第2話 安酒と最初の依頼
王都の外れにある酒場『酔いどれの泉』は、夜になると最下層の冒険者たちで溢れ返っていた。
木のテーブルは傷だらけで、床には泥と酒の染みがこびりつき、天井からは煤けたランプが揺れている。空気は煙草と汗と安酒の匂いで淀んでいたが、なぜかミリアはその空気が嫌いではなかった。
「ほら、姉ちゃん。もっと飲め飲め!」
ガンツが豪快に笑いながら、ジョッキを押し付けてくる。ドワーフ特有の分厚い髭が酒で濡れ、光っている。
「ありがとう……って、ちょっと待って! これ三杯目よ!?」
ミリアは慌ててジョッキを受け取りながらも、結局一口飲んでしまった。地上の酒は天界の神酒に比べると薄くて安っぽいはずなのに、喉を通る時の温かさが妙に心地よかった。
向かいに座る青年剣士──レックスは、ため息をつきながら杯を傾けていた。黒髪を短く切り揃え、目元に疲労の影が濃い。元王国騎士だという話だったが、今はただの落ちぶれた冒険者らしい。
「本当に……女神だって言うのか?」
レックスが低い声で尋ねてきた。疑いの色が濃い。
「本物よ。信じないの?」
「信じたいが……信じられない。だって、女神がこんな酒場で安酒を飲んで、しかも奢られてるなんて話、聞いたことがない」
隣でエルフの女性魔術師・シエルがくすくすと笑った。銀色の長い髪を耳の後ろに流し、翠色の瞳が好奇心で輝いている。
「面白いわね。神力の波長を測ってみたけど、確かに普通の人間よりは強い。でも『女神』レベルかと言われると……微妙?」
ミリアは頰を膨らませた。
「失礼ね! 私は水と浄化を司る下級女神よ。……まあ、今はちょっと神力が弱まってるけど」
「弱まってるって、どれくらい?」
「えっと……雨を降らせるのは簡単。小川を綺麗にするのも余裕。でも、海を分けるとかは……まだ無理かも」
「まだ、ってことはいつかできるの?」
シエルが身を乗り出す。研究者気質が丸出しだ。
ガンツが大笑いした。
「はっはっは! まあいいじゃねえか。姉ちゃんが女神だろうがただの美人だろうが、酒を注いでくれるなら文句ねえよ!」
ミリアは三人を交互に見つめた。
レックスは真面目そうだけど、どこか諦めている目をしている。シエルは頭が良さそうだけど、明らかに他人を玩具にしがち。ガンツは単純で酒好きで、典型的なダメドワーフ。
(……この人たち、すごいダメ人間臭がする)
そう思った瞬間、なぜか胸の奥が少し温かくなった。天界では、こんな「ダメな感じ」の者たちと接したことは一度もなかった。
────
翌朝。
冒険者ギルドの掲示板の前で、ミリアは頭を抱えていた。
「宿代が……借金が……もう三百ゴールドも!?」
昨夜の飲み代を全額奢ってもらったはずが、なぜか朝起きたら自分が請求書を持っていた。ガンツが「女神様の奢りだろ?」と笑って逃げ、レックスが渋々肩をすくめ、シエルが「データ取りたいから付き合う」と条件を付けた結果、こうなった。
レックスが隣でぼそりと言った。
「とりあえず、簡単な依頼を受けよう。今日中に五十ゴールド稼げば宿代はなんとかなる」
「どんな依頼?」
「これだ。『ホワイトフォレストの湖の水が濁っている。原因調査と可能な限り浄化してほしい。報酬四十ゴールド』」
ミリアの目が輝いた。
「湖の浄化!? それ、私の得意分野じゃない!」
シエルが地図を広げながら説明を加える。
「ホワイトフォレストは王都から馬車で二時間。魔物も弱いゴブリンやスライム程度らしいわ。ちょうどいい試運転ね」
ガンツが斧を担いでニヤリと笑った。
「よし、決まりだ! 女神様の腕前、見せてもらおうぜ!」
こうして、四人は初めてのパーティー行動に出発した。
────
ホワイトフォレストに着いたのは昼過ぎだった。
森の奥にある湖は、確かに濁っていた。表面に黒い粘液のようなものが浮き、魚が何匹か腹を上にして浮いている。原因は近くの廃鉱山から流れ出した汚染物質らしい。
ミリアは湖のほとりに立ち、両手を広げた。
「よーし、見てなさい! これが本物の女神の力よ!」
水色の光が彼女の指先から溢れ出す。神衣の裾がふわりと浮き、髪が風に舞った。まさに神々しい光景──のはずだった。
「浄化せよ、我が神力!」
湖の表面に波紋が広がり、水が少しずつ透明になっていく。
……と思ったら、突然、ドボン! と大きな音を立てて、ミリアが湖に突っ込んだ。
「きゃあっ!?」
バランスを崩して滑ったのだ。神力を使おうと集中しすぎて足元を疎かにした。
レックスが慌てて駆け寄り、彼女を引き上げる。
「大丈夫か!?」
「う……うるさいわね! ちょっと失敗しただけよ!」
びしょ濡れのミリアは頰を赤らめながらも、再び手を掲げた。今度は慎重に。
二度目の神力で、湖の半分ほどが綺麗になった。黒い粘液が分解され、死んでいた魚が数匹、ぴちぴちと動き出す。
シエルが感心したように呟いた。
「すごい……出力は不安定だけど、浄化の質は本物ね。普通の水魔法じゃここまで短時間でできないわ」
ガンツが湖で水を汲んで飲もうとした。
「おいおい、待てよ! まだ完全じゃない!」
ミリアが止めたが、ガンツはすでにゴクリと飲んでいた。
「ん? 美味いぞ。なんか……体が軽くなった気がする」
すると、ガンツの肩に昨日からあった古い傷が、薄く光って消え始めた。
レックスが目を見開いた。
「……回復効果まで?」
ミリアは胸を張ったが、すぐに足がふらついた。神力を使いすぎて疲労が一気に来たのだ。
「ちょっと……休憩……」
彼女が木の根元に座り込むと、シエルが水筒を差し出した。
「はい。普通の水だけど」
「ありがとう……」
ミリアは小さく呟いた。
天界では、こんな風に誰かと一緒に依頼をこなしたり、失敗して笑われたりしたことはなかった。いつも完璧を求められ、失敗すれば叱られるだけ。
ここでは違う。
失敗しても、ガンツが大笑いし、レックスが心配し、シエルが面白がる。
そして、湖が少し綺麗になったことで、森の小さな生き物たちが戻ってきているのが見えた。
依頼主の村人が後で駆けつけてきて、涙を浮かべながら礼を言った。
「ありがとうございます! この湖は村の命の水源なんです……。本当に、女神様みたいだ……」
ミリアは照れくさそうに笑った。
「まあ……本物なんだけどね」
報酬の四十ゴールドを受け取り、四人は王都へ戻る馬車に揺られた。
馬車の中で、ミリアはぼんやりと窓の外を眺めていた。
(一万人……遠い道のりだけど)
でも、今日みたいな「ダメな一日」も、悪くないかもしれない。
レックスが隣で静かに言った。
「明日も……一緒に来るか?」
ミリアは少し驚いて彼を見た。
「……いいの? 私、迷惑かけそうだけど」
「迷惑なのは承知の上だ。どうせ俺たちもダメなパーティーだから、ちょうどいい」
シエルが微笑み、ガンツが鼾をかきながら頷いた。
ミリアは小さく、でも確かに笑った。
地上は、まだ始まったばかりだった。
────
王都のギルドに戻った頃、掲示板の片隅に小さな噂が貼られ始めていた。
『湖を浄化した金髪の美女パーティー。女神っぽいって話だぞ』
それは、まだほんの小さな波紋に過ぎなかった。
(第2話 終わり)




