技。
あれはただの語り草に過ぎないと、長い間そう思っていた。
しかし──
オーガストの胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
「あの末弟……いったい、何者だ」
「いや、しかし、まだヴィクトル様がおられる」
「そう……まだだ。決勝で、ヴィクトル様が必ず仕留めてくださる」
観客の視線がヴィクトルに集まる。
ヴィクトルは青ざめた顔で、リオンを睨んでいた。
その眼に宿るのは、もはや純粋な憎悪に変わりつつあった。
その隣で、オーガストがようやく口を開いた。
「……継続せよ」
短い、しかし重い一言。
老臣が頷く。
「予選、終了。準決勝を発表する」
闘技場が静まり返る。
観客の誰もが、固唾を呑んで老臣の声を待った。
「第一試合──ヴィクトル・グラディウス 対 ヒューマス・エルロイド」
「そして──」
老臣は、一度間を置いた。
「第二試合──リオン・グラディウス 対──次男、エルマー・グラディウス」
闘技場が一気にざわめいた。
「兄弟同士の準決勝──!」
「いや、これは……リオンが、勝ち上がってしまったら……」
「決勝戦が、ヴィクトル様とリオンの戦いに……?」
「ありえない、ありえないぞ……つい一刻前まで、誰もそんなことを考えていなかったというのに……」
観衆の予想は、もう跡形もなく崩れ去っていた。
エルマーが観客席で、ぐっと拳を握る。
その顔には、覚悟とわずかな諦めが同居していた。
──四日前、自分が連れた騎士三人を一瞬で沈めたあの男。
その男と、今度は自分自身が戦わなければならない。
しかし、エルマーの胸の奥には、もう一つ別の感情も芽生え始めていた。
──兄として、目の前で起きていることを確かめたい。
──リオンが、本当に「何か」を超えたのか、自分の身で知りたい。
観衆席のノエルが、心配そうに兄を見つめている。
エレナの手がそっと、ノエルの肩に置かれた。
「大丈夫。リオンは、強いわ」
ノエルがこくりと頷く。
リオンは、エルマーの顔を静かに見上げた。
エルマーがふっと視線を逸らした。
闘技場の上空を薄い雲が流れていった。
老臣の声が、次の試合の準備を告げた。




