第1話 天界の厄介者、地上へ
天界の白い大広間は、今日もいつものように退屈だった。
黄金の玉座に腰掛けた最高神ゼウスリアは、ため息をつきながら眼下の雲海を眺めていた。その視線の先には、一人の少女がぷくーっと頰を膨らませて立っている。
「ミリア=アクアリア」
「は、はい……」
金髪をツインテールにまとめ、水色の神衣を纏った少女が、気まずそうに背筋を伸ばした。見た目は人間で言えば二十歳前後。完璧なプロポーションと、まるで宝石のような青い瞳。まさに女神の名に相応しい容姿だった。
ただし、中身は別である。
「まただぞ。お前、また酒の神殿の貯蔵庫を勝手に空にして、博打で全額溶かしたという報告が来ている。しかも今度は下級天使三人を巻き込んで」
「それは……その……ちょっとした社交の場で……」
「社交ではない。賭博だ」
ゼウスリアの声が低くなる。ミリアは肩をすくめ、視線を泳がせた。
「だって天界って退屈なんですよぉ。毎日毎日『秩序を守れ』『人間を見守れ』って……。私だってたまには羽を伸ばしたいじゃないですか」
「その羽を伸ばしすぎて、地上の三つの村で洪水を起こしたのはどう説明する」
「あれは……浄化のつもりでした!」
「言い訳がましい」
最高神は指を鳴らした。すると広間の中央に、巨大な光の鏡が浮かび上がる。中に映るのは、地上の人間たちの姿だった。
「見てみろ。近年、勇者召喚が頻発している。魔王の力が強まっているのだ。お前のような問題児をこのまま天界に置いておくわけにはいかなくなった」
ミリアの顔が青ざめた。
「え、ちょっと待ってください。まさか……」
「地上へ降りろ。反省降臨だ。人間たちの暮らしに溶け込み、己の神力の意味をもう一度考え直せ。戻ってこれるのは、せめて一万人の信者を得た時だ」
「一万人!? 私、下級女神ですよ!? そんなの無理に決まってるじゃないですか!」
「却下。決定事項だ」
ゼウスリアが手を振ると、ミリアの足元に巨大な魔法陣が展開した。逃げようとしたが遅い。光の柱が彼女を包み込み、体が浮かび上がる。
「待って! せめてお酒持たせて! 着替えも! あとお金!」
「必要ない。地上で働け」
最後に聞こえたのは、最高神の呆れたため息だけだった。
次の瞬間、ミリアの意識は地上へと落ちていった。
────
王国アルティシアの王都郊外、召喚の間。
今日も勇者召喚の儀式が行われていた。
豪奢な魔法陣の中心に、光の柱が降り注ぐ。集まった大臣や魔術師たちが息を呑んで見守る中、召喚されたのは黒髪の青年だった。
「おお……! 勇者様!」
「ついに……!」
青年が目を覚まし、周囲を見回す。すると、魔法陣のすぐ横に、もう一つの光の柱が激しく回転していた。
「ん……? なんだこれ……」
青年が呟いた直後、光が爆発的に広がり、一人の少女が勢いよく飛び出した。
「いたっ!」
ミリアは床に尻餅をつきながら、盛大に咳き込んだ。神衣が少し乱れ、金髪がぼさぼさになっている。
「痛い……って、地上? もう着いたの?」
周囲が静まり返った。
王様が、魔術師長が、召喚された勇者が、揃って彼女を見つめている。
ミリアは立ち上がり、胸を張った。
「えーっと、皆さん、こんばんは? 私は水と浄化を司る女神、ミリア=アクアリアです。ちょっとした事情でこちらに降りてきました。よろしくお願いしますね」
沈黙が続いた。
数秒後、魔術師長が震える声で言った。
「……召喚されたのは一人だけのはずですが」
「ええ、私も召喚されたんですよ。たまたまタイミングが同じで」
「女神……だと?」
王様が眉をひそめる。ミリアはにっこり微笑んだ。
「そうです。本物です。ほら、見ての通り可愛いでしょう? 神々しいでしょう?」
誰かが小さく笑った。すぐに咳払いで誤魔化される。
召喚された勇者──名前はユウマというらしい──が、呆然と彼女を見ていた。
「えっと……本当に女神さん?」
「本物よ。信じて」
ミリアは軽く手を振ってみせた。小さな水の玉が指先から生まれ、くるくると回る。
「ほら、水魔法……じゃなくて神力!」
「……水魔法ですよね、それ」
魔術師長が冷ややかに言った。
こうして、ミリア=アクアリアの地上生活は、最悪の形で始まった。
────
その日の夕方。
王宮から半ば強制的に追い出されたミリアは、王都の冒険者ギルドに立っていた。
受付の女性が、疲れた顔でカードを差し出す。
「はい、登録完了。職業欄に……『自称女神』と書きましたけど、いいんですか?」
「いいも何も、それが事実ですもの」
「はあ……」
受付嬢は深くため息をついた。
ギルド内はすでに噂で持ちきりだった。召喚の間に乱入した金髪美女が「女神だ」と主張している、という話だ。笑い声と好奇の視線がミリアに集中する。
財布の中身はゼロ。着の身着のまま。宿を取る金もない。
ミリアはカウンターに突っ伏した。
「……最悪。なんで私だけこんな目に遭うのよ」
そこへ、声が掛かった。
「おい、姉ちゃん。飯奢ってやるから、ちょっと話聞かせろよ」
振り返ると、筋肉質のドワーフがニヤニヤと立っていた。隣には疲れた顔の青年剣士と、興味深げなエルフの女性魔術師がいる。
ドワーフ──ガンツが、ミリアの水色の神衣を指差した。
「女神だって? 本当かよ。だったら酒作ってみせろ。美味い酒をな」
ミリアは顔を上げ、じっと三人を見つめた。
……どう見ても、ダメそうな人たちだった。
剣士は目が死んでいる。魔術師は妙に楽しそうにこちらを観察している。ドワーフは明らかに酒に酔っている。
ミリアは小さく笑った。
「いいわ。奢ってくれるなら、話してあげる。
こうして、彼女の最初の仲間が決まった。
その夜、三人と酒場で飲んだミリアは、初めて地上の酒を口にした。
安酒だったが、なぜか妙に美味かった。
(……まあ、しばらくはこの人たちと、適当に過ごしてみるか)
ミリアは杯を傾けながら、心の中で呟いた。
天界に戻るための道のりは、まだまだ遠い。
一万人の信者?
笑わせる。まずは今日の宿代を稼がないと。
そう思った彼女は、まだ知らなかった。
この先、自分と同じように「ダメ」な人間たちが、どれだけ自分を必要としてくれるのかを。
────
冒険者ギルドの片隅で、ひっそりと小さな水の光が揺れた。
それは、地上に降り立った一人の女神が、初めて見せた、本物の優しさの欠片だった。
(第1話 終わり)




