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2/9

道庁のガス星

■1


北海道庁農政部、鳥獣被害対策課。


通称――クマ課。


午前八時四十五分。


始業前から、電話が鳴っていた。


「はい、鳥獣被害対策課です」


若い職員が受話器を取る。


その隣でも、別の電話が鳴った。


富良野修司は、自分の机に鞄を置く。


「おはよう」


「おはようございます、課長」


部下が受話器を押さえた。


「札幌市南区です。住宅地の裏山にヒグマが出たそうです」


「警察と猟友会は?」


「市のほうで連絡済みです」


「じゃ、現地の状況だけ共有してもらって。必要なら振興局にも回しといて」


「はい」


別の職員が写真を持ってきた。


「課長、こっちも見てもらえます?」


「ん?」


「新ひだか町からです。牧草地のシカ被害が増えてるそうで」


修司は写真を受け取った。


牧草地。


防護柵。


荒らされた土。


何枚かめくる。


「この辺、かなり通られてるな」


「分かるんですか?」


修司は柵際の草を指差した。


「ここ。獣道になってる」


写真を返す。


「足跡も残ってないか、町に確認してみて」


「分かりました」


今度は別の席から声が飛んだ。


「課長。浦河町から、電気柵を入れたのに被害が止まらないって相談です」


「また?」


修司は席を立った。


職員のモニターを覗き込む。


畑。


電気柵。


沢。


周囲の草。


「柵は?」


「業者に見てもらって、異常なしだそうです」


「じゃ、こっちじゃない?」


修司は画面の端を指した。


沢沿い。


草が細く倒れている。


「獣道ですか?」


「たぶん。入口を塞いでないんだろ」


「写真だけで分かるもんですね」


「長年やってれば、嫌でもね」


修司が席へ戻った、そのとき。


また電話が鳴った。


全員、別の電話や書類で手が塞がっている。


誰が取るかなんて決まっていない。


取れる人間が取ればいい。


今は、自分だった。


修司は受話器を取る。


「はい、鳥獣被害対策課です」


耳元で、男の怒鳴り声が響いた。


『道は何やってるんだ! クマが出てるんだぞ!』


修司は天井を見た。


まだ、始業前である。


「はい。まず市町村名と場所を教えてください」


今日も。


勤務が始まった。


■2


昼食を取れたのは、午後二時を過ぎてからだった。


修司は自席で、コンビニのおにぎりの包装を剥がす。


鮭。


朝、庁舎へ入る途中で買ったものだ。


ようやく一口かじったところで。


「課長」


呼ばれた。


修司は、おにぎりを持ったまま顔を上げる。


「はい」


「札幌市から応援要請です」


「……クマ?」


「清田区です。住宅地の近くまで下りてきて、そのまま動かないそうです」


修司はおにぎりを机へ置いた。


職員が、電話の内容を走り書きしたメモを差し出す。


「市と警察で周辺の立ち入りを止めています。猟友会も現地入りしています」


「人は?」


「今のところ被害はありません。ただ、住宅までかなり近いです」


修司はパソコンで清田区の地図を開いた。


住宅地。


そのすぐ裏に残る緑地。


目撃地点を、職員が画面上で指す。


「市だけじゃ厳しい?」


「現場調整の応援が欲しいそうです。緊急銃猟も検討してるみたいで」


修司は周囲を見回した。


一人は電話中。


一人は別件の資料を抱えている。


もう一人は振興局とのオンライン会議。


「誰か出せそう?」


職員も周囲を見る。


「……厳しいですね」


修司は数秒黙った。


それから、食べかけのおにぎりを見る。


ため息をつく。


「じゃ、俺行くわ」


「課長がですか?」


「手が空いてる奴が行けばいいでしょ」


修司はおにぎりを袋へ戻した。


上着を取る。


「札幌市に、今から向かうって連絡しといて」


「分かりました」


修司は歩き出す。


二歩。


止まる。


机へ戻った。


食べかけのおにぎりを手に取る。


「これは持ってく」


職員が少し笑った。


修司も笑った。


そして。


午後二時十五分。


富良野修司は、札幌市清田区へ向かった。


■3


清田区に着いた頃には、午後三時を回っていた。


住宅地の外れ。


道路の先は、パトカーと札幌市の車両で封鎖されている。


修司は市の職員に案内され、規制線の内側へ入った。


「クマは?」


「まだいます」


職員が住宅地の向こうを指した。


家々の裏手。


木々の残る斜面に、黒い影が見える。


大きい。


成獣だ。


修司は顔をしかめた。


「近いな……」


猟友会の男が双眼鏡を下ろした。


「さっきから、あの辺をうろついてます」


「撃てそうですか?」


男は首を横に振った。


「今はやめたほうがいいですね」


修司も頷く。


クマの向こうには住宅がある。


少し角度が変われば、道路も入る。


「ですよね」


「外したときが怖い」


「無理しないでください」


修司は周囲を見た。


「住民の避難は?」


「近い家には声をかけてます。外には出ないようにしてもらってます」


「警察は?」


「裏側も押さえてくれてます」


修司はもう一度、クマを見る。


急いで撃つ必要はない。


動くのを待つ。


安全に撃てる場所まで出てくれば、そのとき対応すればいい。


少なくとも。


今ここで、無理をする理由はない。


「慎重にいきましょう」


修司が言うと、猟友会の男も頷いた。


そのとき。


ポケットのスマートフォンが震えた。


画面を見る。


知らない番号だった。


「はい。富良野です」


『北海道庁の富良野課長かね?』


■4


「はい。富良野です」


『北海道庁の富良野課長かね?』


男の声。


「はい」


『山田一時です』


修司は一瞬、黙った。


道議会議員。


名前くらいは、もちろん知っている。


「お疲れさまです」


『いま、清田にいるんだろ?』


「はい」


『こっちにも連絡が来てるんだよ』


「連絡?」


『後援会の人間からだ』


山田は、苛立った声で続けた。


『住宅地にクマが出てるのに、まだ何もしてないそうじゃないか』


修司は、遠くのクマを見た。


「いま猟友会と対応しています」


『じゃあ、なんで撃たないんだ?』


修司は小さく息を吐いた。


「住宅が近すぎます」


電話の向こうが、一瞬静かになった。


すぐそばにいた猟友会の男が、修司のほうを見る。


修司と目が合った。


男は何も言わない。


ただ、わずかに眉をひそめた。


■5


『住宅が近すぎる?』


山田の声が低くなった。


『だから何だ。住民に何かあってからじゃ遅いだろ』


「現場では、安全に撃てる位置まで動くのを待っています」


『待ってる間に人が襲われたら、誰が責任を取るんだ?』


修司は黙った。


『富良野君』


「はい」


『住民の安全が最優先だろ』


「それは、もちろんです」


『だったら、さっさとやってくれ』


修司は遠くの住宅を見る。


「ただ、猟友会の方も、今の位置から撃つのは危険だと――」


『責任なら私が取る』


山田は言い切った。


『いいから、やってくれ』


修司は何も答えなかった。


『それと』


「はい」


『駆除が終わったら、真っ先に私へ報告を入れるように』


通話が切れた。


修司は、しばらくスマートフォンを見つめていた。


それから顔を上げる。


猟友会の男がこちらを見ている。


修司は小さく息を吐いた。


「……だ、そうです」


男は苦笑した。


「先生がそう言ってるんですか」


「すみません」


「富良野さんが謝ることじゃないですよ」


男はもう一度、クマの位置を確認した。


双眼鏡を覗く。


しばらく黙る。


「……まあ」


双眼鏡を下ろした。


「さっきよりは、ましですね」


「いけますか?」


「一応、今なら安全です」


修司はすぐには答えなかった。


「無理なら、やめてください」


「分かってます」


男は猟銃を構えた。


周囲の警察官と市職員が動きを止める。


修司も息を止めた。


クマが顔を上げる。


一秒。


二秒。


銃声が響いた。


乾いた音が、住宅地の裏山へ跳ね返る。


クマの身体が大きく揺れた。


そして。


その場に崩れ落ちた。


■6


クマは、動かなかった。


修司はしばらく、その場に立っていた。


猟友会の男が銃を下ろす。


「……入りましたね」


修司は息を吐いた。


「ありがとうございます」


周囲にいた市の職員たちも、ようやく緊張を解いた。


警察官が無線で何かを伝えている。


これで。


少なくとも、住民が襲われる心配はなくなった。


修司はスマートフォンを取り出した。


電話をかける。


相手は、すぐに出た。


『どうだった?』


山田議員だった。


「駆除できました」


『そうか!』


声が一気に明るくなる。


『ほら、私が言った通りだったろ』


修司は黙った。


『あそこで待ってたら、いつ住民に被害が出るか分からなかったんだ』


「……はい」


『迅速な判断が大事なんだよ、こういうのは』


「はい」


『ご苦労さん』


電話が切れた。


修司はスマートフォンを下ろした。


「先生、なんて?」


猟友会の男が聞いた。


「自分の言った通りだった、だそうです」


男は鼻で笑った。


「そりゃよかった」


その数分後。


男がスマートフォンを見て、呆れた声を上げた。


「富良野さん」


「はい?」


「これ、見てくださいよ」


画面を差し出される。


山田一時のSNSだった。


『地域住民の安全を第一に、北海道庁へ迅速な対応をお願いしました。本日、無事にヒグマの駆除が完了しました。引き続き、地域の安心・安全のため全力で取り組んでまいります。』


修司は黙って画面を見た。


猟友会の男がため息をつく。


「さっそく成果報告してますよ」


そして、少し笑った。


「ったく。よくこんなこと言えるもんですね」


修司も苦笑した。


「まあ……政治家ですから」


それで終わりではなかった。


クマの死骸の搬出。


現場の確認。


市との記録整理。


警察との情報共有。


猟友会への連絡。


規制解除の確認。


一つ終われば、次がある。


全部片付いた頃には、すっかり夜になっていた。


修司は帰宅途中、信号待ちの車の運転席で窓の外を見た。


華やかな札幌の繁華街には、明かりが溢れている。


居酒屋の前では若者たちが笑い、仕事帰りの人々が歩いていた。


街は、これから夜を楽しむところだった。


修司の一日は、ようやく終わった。


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