退職旅行 ニホンから来ました
■1
「クマもいねぇ!」
「愛護団体様からの苦情電話も来ねえ!」
さらにアクセルを開く。
「俺に責任を押しつけるクソ議員もいねぇぇぇ!」
四十二歳。
北海道庁農政部 鳥獣被害対策課。
通称――クマ課。
そこを辞めたばかりの富良野修司は、ユーラシア大陸のど真ん中を、バイクで爆走していた。
右を見れば、草原。
左を見れば、麦畑。
前を見れば、地平線。
北海道だって広い。
だが、ここは広さの次元が違った。
山がない。
森もない。
町もない。
ただ空と大地だけが、どこまでも続いている。
修司は大声で笑った。
退職届を叩きつけた。
日本を飛び出した。
現地で中古のバイクを買った。
行き先なんて決めていない。
いつ帰るかも決めていない。
完全なヤケクソ旅行だった。
それでいい。
今は誰からも電話がかかってこない。
誰にも謝らなくていい。
誰の顔色も見なくていい。
風だけが、ヘルメットを叩いている。
修司はもう一度アクセルを開いた。
「でっけえなぁぁぁ、世界!」
叫び声は、地平線の向こうへ消えていった。
■2
「キャンッ!」
白い牧羊犬のベルカが、甲高い声を上げた。
「ベルカ、動かないで!」
どれくらい、こうしていただろう。
ソーニャは額の汗をぬぐった。
少し離れた柵柱には、一頭の牝馬がつながれている。
そのそばでは、黒い牧羊犬が落ち着かなげにベルカの周りを歩き回っていた。
ソーニャ・ヴォルコワは、地面に膝をつく。
ベルカの右後ろ脚。
そこには、細いワイヤーが食い込んでいた。
野ブタ用に仕掛けた、くくり罠だった。
まさか自分の牧羊犬がかかるとは思わなかった。
「キャン! キャン!」
「だから、動かないでってば!」
言って分かるなら苦労はしない。
ベルカが脚を引くたび、輪がさらに締まる。
ソーニャはワイヤーへ手を伸ばした。
だが、どう外せばいいのか分からない。
力任せに引けば、もっと締まる。
切ろうにも、道具は牧場に置いてきた。
「もう……なんでこんなときに……」
黒い牧羊犬が、心配そうにベルカへ鼻先を寄せる。
少し離れた牝馬も、こちらを気にしている。
みんな心配している。
分かっている。
一番どうにかしたいのは、自分だ。
ソーニャはもう一度、ワイヤーをつまんだ。
「痛いよね……ごめんね」
そのとき。
黒い牧羊犬が、ふいに顔を上げた。
遠くを見つめている。
牝馬も細長い耳をピンと立てた。
「……どうしたの?」
ソーニャは二頭の視線を追った。
遠くから、低い音が聞こえる。
地平線の向こう。
一本の道を、見慣れないバイクが走ってきた。
黒い牧羊犬が一度、短く「ウー」と唸る。
牝馬も「ブルルッ」と鼻を鳴らした。
バイクは次第に速度を落とし、ソーニャたちの近くで止まった。
エンジン音が消える。
乗っていた男がヘルメットを脱いだ。
東洋人だった。
男は、ワイヤーに締めつけられたベルカの脚を見る。
それから、たどたどしいロシア語で言った。
「ナヴェールナ、ボーリナ……」
■3
「痛そうですね……」
男は、たどたどしいロシア語でそう言った。
ソーニャは顔を上げる。
「そうなの! さっきからずっと外そうとしてるんだけど、触ると暴れるし、引っ張るともっと締まっちゃって、それで――」
男の表情が固まった。
「……?」
ソーニャは口を閉じた。
どうやら、ほとんど聞き取れていないらしい。
男は困ったように笑う。
それからベルカを指差し、両手を前へ出した。
見せてほしい。
たぶん、そういう意味だ。
「……分かるの?」
男は首を傾げる。
今度はソーニャのほうが諦めた。
「いいわ。見て」
身体をずらし、場所を空ける。
男はベルカの横へしゃがみ込んだ。
ワイヤーを見る。
地面を見る。
締まった輪を見る。
そして。
「……ああ」
何か納得したように、小さく頷いた。
ソーニャは目を瞬く。
男がベルカの脚へ手を伸ばす。
「待って!」
思わず声を上げた。
男が手を止める。
ソーニャはワイヤーを指差した。
「引っ張ったら、もっと締まるの」
伝わったのかどうか。
男は何度か頷いた。
そして、ワイヤーへ手をかける。
次の瞬間。
締めつけていた輪が、するりと広がった。
「え?」
男はそのまま、ベルカの脚を輪から抜いた。
外れた。
あれだけ苦労していた罠が。
あっという間に。
■4
「ベルカ!」
ソーニャは、白い牧羊犬を抱きしめた。
ベルカは一度だけ右後ろ脚を浮かせたものの、すぐに地面へ下ろした。
歩ける。
「よかった……」
ソーニャは何度も、その身体を撫でる。
ベルカも尾を激しく振り、ソーニャの頬をぺろぺろと舐めた。
少し離れていた黒い牧羊犬も駆け寄ってくる。
ベルカの鼻先へ自分の鼻を押しつけ、何度も匂いを確かめる。
ベルカも嬉しそうに尾を振った。
柵柱につながれた牝馬も、遠くから二頭を見つめている。
耳を前へ向け、小さく鼻を鳴らした。
「大丈夫よ」
ソーニャは牝馬にも声をかけた。
「ベルカ、大丈夫だから」
それから、ようやく男を見る。
男は少し離れたところで立ち上がり、外した罠をまじまじと見つめていた。
ソーニャはベルカから手を離す。
そして男の前まで歩いた。
「ありがとう」
今度はゆっくり言った。
男にも伝わったらしい。
小さく笑って、首を振る。
「ニチェヴォ」
大したことじゃない。
そんな意味だったはずだ。
ベルカも男の足元へ歩いていく。
鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐ。
男は少し警戒するように手を止めた。
ベルカはその手を一度だけ舐めた。
「ふふっ」
ソーニャは思わず笑った。
「ベルカも、ありがとうって」
男は意味が分からなかったらしい。
また少し困った顔をした。
それでも。
ベルカの頭を、そっと撫でた。
■5
修司は、外したくくり罠を手に取った。
ワイヤー。
輪。
締め具。
見慣れた形だった。
「……これ、野ブタ用だよな」
ソーニャが首を傾げた。
修司は立ち上がり、周囲を見渡す。
柵。
麦畑。
草むら。
地面に残る跡。
それから、罠が置かれていた場所を見る。
「ここじゃないな……」
修司は少し歩いた。
柵沿いを進み、地面を見ながら何度か立ち止まる。
ソーニャが不思議そうについてくる。
やがて修司は、一か所で足を止めた。
柵の脇。
草が少し倒れている。
修司はソーニャを手招きした。
「ここ」
ソーニャが近づいてくる。
修司は手に持った罠を指差し、それから足元を指した。
「罠。ここ」
片言のロシア語で伝える。
ソーニャは足元を見る。
次に、元の場所を見る。
「ここに置けって?」
修司は頷いた。
「はい」
ソーニャはまだ半信半疑の顔をしていた。
「……まあ、いいけど」
二人で罠を移す。
修司は細かい説明はしなかった。
どうせ早口で返されたら、また分からなくなる。
罠を置き終えると、修司は立ち上がった。
「よし」
ソーニャも満足したのか、手についた土を払う。
それから、少し離れた柵柱へ向かった。
つながれていた牝馬のもとへ行き、引き綱を外す。
「帰ろう」
ソーニャがそう言った。
たぶん。
修司には、そのくらいしか聞き取れなかった。
牝馬がソーニャに引かれて歩いてくる。
その姿を見つけたベルカが、嬉しそうに駆け寄った。
「ワンッ!」
牝馬がベルカを避けるように、横へ一歩ずれた。
その大きな身体が。
修司のバイクへ触れた。
「……あ」
修司が振り返る。
ガッシャーン。
バイクが、派手な音を立てて横倒しになった。
「…………」
「…………ごめんなさい。」
■6
修司は、倒れたバイクを起こした。
「よいしょっと……」
見たところ、派手に壊れてはいない。
ミラーが曲がった。
車体にも傷がついた。
だが、その程度なら走れそうだった。
修司はキーを回す。
セルを押した。
キュルルルル……。
エンジンはかからない。
「……あれ?」
もう一度。
キュルルルル……。
やはり、かからない。
修司はしゃがみ込み、車体を覗いた。
さすがに、ここで直せるような知識はない。
「まいったな……」
ソーニャが不安そうに覗き込む。
「……壊れた?」
修司は苦笑する。
「たぶん」
ソーニャの顔が曇った。
「ごめんなさい……」
「いや、まあ」
わざとやったわけじゃない。
修司はハンドルを握り、バイクを押してみた。
タイヤは回る。
押して歩くことはできそうだ。
「町?」
修司は道の先を指差した。
ソーニャはすぐに頷く。
それから指を何本か立て、道の向こうを示した。
近い。
たぶん、そう言っている。
修司は小さく息を吐いた。
この景色で言う「近い」が何キロなのかは、少し怖かった。
だが。
歩けない距離ではないらしい。
「じゃあ、行きますか」
ソーニャは頷いた。
牝馬を引くソーニャ。
バイクを押す修司。
その周りを、二頭の牧羊犬が行ったり来たりする。
さっきまで地平線へ向かって一人で走っていた道を。
今度は五人――いや、二人と三頭で、ゆっくり歩いていった。
■7
夕食は、羊肉とジャガイモの煮込みだった。
大きく切った肉と野菜を、塩と香辛料で煮込んだだけの素朴な料理。
だが、歩き疲れた身体には妙にうまい。
修司はパンをちぎりながら、今日一日の出来事を思い返していた。
バイクは町の修理屋へ預けた。
転倒の衝撃でエンジンまわりに不具合が出たらしい。
必要な部品が届くのは、一週間後。
この辺りへの部品配送は、週に一度の定期便しかないという。
つまり。
少なくとも一週間は、この町から動けない。
向かいには、昼間の彼女が座っている。
黒い髪。
日に焼けた褐色の肌。
そして、青い明るい瞳。
昼間は犬のことで必死だったから、まともに顔を見る余裕もなかった。
どうやら彼女の名前は、ソーニャ・ヴォルコワ。
その隣にいる女性は、母親のナディア・ヴォルコワ。
犬を助けたお礼と、バイクを壊してしまった詫び。
そんなこんなで、今夜は二人の家で夕食をご馳走になっていた。
それだけではない。
バイクが直るまでの当座の宿まで、世話になることになった。
修司は最初、さすがにそこまではと断った。
だがソーニャは、
「空いてる部屋、あるから」
と譲らなかった。
以前は父親が使っていた部屋らしい。
父親は、もう亡くなっているという。
ホテル代を払うと言っても、首を横に振られた。
犬を助けてもらった。
そのうえ、自分の馬がバイクまで壊した。
だから気にするな。
どうやら、そういうことらしい。
修司は煮込みを一口食べた。
「……フクースナ」
ナディアが嬉しそうに笑った。
「日本から来たの?」
修司は頷く。
「はい」
「旅行?」
少し考える。
「……まあ、そんなところです」
ソーニャも何か言う。
修司は少し考えてから返事をした。
「それでね、母さん。シュージがベルカを助けてくれたの」
ソーニャは身振りを交えながら、昼間の出来事を話し始めた。
「私がずっと外せなかった罠を、あっという間に外したのよ」
ナディアが修司を見る。
「まあ。それは本当にありがとう」
ろくにGPSの設定もせず、気の向くまま走っていた。
ソーニャたちに聞いたところ、ここはアルサニア共和国、カラト村という場所らしい。
旧ソ連邦の一角。
カスピ海の北、ヨーロッパと中央アジアの境目あたりにある小さな国だ。
修司自身、名前くらいしか知らなかった。
こんなにロシア語を使ったのは、いつ以来だろう。
若い頃、サハリンとの交流事業を担当したときに少しかじった程度だ。
まさか二十年後。
こんな異国の食卓で、そのロシア語を使うことになるとは思わなかった。
そうだ。
俺は、北海道から逃げてきたのだ。
あのクソのような職場から。




