道庁のガス星
■1
北海道庁農政部、鳥獣被害対策課。
通称――クマ課。
午前八時四十五分。
始業前から、電話が鳴っていた。
「はい、鳥獣被害対策課です」
若い職員が受話器を取る。
その隣でも、別の電話が鳴った。
富良野修司は、自分の机に鞄を置く。
「おはよう」
「おはようございます、課長」
部下が受話器を押さえた。
「札幌市南区です。住宅地の裏山にヒグマが出たそうです」
「警察と猟友会は?」
「市のほうで連絡済みです」
「じゃ、現地の状況だけ共有してもらって。必要なら振興局にも回しといて」
「はい」
別の職員が写真を持ってきた。
「課長、こっちも見てもらえます?」
「ん?」
「新ひだか町からです。牧草地のシカ被害が増えてるそうで」
修司は写真を受け取った。
牧草地。
防護柵。
荒らされた土。
何枚かめくる。
「この辺、かなり通られてるな」
「分かるんですか?」
修司は柵際の草を指差した。
「ここ。獣道になってる」
写真を返す。
「足跡も残ってないか、町に確認してみて」
「分かりました」
今度は別の席から声が飛んだ。
「課長。浦河町から、電気柵を入れたのに被害が止まらないって相談です」
「また?」
修司は席を立った。
職員のモニターを覗き込む。
畑。
電気柵。
沢。
周囲の草。
「柵は?」
「業者に見てもらって、異常なしだそうです」
「じゃ、こっちじゃない?」
修司は画面の端を指した。
沢沿い。
草が細く倒れている。
「獣道ですか?」
「たぶん。入口を塞いでないんだろ」
「写真だけで分かるもんですね」
「長年やってれば、嫌でもね」
修司が席へ戻った、そのとき。
また電話が鳴った。
全員、別の電話や書類で手が塞がっている。
誰が取るかなんて決まっていない。
取れる人間が取ればいい。
今は、自分だった。
修司は受話器を取る。
「はい、鳥獣被害対策課です」
耳元で、男の怒鳴り声が響いた。
『道は何やってるんだ! クマが出てるんだぞ!』
修司は天井を見た。
まだ、始業前である。
「はい。まず市町村名と場所を教えてください」
今日も。
勤務が始まった。
■2
昼食を取れたのは、午後二時を過ぎてからだった。
修司は自席で、コンビニのおにぎりの包装を剥がす。
鮭。
朝、庁舎へ入る途中で買ったものだ。
ようやく一口かじったところで。
「課長」
呼ばれた。
修司は、おにぎりを持ったまま顔を上げる。
「はい」
「札幌市から応援要請です」
「……クマ?」
「清田区です。住宅地の近くまで下りてきて、そのまま動かないそうです」
修司はおにぎりを机へ置いた。
職員が、電話の内容を走り書きしたメモを差し出す。
「市と警察で周辺の立ち入りを止めています。猟友会も現地入りしています」
「人は?」
「今のところ被害はありません。ただ、住宅までかなり近いです」
修司はパソコンで清田区の地図を開いた。
住宅地。
そのすぐ裏に残る緑地。
目撃地点を、職員が画面上で指す。
「市だけじゃ厳しい?」
「現場調整の応援が欲しいそうです。緊急銃猟も検討してるみたいで」
修司は周囲を見回した。
一人は電話中。
一人は別件の資料を抱えている。
もう一人は振興局とのオンライン会議。
「誰か出せそう?」
職員も周囲を見る。
「……厳しいですね」
修司は数秒黙った。
それから、食べかけのおにぎりを見る。
ため息をつく。
「じゃ、俺行くわ」
「課長がですか?」
「手が空いてる奴が行けばいいでしょ」
修司はおにぎりを袋へ戻した。
上着を取る。
「札幌市に、今から向かうって連絡しといて」
「分かりました」
修司は歩き出す。
二歩。
止まる。
机へ戻った。
食べかけのおにぎりを手に取る。
「これは持ってく」
職員が少し笑った。
修司も笑った。
そして。
午後二時十五分。
富良野修司は、札幌市清田区へ向かった。
■3
清田区に着いた頃には、午後三時を回っていた。
住宅地の外れ。
道路の先は、パトカーと札幌市の車両で封鎖されている。
修司は市の職員に案内され、規制線の内側へ入った。
「クマは?」
「まだいます」
職員が住宅地の向こうを指した。
家々の裏手。
木々の残る斜面に、黒い影が見える。
大きい。
成獣だ。
修司は顔をしかめた。
「近いな……」
猟友会の男が双眼鏡を下ろした。
「さっきから、あの辺をうろついてます」
「撃てそうですか?」
男は首を横に振った。
「今はやめたほうがいいですね」
修司も頷く。
クマの向こうには住宅がある。
少し角度が変われば、道路も入る。
「ですよね」
「外したときが怖い」
「無理しないでください」
修司は周囲を見た。
「住民の避難は?」
「近い家には声をかけてます。外には出ないようにしてもらってます」
「警察は?」
「裏側も押さえてくれてます」
修司はもう一度、クマを見る。
急いで撃つ必要はない。
動くのを待つ。
安全に撃てる場所まで出てくれば、そのとき対応すればいい。
少なくとも。
今ここで、無理をする理由はない。
「慎重にいきましょう」
修司が言うと、猟友会の男も頷いた。
そのとき。
ポケットのスマートフォンが震えた。
画面を見る。
知らない番号だった。
「はい。富良野です」
『北海道庁の富良野課長かね?』
■4
「はい。富良野です」
『北海道庁の富良野課長かね?』
男の声。
「はい」
『山田一時です』
修司は一瞬、黙った。
道議会議員。
名前くらいは、もちろん知っている。
「お疲れさまです」
『いま、清田にいるんだろ?』
「はい」
『こっちにも連絡が来てるんだよ』
「連絡?」
『後援会の人間からだ』
山田は、苛立った声で続けた。
『住宅地にクマが出てるのに、まだ何もしてないそうじゃないか』
修司は、遠くのクマを見た。
「いま猟友会と対応しています」
『じゃあ、なんで撃たないんだ?』
修司は小さく息を吐いた。
「住宅が近すぎます」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
すぐそばにいた猟友会の男が、修司のほうを見る。
修司と目が合った。
男は何も言わない。
ただ、わずかに眉をひそめた。
■5
『住宅が近すぎる?』
山田の声が低くなった。
『だから何だ。住民に何かあってからじゃ遅いだろ』
「現場では、安全に撃てる位置まで動くのを待っています」
『待ってる間に人が襲われたら、誰が責任を取るんだ?』
修司は黙った。
『富良野君』
「はい」
『住民の安全が最優先だろ』
「それは、もちろんです」
『だったら、さっさとやってくれ』
修司は遠くの住宅を見る。
「ただ、猟友会の方も、今の位置から撃つのは危険だと――」
『責任なら私が取る』
山田は言い切った。
『いいから、やってくれ』
修司は何も答えなかった。
『それと』
「はい」
『駆除が終わったら、真っ先に私へ報告を入れるように』
通話が切れた。
修司は、しばらくスマートフォンを見つめていた。
それから顔を上げる。
猟友会の男がこちらを見ている。
修司は小さく息を吐いた。
「……だ、そうです」
男は苦笑した。
「先生がそう言ってるんですか」
「すみません」
「富良野さんが謝ることじゃないですよ」
男はもう一度、クマの位置を確認した。
双眼鏡を覗く。
しばらく黙る。
「……まあ」
双眼鏡を下ろした。
「さっきよりは、ましですね」
「いけますか?」
「一応、今なら安全です」
修司はすぐには答えなかった。
「無理なら、やめてください」
「分かってます」
男は猟銃を構えた。
周囲の警察官と市職員が動きを止める。
修司も息を止めた。
クマが顔を上げる。
一秒。
二秒。
銃声が響いた。
乾いた音が、住宅地の裏山へ跳ね返る。
クマの身体が大きく揺れた。
そして。
その場に崩れ落ちた。
■6
クマは、動かなかった。
修司はしばらく、その場に立っていた。
猟友会の男が銃を下ろす。
「……入りましたね」
修司は息を吐いた。
「ありがとうございます」
周囲にいた市の職員たちも、ようやく緊張を解いた。
警察官が無線で何かを伝えている。
これで。
少なくとも、住民が襲われる心配はなくなった。
修司はスマートフォンを取り出した。
電話をかける。
相手は、すぐに出た。
『どうだった?』
山田議員だった。
「駆除できました」
『そうか!』
声が一気に明るくなる。
『ほら、私が言った通りだったろ』
修司は黙った。
『あそこで待ってたら、いつ住民に被害が出るか分からなかったんだ』
「……はい」
『迅速な判断が大事なんだよ、こういうのは』
「はい」
『ご苦労さん』
電話が切れた。
修司はスマートフォンを下ろした。
「先生、なんて?」
猟友会の男が聞いた。
「自分の言った通りだった、だそうです」
男は鼻で笑った。
「そりゃよかった」
その数分後。
男がスマートフォンを見て、呆れた声を上げた。
「富良野さん」
「はい?」
「これ、見てくださいよ」
画面を差し出される。
山田一時のSNSだった。
『地域住民の安全を第一に、北海道庁へ迅速な対応をお願いしました。本日、無事にヒグマの駆除が完了しました。引き続き、地域の安心・安全のため全力で取り組んでまいります。』
修司は黙って画面を見た。
猟友会の男がため息をつく。
「さっそく成果報告してますよ」
そして、少し笑った。
「ったく。よくこんなこと言えるもんですね」
修司も苦笑した。
「まあ……政治家ですから」
それで終わりではなかった。
クマの死骸の搬出。
現場の確認。
市との記録整理。
警察との情報共有。
猟友会への連絡。
規制解除の確認。
一つ終われば、次がある。
全部片付いた頃には、すっかり夜になっていた。
修司は帰宅途中、信号待ちの車の運転席で窓の外を見た。
華やかな札幌の繁華街には、明かりが溢れている。
居酒屋の前では若者たちが笑い、仕事帰りの人々が歩いていた。
街は、これから夜を楽しむところだった。
修司の一日は、ようやく終わった。




