第二話【修練】
執務室を出たリオンは自室に戻ると、扉の閂を静かに下ろした。
夜の闇が窓の外を覆っている。
ろうそくの灯りだけがぼんやりと部屋を照らしていた。
(明日からだ)
リオンは椅子に深く腰を下ろした。
体内に流れる新たな力。
地球の「気」と本質的に同じもの。
ただし、密度は地球の数百倍。
(この身体で、何ができるか)
(明朝、確かめる)
ゆっくりと目を閉じた。
夜は静かに更けていった。
* * *
夜が明けた。
中庭の隅、人気のない場所を選んでリオンは立っていた。
朝霧が足元を薄く覆っている。
ゆっくりと目を閉じ、呼吸を整えた。
地球で五十年、毎朝欠かさず行ってきた呼吸法。
それを、この身体で再現する。
ゆっくりと息を吸う。
ゆっくりと吐く。
体内に、温かな流れが生じた。
「……ああ」
感嘆の声が漏れた。
地球で「気」と呼んでいた、あの感覚。
しかし──桁が、違う。
地球では何十年もかけて、ようやく指先まで気を巡らせることができた。
それがここでは、たった数回の呼吸で全身を満たしてしまう。
(この世界の「魔力」は、俺の知る「気」と、本質的に同じものだ)
(だが、量が違う。質も違う)
(俺の体内にあるのは、気でもあり、魔力でもある)
両手を腰の高さに構えた。
地球の道場で、何千、何万と繰り返した型。
その動作を、ゆっくりと、しかし正確になぞる。
一歩、踏み出す。
体重移動。
手の運び。
呼吸。
一連の動作の中で、体内の魔力が滑らかに流れていく。
地球での修練では、「気」を意識的に動かすには、深い集中が必要だった。
ところが、今は違う。
魔力が武の動きに、自然と寄り添ってくる。
まるで──地球の身体が、最初からこうあるべきだったかのように。
「……これは」
思わず動きを止めた。
(詠唱が、いらない)
(魔法陣も、要らない)
(武の動きそのものが──魔法の構成を担っている)
リオンの頭の中で、地球の理論とこの世界の魔法体系が繋がっていく。
詠唱とは魔力を構成するための「手順」だ。
魔法陣とは、その「設計図」だ。
ならば、武術の型はどうか。
数百年、数千年と磨き上げられた最も効率的な身体運動。
それを「魔力構成の手順」と見なせば──
もう一度、型を踏んだ。
今度はより速く。
体内の魔力が踏み込みと共に右拳に集約される。
詠唱なし。
魔法陣なし。
ただ、武の動き、それだけで。
「《魔力強化》」
呟いた瞬間、握った右拳から、薄い金色の光が漏れた。
地球の感覚で言うなら──気の発露。
しかし、その密度は、地球の数百倍。
リオンは、そのまま型を続けながら、意識を拳の一点に絞り込んでいく。
魔力の流れが、針の先のように凝集される。
「《魔力集中》」
拳の中央に濃密な力の塊が生まれた。
机の前に置いてきた鑑定の魔道具は、今は見えない。
しかし、リオンの内側で何かが切り替わる感覚があった。
(型一つ一つが技となり得る)
(この身体は、地球の五十年では辿り着けなかった場所へ行ける)
ふっと息を吐いて構えを解いた。
朝霧はもう晴れていた。
* * *
「リオン」
背後から、柔らかな声がかけられた。
リオンが振り返ると、そこに立っていたのは、初老の女性だった。
末弟の記憶が、優しく告げる。
母──エレナ・グラディウス。
家中の誰もが長兄ヴィクトルを贔屓する中で、ただ一人、末弟に優しい眼差しを向け続けた人。
「母上」
リオンは深く礼をした。
エレナは、駆け寄ってくることはしなかった。
ただ、少し離れたところで息子の姿を見つめている。
「あなた、変わったわね。」
「……気づきましたか」
「ええ」
エレナは微笑んだ。
「目の奥が違うもの」
リオンは何も答えなかった。
何を答えても、嘘になる気がした。
エレナは、構わずに続けた。
「あなたが小さな頃ね、わたしは占い師にあなたを見せたの」
「……占い師」
「ええ。村のはずれにいた変わった老婆。家門の誰にも知らせず、こっそりとね」
リオンは母の言葉を黙って聞いた。
「その老婆が、こう言ったのよ。」
「『この子は、いつか、まったく別の力を宿すかもしれない』」
朝風が二人の間を通り抜けた。
リオンは、母の顔を、まっすぐに見た。
「……母上は、それを信じたのですか」
「信じたわ」
エレナはためらわずに答えた。
「あなたは特別。わたしはずっと、信じていた」
リオンの胸の奥で、何かが、僅かに揺れた。
死を恐れぬ求道者の心。
その奥に、確かに、温かいものがある。
地球で五十年、一人で武を追い続けた男には、馴染みのない感覚だった。
「……感謝します」
リオンは静かに告げた。
エレナはそれ以上は何も訊かなかった。
ただ、微笑んで、踵を返した。
「家門の試験、頑張りなさい」
「……母上、五日後楽しみにしていて下さい。」
エレナは、振り返らなかった。
しかし、その背中が、わずかに頷いたように、リオンには見えた。
* * *
母が去ってから、ほどなく。
中庭の反対側から、足音が近づいてきた。
一つではない。
複数の、忍び寄るような足音。
リオンは振り向くことなく、口を開いた。
「兄上」
「出てきてください。隠れる必要はないでしょう」
背後の茂みから舌打ちが聞こえた。
姿を現したのは二十歳前後の青年だった。
ヴィクトルではない。
末弟の記憶が告げる。
次兄、エルマー・グラディウス。
長兄ほどの傲慢さはないが、家門の中で長兄の顔色を伺い続けてきた、優柔不断な青年。
その背後に、家門の若い騎士が三人。
「リオン」
エルマーが苦々しい声で告げた。
「お前、ヴィクトル兄上に何かをしたな」
「……何かと言われても」
「とぼけるな。兄上が、激怒している。お前を、試験の前に、再起不能にしておけと」
リオンはゆっくりと振り返った。
エルマーの顔は青ざめていた。
リオンの記憶では、エルマーは、これまで一度も、自分からリオンに手を上げたことはなかった。
長兄に命じられて、見て見ぬふりをしたことは、何度もあったが。
「エルマー兄上、これは、ヴィクトル兄上の意志ですか」
リオンが静かに問うた。
エルマーがぐっと言葉に詰まる。
「俺は……兄上の命令に、従う」
「そうですか」
リオンは軽く息を吐いた。
そして、ゆっくりと構えを取った。
両手を腰に。足は、自然に肩幅。
地球の古武道の、最も基本となる構え。
「では、お相手します」
「……っ、行け!」
エルマーの命令を受け、三人の騎士が同時に踏み込んだ。
剣に、火属性、水属性、土属性の魔法が宿る。
三方向からの同時攻撃。
ただの末弟であれば、確実に倒れていた攻撃。
しかし、今のリオンは違った。
ただ、半歩後ろに引いた。
それだけで、三つの刃が空を斬った。
「えっ──」
その刹那、リオンの手の甲が一人目の騎士の手首をすっと撫でた。
剣を握る指の力がふっと抜ける。
抜けた瞬間、リオンの掌が騎士の腹に軽く添えられていた。
ただ、それだけ。
しかし、騎士の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。
二人目の騎士が慌てて剣を振り上げ切りかかる。
しかし、剣はまた空を切っていた。
リオンが、相手の懐にするりと入り込んでいる。
軌道がずれた、ように見えた。
懐から騎士の顎に向かって、掌底が炸裂した。
そのまま、地に倒れる。
三人目の騎士が震えながら、それでも剣を構えた。
「貴様……ッ!」
斬りかかってくる刃を手の甲で軽く逸らした。
そのまま、騎士の手首を掴むと──勢いを利して投げ飛ばした。
地に伏せた騎士の喉元には、いつの間にかリオンの掌が添えられていた。
「……動かないことです」
リオンが静かに告げた。
「……兄上、これ以上は無駄です」
リオンはエルマーに向き直った。
エルマーは、腰の魔法剣を抜くこともできずに立ち尽くしていた。
「お前……本当に、あの末弟なのか……?」
「ええ、確かに──以前の私とは、違うかもしれません」
「ですが、母上の言葉を借りるなら──あなたの弟であることに、変わりはない」
リオンの声にわずかな温度が宿っていた。
エルマーの目が見開かれる。
「……俺は、兄上に何と報告すれば」
「事実をお伝えください。末弟は、もはや以前の末弟ではない、と」
エルマーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがてゆっくりと頷き、踵を返した。
倒れた騎士たちを無言で引きずって。
リオンはその背中を、最後まで見送った。
* * *
エルマーが立ち去ってから、しばらくして
中庭の入り口に別の影が現れた。
長兄、ヴィクトル。
その目には隠しきれない憎悪が燃えていた。
「……エルマーから、聞いた」
ヴィクトルの声は、低く震えていた。
「お前が、どれほど『変わった』かをな」
リオンは何も答えなかった。
ただ、静かに長兄を見返した。
ヴィクトルが、一歩踏み出した。
「五日後の試験──」
「俺が、お前を叩き潰す」
「お前の小細工がどこまで通用するか、見せてもらおうじゃないか」
リオンはようやく口を開いた。
「ご自由に」
たった一言。
しかし、その一言がヴィクトルの怒りに油を注いだ。
「……覚悟しておけ」
そう吐き捨てて、長兄は去っていった。
中庭にリオンだけが残された。
陽がゆっくりと高くなろうとしていた。
リオンは自然体に構えた。
(試験まで、あと四日)
(型を、極める)
風がリオンの黒髪を僅かに揺らした。
その瞳の奥には、地球で生涯求め続けた武の極みへの渇望が、静かに燃えていた。




