罠はあせらず
■1
翌日。
ソーニャは朝から、羊を連れて放牧へ出ていた。
修司はというと。
一日中、ナディアのアンズ園で摘果をしていた。
枝についた小さな実や、密集しすぎた実を一つずつ間引いていく。
地味な作業だ。
だが、やることは分かりやすい。
「タダで一週間も泊めてもらうわけにもいきませんし」
そう言って、修司はナディアの仕事を手伝うことにした。
ナディアは最初こそ、
「お客さんなんだから、いいのよ」
と笑っていた。
だが、修司が引かなかったので。
朝食のあと。
アンズ園へ連れていかれた。
最初にやり方だけ教わった。
あとは、ひたすら同じ作業。
一個。
また一個。
枝を移って。
また一個。
昼を過ぎ。
午後も過ぎ。
気づけば、太陽がだいぶ傾いていた。
修司は腰を伸ばす。
「……これはこれで、疲れるな」
そのとき。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえた。
次第に近づいてくる。
修司が顔を上げる。
農場の向こうから、一頭の牝馬が駆けてきた。
乗っているのはソーニャだった。
「シュージ!」
ずいぶん遠くから叫んでいる。
修司は手を止めた。
「どうしました?」
ソーニャは馬を止めると、勢いよく飛び降りた。
息を弾ませている。
頬を赤くして。
それでも、満面の笑みだった。
「豚!」
「……豚?」
ソーニャは何度も頷く。
「昨日の罠!」
修司は目を瞬いた。
ソーニャは、さらに大きな声で言った。
「掛かってた!」
■2
ソーニャは母屋へ駆け込み、鍵のかかった棚から猟銃を取り出した。
慣れた手つきで確認すると、肩に担ぐ。
修司は少し目を丸くした。
「それ、使えるんですか?」
「もちろん」
ソーニャは不思議そうな顔をした。
「野ブタ、まだ生きてるもの」
「ああ……なるほど」
ソーニャは外へ出る。
牝馬のそばまで行ったところで振り返った。
「シュージ」
「はい?」
「馬、乗れる?」
修司は少し考える。
昔、観光牧場で何度か乗ったことはある。
「……ちょびっと」
「じゃあ、後ろ乗って」
「後ろ?」
ソーニャはすでに馬へまたがっていた。
自分の後ろをぽんぽんと叩く。
「ここ」
修司は牝馬を見上げた。
次にソーニャを見る。
「……まあ、そうなりますよね」
おそるおそる後ろへまたがる。
「ちゃんと掴まって」
ソーニャは、自分の腰を軽く叩いた。
修司は固まった。
「……いや、さすがにそれはコンプライアンス的に」
「何言ってるの?」
「でもですね」
「いいから、掴まって」
「……はい」
ソーニャが笑った。
牝馬が走り出す。
「うわっ!」
修司は慌ててソーニャの腰につかまった。
「ほら」
「……すみません」
「何が?」
修司は慌てて身体を支えた。
風にあおられたソーニャの、後ろで一つに束ねた黒髪が、修司の顔を何度も叩く。
「……前が見えない」
「何?」
「なんでもないです」
馬は、そのまま草原と麦畑の間を駆けていった。
■3
しばらく走ると、ソーニャが馬の速度を落とした。
「ほら、見て!」
嬉しそうに前を指差す。
昨日、修司が場所を変えたくくり罠。
その先で、大きな野ブタが地面を蹴って暴れていた。
「ねっ! 掛かってるでしょ!」
ソーニャは馬から飛び降りた。
「シュージ、すごい!」
修司も馬から降り、罠の周囲を見る。
倒れた草。
掘り返された土。
昨日見た通りの通り道だった。
「いや、通り道に置いただけですけど……」
「それができなかったの!」
ソーニャは満面の笑みだった。
「昨日まで、全然掛からなかったんだから!」
「そういうもんですかね……」
修司は頭をかいた。
ソーニャは肩に担いでいた猟銃を下ろした。
表情が変わる。
「少し離れてて」
修司は素直に距離を取った。
ソーニャが猟銃を構える。
乾いた銃声が、草原に響いた。
やがて。
辺りは静かになった。
修司はソーニャのところへ戻る。
地面に横たわった野ブタを見る。
大きい。
かなり大きい。
修司は少し考えてから、牝馬を見る。
どう考えても。
二人と一頭の野ブタを載せて帰れるようには見えなかった。
「……これ」
「うん?」
「どうやって持って帰るんです?」
「…………」
ソーニャが野ブタを見る。
牝馬を見る。
もう一度、野ブタを見る。
「…………あっ」
修司は何も言わなかった。
「いったん村に戻りましょ!」
ソーニャは何事もなかったように牝馬へ駆け寄った。
首筋を撫でる。
「ザリャ、ごめんね。もう一回お願い」
「ヒヒン!」
牝馬が小さく鳴いた。
ソーニャがまた鞍へまたがる。
そして、当然のように自分の後ろを叩いた。
「シュージ!」
修司は少しだけ遠い目をした。
「……またですか」
「早く!」
「はいはい」
修司は再び、ソーニャの後ろへまたがった。
■4
古いピックアップトラックが、夕暮れの農道を走っていた。
荷台には、さっき仕留めた大きな野ブタが横たわっている。
運転しているのは、近所に住む老人だった。
助手席にはソーニャ。
修司は後部座席に座っていた。
「それでね!」
ソーニャは、さっきからずっと上機嫌だった。
「昨日まで、何度やっても全然掛からなかったのよ」
老人がハンドルを握ったまま頷く。
「ほう」
「それをシュージがね、罠をちょっと別の場所に動かしたの」
ソーニャは後ろを振り返った。
「そしたら今日、いきなり!」
「そりゃ大したもんだ」
老人がルームミラー越しに修司を見る。
「日本じゃ、そういう仕事をしてたのか?」
「まあ……ちょっとだけ」
修司は頭をかいた。
「ちょっとじゃないわよ!」
すぐにソーニャが割って入る。
「ベルカが罠に掛かったときも、私がずっと外せなかったのに、シュージはすぐ外したんだから!」
「ほお」
老人が感心したように声を上げる。
「じゃあ、罠の専門家ってわけか」
「いやいや」
修司は慌てて手を振った。
「そんな大したものじゃないですよ」
ただ。
獣がどこを通るか見ただけだ。
日本では、それが仕事だった。
老人は何度も頷いている。
「なるほどなあ」
ソーニャは、なぜか自分のことのように得意げだった。
修司は窓の外を見た。
夕暮れの麦畑が、ゆっくり後ろへ流れていく。
ピックアップがヴォルコワ家の前で止まった。
「助かったわ。ありがとう」
「いいってことよ」
老人は笑った。
「じゃあ俺は店を開けなきゃならん。またな」
「お店?」
「村のパブよ」
ソーニャが答えた。
修司は、
「へえ」
とだけ言った。
■5
夕食の支度は、三人でやった。
ナディアが鍋を見て。
ソーニャが肉を切る。
修司も、言われるまま皿を並べ、パンを切った。
食卓の中央には、夕方に仕留めた野ブタの肉が並んでいる。
村で処理してもらい、その一部を分けてもらったものだった。
ソーニャが肉を一口食べる。
「う~ん、おいしい!」
幸せそうに頬を緩めた。
「豚なんて久しぶり」
もう一切れ。
「シュージ、本当にありがとう」
「いや、俺は罠の場所を変えただけですよ」
「それがすごいのよ」
ソーニャはまったく譲らない。
修司も肉を口へ運ぶ。
脂が甘い。
少し癖はあるが、悪くない。
「こういう家庭料理、久しぶりですね」
ナディアが顔を上げた。
「あら。日本では奥さんが作ってくれないの?」
「奥さん?」
修司は少し笑った。
「いませんよ。独身です」
「そうなの?」
「はい」
ナディアは一瞬だけソーニャを見る。
ソーニャは気づかず、肉を食べていた。
「ご両親は?」
「もう、ずいぶん前に亡くなりました」
「あら……」
「昔の話です」
修司はパンをちぎった。
ソーニャが、また肉へ手を伸ばす。
「やっぱり豚っていいわね」
そのとき。
外から犬の鳴き声がした。
「ワン! ワン!」
ソーニャが顔を上げる。
「ほら、ベルカとチェルもおいしいって言ってる」
「犬の言葉、分かるんですか?」
「当然よ」
ソーニャは胸を張った。
「おいしいに決まってるじゃない」
「それ、犬語じゃなくないですか?」
ナディアが吹き出した。
外から、また鳴き声。
「ワン! ワン!」
ソーニャが笑う。
「ほら。お代わりください、だって」
修司も笑った。
「そうですね。じゃあ、俺ちょっとあげてきますよ」
修司は立ち上がり、キッチンに置いてあった肉のついた骨を手に取った。
「チェルとベルカ、喜ぶわよ」
「じゃ、行ってきます」
修司はそのまま外へ出た。
扉が閉まる。
ナディアは、その背中が見えなくなるのを待った。
「あの日本人、いいかもね」
ソーニャが顔を上げる。
「何が?」
「あなたに」
「……何の話?」
ナディアは肩をすくめた。
「今日、一日中、私の畑仕事を手伝ってくれたでしょう」
「うん」
「夕食の支度も、何も言わずに手伝った」
「それが?」
「女の仕事とか、男の仕事とか」
ナディアは笑った。
「あの人、そういうの全然気にしてないじゃない」
ソーニャは首を傾げた。
「それって、そんなにすごいこと?」
ナディアは娘を見る。
「あなた向きなのよ。そういう男が」
ソーニャは、しばらく母の顔を見ていた。
「……よく分かんない」
「今はね」
ナディアは、それ以上何も言わなかった。
外から。
「こら、取り合うなって!」
修司の声が聞こえてきた。
ソーニャは、思わず笑った。




