第一話【修練】
天井を見つめていた。
見覚えのない薄汚れた木目。
その向こうで、窓から差し込む光が埃をぼんやりと照らしている。
(ここは……どこだ)
神崎武は、ゆっくりと身体を起こした。
違和感。
身体が軽すぎる。
伸ばした手が小さすぎた。
掌を見つめる。指の節が細く、まるで子供のものだ。
「……俺は、死んだはずだ」
呟いた声も、自分のものではなかった。
少し高い、少年の声。
頭の奥が痺れるように熱くなり、見知らぬ記憶が流れ込んでくる。
リオン・グラディウス。
落ちぶれた剣術名家、グラディウス家の末弟。
十五歳。
魔力をほとんど持たぬ、家門の恥さらし。
「……そういう、ことか」
武は、いや、今は「リオン」と呼ばれているらしいその身体の主は、ゆっくりと立ち上がった。
部屋の隅に、小さな鏡。
そこに映る顔は、黒髪の少年だった。
地球での自分とは似ても似つかない、整った貴族の面立ち。
しかし、瞳の奥にあるものは、変わらない。
求道者の眼差し。
(俺は、神崎武)
(武の極みを求めて生涯を費やし、そして死んだ)
(だが今、別の身体に、俺がいる)
リオンは深く息を吐いた。
驚きはなかった。
死を恐れぬ求道者にとって、生まれ変わりという現象は、ただの「次の段階」に過ぎない。
ならば、やるべきことは変わらない。
「……武の続きを、ここで」
* * *
部屋の机の上に、奇妙な道具があった。
水晶のような球体が台座に乗っている。
リオンの中に流れ込んだ記憶が、その正体を教えてくれた。
鑑定の魔道具。
この世界では、人の魔力や才能を可視化するために使われる。
リオンは台座に手を伸ばした。
球体が淡く光る。
そして、宙に文字が浮かび上がった。
──リオン・グラディウス Lv.1
──魔力属性:強化系
──スキル:《身体強化》Lv.1
「……強化系か」
しばらくその文字を見つめていた。
末弟の記憶が、新たな情報を運んでくる。
この世界で「強化系」は、戦士の補助としてしか使われない、最も軽視された系統だった。
属性魔法こそが主流であり、強化系は脇役。
リオンが「魔力ゼロ同然」と嘲られてきた所以だ。
しかし。
口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「……強化系のみ、か」
地球で五十年。
古武道の継承者として、あらゆる武術を研究し続けた男。
その男にとって、「強化」とは何を意味するか。
それは、肉体の限界を超えるための唯一の道だった。
「俺の世界では、それこそが、武の根幹だった」
リオンの体内に何かが流れ始める。
地球で「気」と呼んでいた感覚と、まったく同じ。
しかし、密度がまるで違う。
地球の数十倍──いや、数百倍はあろうかという、濃密な力。
(これが、この世界の魔力か)
リオンは、ゆっくりと右の拳を握った。
体内の魔力が自然と拳に集まる。
何の詠唱もなく。
何の魔法陣もなく。
ただ、武術の動きに乗せて、力が形を成していく。
「……面白い」
* * *
扉が乱暴に開いた。
「おい、出てこい役立たず」
声と共に入ってきたのは、二十歳ほどの青年だった。
整った顔立ち、絹の上着、腰には魔剣。
リオンの記憶が告げる。
長兄、ヴィクトル・グラディウス。
家門最強の魔法剣士であり、リオンを最も嫌悪する人物。
「父上がお呼びだ。家門の試験について話があるそうだ」
ヴィクトルは座っているリオンを見下した。
「貴様には関係ない話かもしれないがな。魔力ゼロ同然のお前が、何の役に立つ」
リオンはヴィクトルの顔をじっと見た。
リオンの記憶では、何百回も繰り返されてきた光景。
侮辱。
暴力。
絶望。
しかし、今ここにいるのは、今までのリオンではない。
「……兄上」
「あ?」
「もうその手は、効きません」
ヴィクトルの眉がぴくりと動いた。
「貴様、生意気な口を……!」
腰の魔剣を抜く。
刃に青白い炎が宿る。
風属性の魔剣だ。
「躾けが必要なようだな!」
刃が振り下ろされる。
リオンは、椅子から音もなく立ち上がっていた。
体内の魔力を、右の腕に集中させる。
「《身体強化》」
呟いた瞬間。
リオンの右手が、青白い刃を──素手で、掴んでいた。
「……は?」
ヴィクトルが間抜けな声を漏らした。
刃を握ったまま、リオンは静かに首を傾けた。
「兄上、その剣は良いものですが」
「動きが、遅すぎる」
リオンの左の掌が、ヴィクトルの胸にぽんと当たった。
ただ、それだけだった。
しかし、次の瞬間。
ヴィクトルの身体は宙を舞っていた。
部屋の壁に叩きつけられ、ずるずると床に崩れ落ちる。
「ぐ……あ……」
ヴィクトルは目を見開いたまま、リオンを見上げた。
「な……んだ、それは……」
理解できないという表情。
魔力ゼロ同然のはずの末弟が、家門最強の魔法剣士をたった一動作で吹き飛ばした。
リオンは淡々と告げた。
「ただの武術ですよ。」
* * *
ヴィクトルが床に崩れ落ちた、その瞬間。
リオンの目の前に半透明の文字が浮かんだ。
宙に直接、書かれているような感覚。
──リオン・グラディウス Lv.1
──スキル:《身体強化》Lv.2
──スキルレベル上昇
(……これは)
末弟の記憶を辿る。
家門の鑑定の魔道具がなくとも、ステータスが見える。
末弟の知る常識には、存在しない現象だった。
しかし、不思議と扱い方は分かっていた。
念じれば、見える。
ただ、それだけのこと。
(……謎は、また増えたな)
リオンはステータスに長く目を留めなかった。
倒れたヴィクトルが、震える声で問う。
「お前……いつから……動けるように……」
リオンは答えなかった。
代わりに、もう一度静かに告げた。
「兄上、父上がお呼びとのことでしたね」
「行きましょう」
その声には、もはや末弟の怯えはなかった。
ただ、淡々と、当然のことを告げる響き。
ヴィクトルは震えながら立ち上がった。
何かを言いかけて、しかし言葉が出ない。
リオンはもう兄を見ていなかった。
部屋の窓から見えるグラディウス領の風景を、静かに眺めていた。
落ちぶれた領地。
朽ちかけた屋敷。
しかし、その向こうにまだ見ぬ世界が広がっている。
(武の極み──人間の限界を超えた先)
(地球では届かなかった、その場所へ)
(この身体で、必ず辿り着く)
* * *
執務室の扉が、開かれた。
長兄に連れられて入ってきたリオンを、父オーガスト・グラディウスは書類から顔も上げずに迎えた。
「来たか、リオン」
威厳のある声。
しかし、その口調には、明らかな侮蔑が滲んでいる。
「家門の試験が、五日後に行われる」
「全員、参加せよ。学園推薦枠を、誰が取るかを決める」
オーガストの視線がようやくリオンに向く。
「お前も、形式的に参加せよ。負けてもいい。ただ、家門の体面のためにな」
今までの記憶では、この瞬間、深く頭を下げて去るのが常だった。
しかし、リオンは。
ただ、まっすぐに父を見返した。
そして、静かに言った。
「父上」
「学園推薦枠は、私がいただきます」
執務室の空気が凍りついた。
オーガストの目が見開かれる。
長兄ヴィクトルが息を呑む。
リオンは、それ以上は何も言わず、父の言葉を待った。
長い、長い沈黙。
やがてオーガストは口を開いた。
「……五日後に、見せてもらおう」
リオンは頭を下げた。
「我が家門の試験は、お遊びではないぞ」
「承知しました」
リオンはそれだけ告げて、執務室を出る。
扉の向こうで、長兄が押し殺した声で何かを呟いた。
「……あいつ、何かが、変わったのか」
リオンには、その声は届かなかった。
ただ、廊下を歩きながら、静かに拳を握っていた。
(補助スキルの強化系か──結構)
(武の力で、世界の頂きまで、登ってみせる)
家門の試験まで、あと五日。




