第78話「ハルトマンの問い」
二日後の午後、学院の応接室は、いつもより椅子の数が多かった。
学院長、レオンと二人の書記、ブルーノさん。そして、俺。壁際の椅子には、ヴァルターが静かに座っている。自分から出向くと言い出したのだと、先ほど学院長に聞いた。
扉が開いた。
入ってきたのは、六十前後の男だった。仕立てのいい灰色の上着に、よく磨かれた杖。背は高くないのに、部屋の空気がひとつ引き締まった気がした。
「ゲオルグ・ハルトマンです。お待たせしましたかな」
「いいえ。遠いところを、ありがとうございます」
学院長が席を勧める。ハルトマン氏は腰を下ろすと、真っ先にヴァルターの方を見た。
「久しいな、ヴァルター殿」
「……ご無沙汰しております」
それだけの挨拶だった。レオンが報告書を読み上げる間、ハルトマン氏は一度も口を挟まず、目を閉じて聞いていた。修繕費の水増し、八十枚、補助への流用、そして返済。数字が並ぶたびに、杖を握る指が、わずかに動く。
読み終えて、レオンが紙を置いた。
「以上が、事実です。処分については、監査局は意見を付しません」
「結構」
ハルトマン氏は目を開けた。そして、あろうことか、真っ直ぐに俺を見た。
「君が、ノア君かね。報告書の末尾に、補助の財源についての案が添えてある。あれは、君のものか」
「はい」
「立ちなさい」
言われて、俺は椅子から立ち上がった。
「いくつか、尋ねる。まず一つ。君は不正を見つけた。見つけた以上、報告で終わらせればよかったはずだ。なぜ、わざわざ手を出した」
「報告だけでは、また同じ穴が開くと思ったからです。ヴァルター様のしたことは、間違っています。でも、補助が毎年足りない仕組みのままなら、次の事務長も、同じ場所で同じ選択を迫られます」
「ほう。では二つ目。八十枚で失われた信用は、君の案で買い戻せるのか」
「買い戻せません」
迷わず、そう答えた。
「信用は、お金では戻りません。見える形で積み直すしか、ないと思います。補助の収支を毎年、寄付をしてくださった方々に公開して、どの枠にいくら使ったかを、領収の写しと一緒に残します」
「手間がかかる」
「手間をかけるから、信用になります」
部屋が静まった。ハルトマン氏は、じっと俺を見つめたまま、懐から一通の封書を取り出した。古びた封筒だった。
「これを、見てもらおう。ヴァルター殿が、二年前に退かれる際、私に宛てた手紙だ」
差し出された手紙の表を、俺は両手で受け取った。指先に、紙の繊維の細かい凹凸が伝わる。
――景色に薄く数字が重なる。
文面は短かった。使途に偽りがあったこと、金額、返済を始めること。そして末尾に、「いかなる処分も受け入れます」とある。ただ、気づいたことがひとつあった。封筒の裏の封蝋の脇に、細かな折り目が三本。何度も開いて、読み返された跡だ。
「受け取って、すぐに読んだ。だが、返事は出さなかった」
ハルトマン氏が、低い声で言った。
「ヴァルター殿は、驚いた様子だったな。……待っていたのだよ。この学院が、自分の手で、自分の穴に気づくのかどうか。外から暴かれる前に、中の者が見つけて直せるのかどうか。私は、それを見たかった」
学院長が、息を呑んだ。
「ハルトマン殿、それは」
「試すようなことをして、すまなかった。だが、寄付とは、金を渡して終わりではない。渡した先が、自ら正せる場所かどうかで、次を渡すかを決める」
そこで、ハルトマン氏は初めて、わずかに口元を緩めた。
「結果、君が見つけた。そして、隠さず、案まで持ってきた。十分だ」
ヴァルターが、深く頭を下げた。肩が、小さく震えている。
「処分についてだが」
ハルトマン氏は、続けた。
「返済は、続けてもらう。だが、残りの額は、補助の基金への寄付として、私が肩代わりする。ヴァルター殿の三十枚は、そのまま基金の最初の積み立てとしよう。代わりに、寄付の使途に『特待生補助』を正式に加える。そのうえで、毎年の収支報告を、私の元にも届けること」
「……ありがとうございます」
「礼は、ノア君に言いなさい」
視線が、また俺に戻った。
「君には、あとで一つだけ宿題を出す。卒業したら、一度、うちの帳場を見に来なさい。数字を読める者は、少ない。読んだうえで、人の事情まで見られる者は、さらに少ない」
不意の言葉に、頭が追いつかなかった。レオンが、視線の端でこちらを見ていたのが分かった。
「……はい。考えさせてください」
「それでいい。即答する者は、あまり信用せん」
応接室を出ると、廊下の窓から春の光が差し込んでいた。八十枚の件は、思いがけない形で、ひとまずの決着を見た。
「ノア」
呼ばれて振り返ると、レオンが書類鞄を抱えて立っていた。
「報告書は、予定通り明日提出する。事実は曲げていない。だが、お前の添付資料は、ハルトマン殿の言葉と一緒に、上にも通すつもりだ」
「ありがとうございます」
「勘違いするな。お前を買っているわけじゃない。使えるものは使う、それだけだ」
そう言いながら、レオンの横顔は、ほんの少しだけ和らいで見えた。
「それと。卒業後の件は、ハルトマン殿に先を越されたようだな」
「そんな、競うような話では」
「競うようになる。そのうち、嫌でもな」
意味ありげな言葉を残して、レオンは廊下の奥へ歩いていった。
けれど、卒業の先が、また一つ、増えてしまった。
(次回「補助基金の誕生」へ続く)




