第79話「補助基金の誕生」
ハルトマン氏の裁定から十日。学院の掲示板に、一枚の告示が貼り出された。
『特待生補助基金の設立について』
人だかりの後ろから背伸びして読んでいると、横からリュカが肩を叩いてきた。
「ついに出たな。まさか、お前の案がそのまま通るとは」
「通ったのは、学院長とハルトマン様のおかげだよ。ここからが、本番」
実際、本番はこれからだった。基金は、作っただけでは何も動かない。
昼には、中庭でエリーゼとギルベルトが待っていた。二人とも、掲示を見たらしい。
「ノア、卒業生への呼びかけなら、私にも手伝わせてください。父の知り合いの貴族家には、学院の出身者が何人もいます」
「俺は大した顔の広さはないが、手紙の下書きなら書ける。実家の帳簿を毎晩見ているから、数字の見せ方だけは少し分かってきた」
ギルベルトが、照れくさそうに言った。一年前の彼からは、考えられない言葉だった。
「ありがとう。二人とも、助かる」
「お礼なんて。ノアには、私たち、散々助けていただきましたから」
エリーゼの笑顔に、俺は素直に頭を下げた。
その日の放課後、生徒会室に運営の顔ぶれが集まった。学院長、事務官のブルーノさん、生徒会長のロザリンデさん、会計の俺、そして卒業生の代表として、ハルトマン商会から派遣された若い番頭が一人。
「まず、基金の中身を整理します」
俺は黒板に、帳簿から起こした数字を並べた。視界の端が、すっと冴える。
――景色に薄く数字が重なる。
〈基金元本:金貨八十枚(ハルトマン家の肩代わり五十枚+ヴァルター殿の返済済み三十枚)〉
〈毎年の収入見込み:金貨百四十枚(既存財源七十+生徒会余剰四十+卒業生寄付三十)〉
〈毎年の支出:金貨百五十枚〉
〈年間不足:金貨十枚前後〉
〈元本の取り崩しで、約八年は維持可能。ただし、寄付が目標に届かない年は、その限りではない〉
「八年……。それは、長いのでしょうか」
ロザリンデさんの問いに、俺は首を横に振った。
「八年あれば、卒業生の寄付が育つ時間は十分あります。ただ、育たなければ、また同じ穴が開きます。だから、元本には手をつけない運用を目標にしたいです」
「具体的には?」
「卒業生への呼びかけを、毎年続けます。金額の大小は問いません。補助を受けた人が、卒業後に無理のない額で返していく仕組みにしたい。恩を返す先が見える形に」
ブルーノさんが、手元の帳面に書き留めながら顔を上げた。
「収支の公開は、私のほうで毎年、写しを作ります。領収も、必ず添えて」
「お願いします」
番頭が、静かに頷いた。
「ハルトマンにも、そう伝えます。主人は、そういう仕組みが好きですから」
会議の終わり際、学院長がふと言った。
「実は、もう一つ、報告がある。ヴァルター殿が、今日、基金の最初の預け入れのために、学院にお見えになっている」
廊下に出ると、玄関のほうから足音が近づいてきた。杖をついた細身の老人。ヴァルターだった。
その向こうから、ケインが小走りに駆けてきた。
「あ、すみません。通ります」
「いや、構わんよ」
ケインがぶつかりそうになって、慌てて頭を下げる。ヴァルターは、穏やかな目で彼を見下ろした。
「君は、特待生かね」
「はい。ケインと言います」
「そうか。……勉強は、楽しいかね」
ケインは少し驚いた顔をして、それから、嬉しそうに笑った。
「はい。毎日、楽しいです。先輩に聞いたんです。昔、補助が危うかった年があったって。それが続いたおかげで、僕も今ここにいられるんです。いつか、その誰かにお礼が言えたらいいなって、思っています」
ヴァルターの喉が、小さく動いた。
「……そうか。きっと、その誰かにも、届いているだろう」
「だと、いいんですけど」
ケインは一礼して、廊下を駆けていった。残された老人は、その背中が見えなくなるまで、じっと立っていた。眼鏡の奥が、わずかに滲んでいる。
「ノア君」
「はい」
「私は、あの子に、何も言わなくていいのだろうか」
「言わなくていい、と思います」
少し考えてから、俺は答えた。
「ケインは、もう答えを持っています。『誰かが守ってくれたから、今ここにいる』と。それ以上の説明は、あの子に重さを背負わせるだけです。お礼は、基金が続くことで、伝わります」
ヴァルターは長く息を吐いて、深く頷いた。
「君は、年に似合わぬことを言うね」
「よく言われます」
苦笑して返すと、老人も、ようやく声を立てて笑った。
その夜、基金の第一号の台帳が、ブルーノさんの手で開かれた。最初の頁に、ヴァルターの署名が入る。三十枚。インクが紙に染みていく様子を、俺は黙って見ていた。
穴は塞がった。けれど、塞がった跡が、きれいに残るように。ここからは、続けることが仕事だ。
台帳を閉じるブルーノさんの手つきは、どこか誇らしげだった。三年前に言えなかった言葉を、ようやく紙の上に置けたような顔だった。
窓の外では、春の終わりの風が、庭の木々を揺らしていた。最終学年の季節は、静かに先へ進んでいく。
(次回「卒業生名簿」へ続く)




