第9話「小さな作業台と、増えた仲間」
作業台が厨房に増えたのは、それから数日後のことだった。
大げさなものじゃない。木を組んだだけの、ただの台がひとつ増えただけだ。それでも、狭かった厨房の隅に、明らかに人が動ける余地ができた。
下働きのうち二人が、ゲルトの指導のもとで香辛料の配合を教わることになった。若い方の一人は、最初あからさまに嫌そうな顔をしていた。
「なんでおれたちが、こんな面倒なこと」
その呟きは、俺の耳にも届いていた。無理もない。今までただ雑用をこなしていればよかったのに、急に新しい仕事を覚えろと言われているのだ。
だがゲルトの様子が、以前とは違っていた。
「面倒だと思うなら、それでいい。ただ、覚えておいて損はしない」
突き放すでもなく、無理に押しつけるでもない言い方だった。渋々といった様子ながら、下働きたちは配合を教わり始めた。最初は手つきもぎこちなかったが、数日もすると、簡単な工程くらいはこなせるようになっていった。
現場の空気が、少しずつ変わっていくのが分かった。厨房に、以前はなかった緊張感と、それに近い活気が同居していた。
量産の目処が立ち始めたことで、次に見えてきたのは「マルクへの定期的な納品」という現実だった。単発で一度売る、というこれまでのやり方とは違う。決まった周期で、決まった量を運ぶ必要が出てくる。
「これ、思ったより頻繁に隣領との行き来が必要になりますね」
クラーラが帳面を見ながら呟いた。俺も同じことを考えていた。これまでは屋敷の中で完結していた話が、初めて外との定期的な往復に変わろうとしていた。
「馬車で行き来するだけなら、そんなに」
言いかけたところで、横にいたハンナが口を挟んできた。
「ノア様、それ、危なくないですか」
「危ない?」
「隣領までの道、そんなに整備されてるわけじゃありませんし、野盗や獣が出ることだってあります。今までは荷物だけ運んでましたけど、これからは決まった時間に、決まった道を通ることになるんですよね。……狙われやすくなります」
言われて、初めて気づいた。
これまで、俺は経済の話ばかりに気を取られていた。数字の裏を読むことばかり考えていて、自分の身の安全については、ほとんど頭になかった。
剣術Lv.0。魔力Lv.0。
鑑定を持ち出すまでもなく、俺は自分のステータスを思い出した。戦闘に関しては、正真正銘の無力だ。これまでは屋敷の中で完結する話だったから問題にならなかったが、外を頻繁に行き来するとなれば、話は変わってくる。
「……護衛、要るかもしれない」
「ですね」
クラーラもハンナも、同時に頷いた。
その日の夕方、俺は父にその話を持っていった。
「父上、これから隣領との行き来が増えます。道中の護衛を、誰かつけてもらえないでしょうか」
父は少し驚いた顔をしたが、今回は取り合わないということはなかった。
「護衛か。……お前がそこまで気を回すとは思わなかったな」
「これまでは考えてませんでした。必要になったので」
正直に答えると、父はふっと息を吐いた。呆れているのか、感心しているのか、判断のつかない表情だった。
「心当たりが、ないわけじゃない」
「……本当ですか」
「うちには、使いどころのないまま置いている人間がいる。腕は立つが、ずっと厩舎の世話くらいしかさせていない者だ」
父の言い方には、含みがあった。詳しいことはまだ聞かせてもらえなかったが、少なくとも「いない」とは言われなかった。それだけでも、今の俺には十分な収穫だった。
「一度、その者に会わせてみよう。お前の目にどう映るかは、任せる」
「ありがとうございます」
部屋を出てから、俺はクラーラとハンナに、その話を伝えた。
「腕の立つ人間、ですか」
「詳しいことは、まだ何も聞いてない。名前も、どんな人かも」
「楽しみですね」
クラーラが少し笑いながら言った。俺はというと、期待半分、不安半分だった。
経済の話なら、多少の自信がある。だが人を見る目、それも戦い方に関することとなると、まるで畑違いだ。前世でも、腕っぷしの強い人間と渡り合った経験なんて、ほとんどなかった。
剣も魔力もない俺にとって、これは初めて向き合う種類の課題だった。
数字ではどうにもならないものが、この先にはある。
(第10話「厩舎に眠る、剣の遣い手」へ続く)




