第80話「卒業生名簿」
基金の告示から一週間。生徒会室の長机は、封筒と便箋の山に埋もれていた。
「ノアさん、封筒の宛名は、住所の順で並べればいいですか」
小さな声で尋ねてきたのは、入学して間もない新入生の少女だった。ミーナ。生徒会の書記補佐として、先日から手伝いに来てくれている。真面目で、字がきれいで、数字にも強い。まだ制服に着られているような背丈なのに、仕事の手は驚くほど速かった。
「うん、それでいいよ。地域ごとにまとめておくと、配達の手間が減るから」
「分かりました!」
ミーナが張り切って机に向かうのを見ながら、俺は部屋の隅に置かれた大きな箱へ目をやった。中身は、リュカが実家から持ってきた名簿の写しだ。
「重かったぞ、これ。運んだ俺に感謝してくれ」
「ありがとう、リュカ。昼食二日分の約束は、ちゃんと守るから」
「三日に戻してもいいんだぞ」
「それは、また別の話」
軽口を叩き合いながら、俺は名簿の最初の頁を開いた。紙の端に指を滑らせると、乾いたインクの匂いが立ち上る。
――景色に薄く数字が重なる。
過去二十年の卒業生、およそ四百名。うち、現在も居所が追えるのは二百八十名ほど。そのなかで、商家や領地の経営に携わり、寄付の余力があると見込める層は、六十名前後。大口は期待できないが、細く長く続く浮動層が、半分以上を占めている。
「六十人ですか。思ったより、いますね」
「うん。ただ、全員が応じてくれるわけじゃない。まずは、反応のよさそうな人から順に、丁寧に手紙を書こう」
エリーゼが、便箋の文面を読み返して頷いた。
「文面は、短く、率直に。ですよね。長い挨拶は、かえって警戒されます」
「俺の下書きも、見てくれ」
ギルベルトが、紙を差し出す。見ると、基金の目的、必要な額、公開される収支の仕組みが、簡潔にまとめられていた。数字の並べ方に、迷いがない。
「すごいな、これ。このまま使えるよ」
「実家の帳簿に、毎晩付き合っているからな。嫌でも覚える」
ギルベルトは、少し得意げに鼻を鳴らした。
そこへ、生徒会長のロザリンデさんが、書記のハインツと連れ立って入ってきた。
「進んでいるわね。見せてちょうだい」
ロザリンデさんは便箋の束を手に取り、一枚ずつ丁寧に目を通した。会長の肩書きがついてまだ日が浅いのに、背筋の伸ばし方がもう板についている。
「文面は問題なし。署名は、生徒会長の私と、学院長の連名にしましょう。会計のあなたの名前も、末尾に入れておくわ」
「俺も、ですか」
「当然でしょう。この案を持ってきたのは、あなたなんだから」
ハインツが、記録帳に何か書き込みながら、小声で付け足した。
「発送の記録は、僕のほうでつけます。返事が来たときに、誰にいつ出したか、すぐ分かるように」
「助かります」
二人が席に着くと、部屋の中の作業は、さらに速度を増した。
しばらく黙って手を動かしていると、名簿を繰っていたリュカが、ふと手を止めた。
「なあ、ノア。これ、見てくれ」
指差された頁に、見覚えのある名前があった。
『レオン・フォン・ダレンベルク。卒業年、十一年前。首席』
「レオン様も、この学院の卒業生だったのか」
「そうみたいだな。しかも、首席だぞ。あの人」
意外だった。けれど、考えてみれば当然かもしれない。帳簿を読む目も、人を測る視線も、ここで磨かれたのだとしたら、納得がいく。
ふと思い出す。学院長が、レオンを「君」と呼んでいたことを。あれは、昔の教え子に向ける呼び方だったのだ。
「手紙、送る?」
エリーゼが、悪戯っぽく尋ねた。
「それは、さすがに。監査の担当官に、寄付のお願いは出せないよ」
「ふふ、冗談です。でも、いつかお礼状くらいは書けるといいですね」
夕方、作業が一段落すると、ミーナと生徒会の面々は先に引き上げた。部屋には、リュカと俺だけが残った。
「ノア。ちょっと、いいか」
リュカが、珍しく真面目な顔で、窓際に腰を下ろした。
「俺さ。商家を継ぐのは、もう決まってることだって、ずっと思ってたんだ」
「進路調査の紙にも、そう書いてたね」
「ああ。でも、この一年、お前たちを見てたら、なんか、違う気がしてきた」
言葉を探すように、リュカは天井を見上げた。
「継ぐだけじゃ、つまらない。親父の商いに、お前の考える仕組みを乗せたら、どうなるんだろうって。そう考えたら、ちょっと、ワクワクしてさ」
「リュカ……」
「いや、まだ何も決まってない。ただ、言っておきたかっただけだ。卒業しても、一緒に何かやれたらいいなって」
照れ隠しなのか、リュカはすぐに視線を逸らした。けれど、その横顔は、耳まで赤かった。
「俺も、そう思ってる」
そう答えると、リュカは「そっか」とだけ言って、にっと笑った。
窓の外では、夕焼けが校舎の壁を橙色に染めていた。ここへ来た日のことを、不意に思い出す。誰とも組まず、一人でどうにかしようとしていた、あの頃のこと。
三年かけて、隣に並ぶ人が、これだけ増えた。それが、一番の収穫だったのかもしれない。
その夜、エリーゼから一通の手紙を渡された。
「父から届いたのです。ノアにも、少し聞いてほしくて」
封を切った彼女の表情は、いつもより少しだけ硬かった。
(次回「エリーゼの選択」へ続く)




