第81話「エリーゼの選択」
その夜、生徒会室にはもう誰も残っていなかった。
窓の外は暗く、机の上のランプだけが、エリーゼの手元を照らしている。彼女は封を切った手紙を、ゆっくりとこちらへ差し出した。
「読んでも、いいんですか」
「ええ。ノアには、見てほしいのです」
受け取った便箋は、上質な紙だった。指に当たる縁のざらつきが、書き手の几帳面さを伝えてくる。
エリーゼの父、シュタイン卿からの手紙だった。婚約の条件が正式に整ったこと、フェルディナント家との関係が安定したことへの安堵。そして後半に、本題が書かれていた。
『卒業後は速やかに領へ戻り、年内を目処にフェルディナント家との婚礼の準備に入りたい』
ざっと目を通して、顔を上げた。
「結婚の時期を、卒業の年内に、ですか」
「向こうの家からの希望だそうです。条件が整った以上、先延ばしにする理由はない、と。……確かに、筋は通っています」
エリーゼは、薄く笑った。笑っているのに、目が少しも笑っていない。
「ただ、私には、まだやりたいことがあって」
「やりたいこと?」
「シュタイン領の交易所です。父の代から手が回らなくなっていて、毎年、赤字を出し続けています。ずっと、あれを立て直してみたいと思っていました。この三年、学院で学んだことは、そのためだったのです」
初耳だった。いつも冷静で、人の話を聞く側にいた彼女が、こんな顔で自分の願いを口にするのは、初めて見た。
「その手紙には、交易所の話は、一言も書かれていません」
「父にとっては、嫁入りの前に済ませるような仕事ではない、ということでしょう」
エリーゼの指が、便箋の端を静かにつまんだ。
「ノア。お願いがあります。私の考えを、数字で整理するのを手伝っていただけませんか。結婚を先に延ばしたい、という話を、ただの我が儘にしたくないのです」
「俺でよければ」
机にもう一枚、白い紙を広げた。エリーゼが持参した交易所の収支の控えを並べていく。ひとつひとつの数字を目で追うと、視界の端がじわりと冴えた。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】
対象:シュタイン領交易所の年間収支
収入:金貨三百二十枚前後
支出:金貨三百八十枚前後
赤字:年六十枚前後
主因:領内産の織物と穀物の値付けが、市場価格より常に二割ほど低く固定されている
改善の余地:値付けの見直しと、買い付け先の複線化により、二年で収支均衡の見込み
「二年、ですか」
「はい。値付けを現状の慣習から市場の相場に合わせて、買い手を一つの商会に頼らないようにするだけで、赤字はほぼ消えます。大がかりな仕組みは、いりません」
「二年あれば、結婚を、二年延ばしてもいい理由になる……」
「はい。ただ、重要なのは数字そのものより、フェルディナント様にとっての利益です。交易所が黒字になれば、シュタイン家の財政は安定する。彼の家が結ぶ縁として、価値が上がる。延期は損失ではなく、投資だと説明できます」
「フェルディナント様は、確実性のある協力関係を望んでおられました。二年後に黒字の交易所という確かな成果が手に入るなら、時期の延期は、むしろ歓迎されるかもしれません」
「あの方は、損得の話が好きですものね」
「それに、この前の交渉で、エリーゼの提案をちゃんと面白がっていました。頭ごなしに退けるような人じゃないと思います」
「……そうですね。あの方は、そういう方でした」
エリーゼの肩から、ほんの少し力が抜けた。
エリーゼは、しばらく黙って紙を見つめていた。やがて、小さく息を吸った。
「ノアは、変わりませんね。私が迷っているときも、いつも、選択肢を数字に落としてくれる」
「俺にできるのは、それだけだから」
「それが、一番ありがたいのです。誰かの代わりに決めるのではなく、私が決められる形にしてくださる」
そこで、エリーゼは姿勢を正した。
「決めました。フェルディナント様に、手紙を書きます。結婚の時期を二年延ばしてほしいこと。その間、シュタイン領の交易所を立て直すこと。そして、その成果を、必ずお見せすること」
「怖くない?」
「怖いです。でも、この婚約を、私が選んだものにしたいのです」
それから、彼女は少し照れたように、視線を落とした。
「ノアに出会うまで、私は、与えられた縁談を、与えられたまま受け入れるものだと思っていました。選んでいい、ということを、教えてくれたのは、あなたです」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。私の、三年分の感謝です」
返す言葉が見つからず、ただ頷いた。彼女の瞳は、ランプの光を受けて、静かに揺れていた。
手紙を書き上げるまで、俺たちは遅くまで机に向かっていた。インクが乾くのを待つ間、エリーゼはふっと笑った。
「これを出したら、きっと、父に叱られますね」
「叱られたら、数字を見せよう」
「そうですね。ノアがいてくれる限りは」
その言葉の続きを、彼女は口にしなかった。俺も、尋ねなかった。ただ、封を閉じる蝋の匂いだけが、部屋に長く残っていた。
(次回「別れの準備」へ続く)




