正義は負ける
■1
翌朝。
鳥獣被害対策課は、朝から電話が鳴りっぱなしだった。
「はい、鳥獣被害対策課です」
「申し訳ありません。現在、事実関係を確認しております」
「はい。担当者から改めて――」
一本切れる。
また鳴る。
別の電話も鳴る。
修司は自分の席で、テレビを見上げた。
課内の壁に掛けられたテレビ。
朝の情報番組だった。
画面の下に、大きなテロップが出ている。
『北海道庁 住宅地付近でヒグマに発砲』
昨日。
自分たちがいた、清田区の現場だった。
映像には規制線。
警察車両。
遠巻きに撮影された山林。
そして。
『住宅方向へ発砲か 安全管理に問題は?』
修司は眉間を押さえた。
誰かが撮影していたらしい。
SNSに投稿された短い動画が、何度も繰り返し流れている。
銃声。
驚く撮影者の声。
画面が揺れる。
映像だけを見れば。
たしかに、住宅地のすぐそばで発砲したように見える。
「課長」
部下がスマートフォンを持ってきた。
「これ……山田議員の投稿も掘られてます」
修司は画面を見る。
昨夜、自分も見た投稿だった。
『地域住民の安全を第一に、北海道庁へ迅速な対応をお願いしました。本日、無事にヒグマの駆除が完了しました。』
その下には、いくつもの返信がついている。
『迅速な対応って、住宅地で撃たせたってこと?』
『山田議員の要請だったの?』
『説明してください』
修司は目を閉じた。
「……早いな」
「消してないみたいです」
「まあ、昨日の夜は成果だったからね」
そのとき。
部長席の電話が鳴った。
小野寺正臣が受話器を取る。
「はい、小野寺です」
一瞬。
表情が変わった。
「はい!」
課内が少し静かになる。
「承知しました!」
小野寺は短く答え、電話を切った。
それから修司を見る。
「富良野」
「はい」
「午後三時」
小野寺は言った。
「緊急記者会見だ」
修司は黙った。
「お前も出ろ」
電話が、また鳴った。
■2
北海道庁の会議室に、無数のシャッター音が鳴り響いていた。
パシャッ。
パシャパシャッ。
長机の前に、三人が並んでいる。
道議会議員、山田一時。
農政部長、小野寺正臣。
そして。
鳥獣被害対策課長、富良野修司。
山田は、さっきから落ち着きがなかった。
ネクタイを直す。
机の上の水を飲む。
マイクの位置を直す。
そして、また水を飲む。
昨日。
電話口で、
『責任なら私が取る』
と言い切った男と、同じ人物には見えなかった。
もちろん、修司自身も、こんな記者会見には慣れていない。
ただ、どういう場なのかは何となくわかった。
クマを駆除した翌日。
電話口で、
「なぜ麻酔銃を使わなかったんですか」
「殺す必要があったんですか」
そう問い詰めてくる人間たち。
答えを聞きたいわけではない。
自分の中にある答えを、こちらの口から言わせたい。
隙があれば、一言でも引き出してやろう。
修司には、会場にそんな空気が漂っているように感じられた。
「それでは、会見を始めます」
司会役の職員が言った。
一斉に手が上がる。
最初に指名された記者が、山田を見る。
「山田議員に伺います」
「昨夜、ご自身のSNSで、『北海道庁へ迅速な対応を要請した』と発信されています」
山田の手が、わずかに止まった。
「住宅地付近での発砲についても、議員から要請されたのでしょうか」
シャッター音が、また一斉に鳴った。
山田は口を開いた。
■3
山田は口を開いた。
「私は、反対したんです」
山田は言った。
修司は、思わず横を見た。
「……え?」
シャッター音が鳴る。
山田は修司を見なかった。
正面の記者だけを見ている。
「住宅地ですからね」
「当然、発砲には危険が伴います」
「私は担当部署に対して、くれぐれも慎重に対応するよう申し上げました」
修司は耳を疑った。
昨日。
電話口で聞いた言葉が蘇る。
『だったら、さっさとやってくれ』
『責任なら私が取る』
『いいから、やってくれ』
その同じ男が。
今、目の前で。
「では、発砲そのものを要請したわけではない?」
記者が聞いた。
「ありません」
山田は即答した。
「むしろ私は、危険な場所での発砲には反対していました」
パシャッ。
パシャパシャッ。
修司は椅子から少し身を乗り出した。
「山田先生、それは――」
その瞬間。
右足に、強い痛みが走った。
「……っ」
机の下。
革靴が、修司の靴を力強く踏みつけている。
小野寺だった。
修司は横を見る。
小野寺は正面を向いたまま。
表情ひとつ変えていない。
足だけが。
修司の足を、強く踏み続けている。
黙っていろ。
言葉にしなくても、それだけは分かった。
修司は口を閉じた。
記者が続ける。
「では、最終的に発砲を判断したのは誰ですか?」
一瞬。
山田の視線が泳いだ。
そして。
「それは……」
山田は咳払いをした。
「現場の担当者が判断したものと認識しています」
修司は、何も言わなかった。
言えなかった。
小野寺の靴は。
まだ、修司の足の上にあった。
■4
記者会見が終わった。
廊下へ出たところで、小野寺が言った。
「富良野。ちょっと来い」
修司は黙って、その後についていく。
連れていかれたのは、庁内の小さな打ち合わせ室だった。
小野寺がドアを閉めた。
「富良野」
修司は黙って立っている。
小野寺は腕を組んだ。
「お前、分かってるよな」
修司は返事をしなかった。
「さっきの会見だ」
「お前が余計なことを言えば、山田先生だけじゃ済まないんだぞ」
「局長、それどころか知事の責任問題になるかもしれん」
「そんなことになったら私の――」
小野寺が言葉を止めた。
「ゴホッ、ゴホッ」
わざとらしく咳払いをする。
修司は黙って聞いていた。
何を言いかけたのか。
聞かなくても分かる。
「とにかくだ」
小野寺は続けた。
「組織にいる以上、波風を立てるな」
「お前、あと定年まで何年だ」
「……二十年くらいです」
「だったら、あと二十年くらい我慢しろ」
修司は顔を上げた。
小野寺は平然としている。
「四十を超えて、いちいち正しいだの間違ってるだの言ってどうする」
「大人の対応をしろ」
修司は、何も答えなかった。
■5
その夜。
真っ暗なワンルームに、テレビの光だけが揺れていた。
修司は、電気もつけずに床へ座っている。
画面には、昼間の記者会見が映っていた。
『山田議員は、住宅地付近での発砲について、慎重な対応を求めていたと説明しました』
山田の顔。
小野寺の顔。
その隣に。
黙って座っている、自分の顔。
修司はぼんやりと画面を見た。
「……俺、こんな顔してたんだな」
疲れていた。
怒っているようにも見えない。
悲しんでいるようにも見えない。
ただ。
何も残っていない顔だった。
テレビの中で、山田が答える。
『私は、発砲には反対したんです』
修司はリモコンを手に取った。
テレビを消す。
部屋が真っ暗になった。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
メッセージが届いている。
昨日、現場にいた猟友会の男からだった。
『富良野さん。会見、見ました』
続けて、もう一通。
『昨日の電話、こっちは聞いてますから』
そして。
『富良野さんが止めようとしてたのも、俺たちは分かってます』
修司は、しばらく画面を見つめていた。
また、スマートフォンが震える。
『だから、頭なんか下げないでください』
修司は俯いた。
「……なんだよ」
声がかすれた。
「なんで……」
目の奥が熱くなる。
修司は、スマートフォンを握ったまま顔を伏せた。
「……俺」
声が震える。
「何のために、道庁職員になったんだっけ……」
涙が、一滴。
床へ落ちた。
その夜。
富良野修司は、退職を決めた。




